琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「誰かを助ける」ということ

参考リンク(1):「学費を支援してくださる方を探しています」(BLOGOSの「話題」より)


 もう、この件については語り尽くされているようでもあるのだけれども。


 僕はこのstudygiftというのと、その広告塔になった大学生・坂口綾優さんの写真をみて、なんだかすごくモヤモヤしてしまったんですよ。
 そして、この件について、あまりに世間の反応が厳しかったことにも。


 ネットで、坂口さんを責める声には「学生は学業が本分のはずなのに、自分が勉強しなくて留年したツケを、社会にまわすな!恥を知れ!」みたいなのが少なからずありました。
 僕もそう思うところはあります。
 少なくとも、留年したのは、本人の責任です。


 でもまあ、大学時代、勉強と部活に明け暮れ、そんなに羽目を外すこともなく、地道に単位を取り、国家試験にもストレートで受かった(って言っても、9割くらい受かっちゃう試験なんですけどね)僕としては、逆に、こんなことも考えてしまうのです。


 みんな、本気で「学生の本分は勉強だ!」なんて思ってたっけ?


 うーん、僕はいわゆる「学校秀才」として、あまり社会の波にもまれることもなく、専門職につき、こうして生活しています。
 そんななか、かつての大学の同級生や先輩、後輩、そしていまの自分について、あらためて考えてみると、なんだかとても虚しく感じることがあるのです。

 大学時代に真面目に学校に通って、単位を落とさなかったからといって、「良い医者」になれるとは限らない。

もちろん、「まともに講義に出ず、そのままドロップアウトしていった人」も少なからずいます。
確率みたいなものでいえば、たぶん、「学校秀才型」のほうが、「平均的な医者になりやすい」のだと思うのです。
でも、留年したり、単位を落としまくりながら、なんとか医者になった連中の「人柄」とか「人間としての幅」みたいなものへの憧れも、あるんですよね。
医療は「究極のサービス業」なんて言われますが、まあ、ちょっと困った人と接する機会も、少なからずあるわけです。
そういうときに、ほがらかに、おおらかに対応して「いい先生」だと言われるのは、「回り道をした人たち」だったりするんですよ。
コミュニケーションが苦手で、この線路から脱線したら、谷底に落ちるしかない、と考えて生きてきた僕には、「遊んで留年できるくらいのバイタリティがある人たち」を羨む気持ちがあります。


ネット上で「正論」を述べて、留年した人を責めている人だって、大部分は大学時代には「とにかく学業最優先」ではなかったはず。
そもそも、大学時代なんて、「勉強していないフリをするのが美学」みたいなところもありましたし。


僕は坂口さんも、坂口さんを広告塔にした人も責めるつもりはありません。
本人にとっては「大学生活でお金がない!」っていうのは切実な問題であり、違法ではない「稼ぐ方法」があれば、それをやってみようと考えるのは、当たり前のことだろうし。
彼女に「投資」する人たちも、「物好きだなあ」と感じる程度です。
「留年したこと」が人生のすべてではないし、それをプラスにするのもマイナスにするのも、今後の彼女しだいでしょう。
大きな仕事をした人には、大学を留年したり中退した人なんて、たくさんいますから。
北野武さんは、明治大学を中退したのですが、活躍が認められ、後日、卒業資格をもらったそうです。それはそれで、なんだかなあ、とも思いますけど。
正直、「いまさら大学を卒業するのにこだわらなくても……とか考えたりもするのですが、僕が親だったら、留年はしょうがないから、なんとか卒業はしてくれ!」って言うだろうなあ。せっかく早稲田に入ったんだしさ。


お金の件でいえば、僕にこの人に投資する5000円があるなら、自分の息子に本を買うのが先だな、と思います。
個人的には、5000円出すと配信してもらえるという「学生生活のリアル」を書いたメルマガって、どんな内容なのだろう、とか(自己啓発や起業のセミナーの宣伝ばっかりだったら、かなり興醒めです)、「株主総会」には、どんな人たちが集まってくるのだろう、というのには、黒い興味があるんですけどね、困ったことに。


まあ、率直なところ、彼女はたぶん、本当にお金に困っているわけではない。
そして、寄付というのは(「出資」だそうですが)、本来、お金に困っている人がする必要もない。


参考リンク(2):家入一真さんの例の件で願うことなど(やまもといちろうBLOG)

こちらで、やまもといちろうさんが書かれているのですが、そのお金を、「もっと切実に必要としている人」がいるんじゃないか、とも思うのです。
ただし、坂口さんがこうして叩かれているのも、「彼女が切実に困っているわけではない」ことをみんな知っているから、ではあるんですよね。



でもさ、坂口さんも、ネットで攻撃してくるような人たちに「投資」してもらおうなんて、全く考えていないはずです。
主な顧客は「宣伝目的の企業」で、一部に「お金がちょっと余っているオジサマ」といったところでしょう。
炎上することによって話題となり、本来のターゲットの目に触れる機会が増えれば、それはそれで結構なことのはず。
もちろん、あまりに反発が強いと、スポンサーもお金を出しづらくはなるでしょうけど。


しかし、「誰かを助けようとすること」って、考えれば考えるほど難しいものですね。
「坂口さんは助ける相手として不適当」なら、誰ならば適当なのか?
震災の被害に遭った人たちなのか、いや、いまこの瞬間にも餓死しているかもしれない、アフリカの子どもたちなのか、それとも、手の届く場所にいる、交通事故の被害者遺児たちなのか……


自分の子どもや家族には、なるべく不自由な思いはさせたくない。
そう考えると、大部分の人は、「援助」する余裕なんて、なくなってしまいます。
それでも、少しでも「善意」を誰かに届けようとするとき、誰に向けるべきなのか?


僕は、このstudygiftの事例で、「ネット社会での、情報発信力格差」のことを考えさせられました。


 津田大介さんの『動員の革命』という本のなかで、積極的にブログで「震災の被害情報」を発信している長野県栄村が、もっと被害の大きな町よりも多くの寄付を集めている、という事例を紹介されています。

 これは、「成功例」として紹介されているのですが、「もっと被害の大きな町」の立場からすると、なんともやりきれないものがあるはず。


「なんで、ウチのほうが被害が大きいのに、ネットでの『プレゼンテーションが上手い』という理由だけで、寄付に差ができてしまうんだ?」


今回のstudygiftでの坂口さんの事例への反発は、「ネットをうまく使える人間が、プレゼンテーションの技術を利用して、お金を集めようとしている」ことへの反感が大きいのではないかと僕は思います。
要するに「そんなに困ってもいないのに、ズルして稼ぎやがって!」みたいな感じです。


津田さんの『動員の革命』では、こういう、誰でも「やり方しだいで多くの人やお金を集められる可能性」こそが、ソーシャルメディアの「革命」なのだと語られていますが、そこは「よりいっそう弱肉強食化した社会」「プレゼンテーションが上手い人が、総取りしてしまう社会」なのかもしれません。
「誰かを助ける」というのは、「それ以外の人を助けない」という選択でもあるのです。


これは、望ましい変化なのだろうか?
でも、「革命」は、もうすでに始まってしまっているのです。
みんな「出た杭を打っている」つもりで、実際は「もっと知られるべきだったものにアクセスする時間と機会を奪われている」。
これからは、この「情報発信力格差社会」で、「選択」していかなければなりません。
それは、なんだかとても厳しい時代の到来に、僕には感じられるのです。

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