琥珀色の戯言

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なぜメルケルは「転向」したのか ☆☆☆☆


なぜメルケルは「転向」したのか

なぜメルケルは「転向」したのか

内容紹介
ドイツ首相アンゲラ・メルケルは、1989年の東西ドイツ統一後、最も成功した旧東ドイツ出身者といわれる。
1954年ハンブルク生まれで、父親ルーテル教会の牧師。生後数週間のメルケルは、教会の指示で東ドイツ
移るように命じられた両親と一緒に東ドイツへ移住した。


宗教に厳しい社会主義政権下にもかかわらず、メルケルは平穏な生活を送る。ライプチヒ大学で物理学を
専攻し、理化学中央研究所で研究者として働いた。激動のベルリンの壁崩壊時には、「民主主義の出発」結党メンバー
となり、政治の世界に入った。統一後初の国政選挙には合流したキリスト教民主同盟(CDU)から出馬して初当選。
翌91年にコール首相によって女性・青少年問題相に抜擢されて入閣。コールの秘蔵っ子といわれた。


2000年に野党となっていたCDUの党首となったメルケルは、2005年に社会民主党との大連立政権で首相に就任した。
保守政党CDUの方針通り、メルケル原子力関しては明確な原発推進派だった。ところが、3・11の福島の
原発事故を機に原発撤廃へと態度を変える。そして、2011年6月、ドイツ連邦議会は「2022年12月31日までに原発
完全廃止」を決めた。


本書は元NHK記者でミュンヘン在住21年のジャーナリストが、メルケルの「転向」に象徴されるドイツの
原発政策転換の背景をドイツの政治、社会の動向から追跡したノンフィクション。世界最強の環境政党・緑の党
存在、原発をめぐる世論を二分しての40年戦争、リスク感覚が異常ともいわれるドイツ人の不安心理など多角的に
「転向」を説明している。


この本で、著者はまず、東日本大震災福島原発の事故についての日独の報道姿勢の違いを指摘します。

 日独の伝え方には、大きな違いがあった。NHKのニュースでは、確認されていない情報はすぐに伝えず、「安心情報」を盛り込もうという姿勢が感じられた。未曾有の地震津波原発事故におびえる市民に不安感を与えないようにし、パニックが起こるのを避けるためだろう。
 ところがドイツの放送局には、そんな配慮はなかった。最初の一週間は宮城県名取市を襲った津波が民家や農地を呑み込む模様を、ヘリから撮影した映像や、市街地で家屋や車が押し流されていく映像が繰り返し放映されて、視聴者に衝撃を与えた。犠牲者や遺族に対する配慮から、日本の新聞や雑誌には顔がわかる遺体の写真は掲載されなかったが、ドイツのニュース雑誌は、死者の顔まではっきりわかる大判の写真を載せた。
 元々ドイツのメディアは日本の報道機関に比べて歯に衣を着せない傾向があるが、福島事故については特に悲観的な論調が強く、市民に不安を与える内容だった。ニュース番組のキャスターやインタビューに答える専門家は、福島事故が発生した直後の、まだ十分に事実関係がわかっていない時点から「1986年のチェルノブイリ原発の事故並みの、最大級の事故になる」と決めつけていた。

福島原発の事故からわずか数か月で、「今後、原子力発電所を少しずつ停止していき、2022年に完全に原子力発電をやめる」という決定をしたドイツ。
そのニュースを耳にしたときには、「遥か遠くのヨーロッパの国でさえ『危険だから止める』と言っているのに……、なぜ、いまその被害を直接体験している日本が『もう止める』と決めることができないのだろう?」と、なんだかやりきれない気持ちになったものです。


でも、この本を読んでみると、ドイツには、これまで半世紀にわたる「反原発の流れ」や「緑の党の躍進」があり、また、チェルノブイリの事故を経験してきた、という歴史があったんですね。
日頃、ドイツという国について、あまり知ろうとしなかった僕にとっては「突然の決定」でも、ドイツ国民にとっては、「日本のような技術大国でさえ、原発事故を防げなかったこと」で、世論が一気に「脱原発」に向かっていく下地は十分にあったのです。


ドイツでの「福島原発の事故報道」が、「中立性を欠いた、あまりにも悲観的なもの」であり、反原発派の政治的な主張を強く反映したものである、という批判もあったようです。

 実際、ドイツの言論人や知日家の中にもこの国の震災報道に疑問を抱く人がいた。経済誌Wirtschaftswoche(経済ウィーク)編集長ローラント・ティシーは三月下旬に、犠牲者に対する哀悼と日本国民への連帯の意を表す声明を同誌ウェブサイトに発表したが、その中でドイツの震災報道を厳しく批判し、「ドイツの公共放送は恐怖感を煽っており、多くのジャーナリストが事実と憶測を区別せずに報道している。私は同業者として恥ずかしく思う」と告白した。
 ドイツの政治家は原発事故によって自分の政党に利益をもたらそうとしていると批判し、「反原発デモに参加してはしゃぎ、選挙戦が有利に展開されていることについて嬉しさを隠し切れない緑の党の党首にかわって謝罪したい」とまで述べた。ティシーは、「我々ドイツ人は、きちんと躾けられていない子どものように振る舞っている。その態度は利己主義的・独善的で思いやりがない」と厳しく自己批判した。
 ドイツに住んでいる日本人の中には、不安を煽るようなドイツのメディアの報道姿勢に疑問を感じる人が多かったので、ティシーのメッセージを読んで勇気づけられたという人もいる。


それにしても、「世論や選挙の結果」で、これほどの大きなエネルギー政策の転換を短期間で行うドイツに比べて、国民の意向が積極的に問われることもなく、経済界の顔色ばかりうかがっているようにみえる日本というのは、なんだかすごく「国民不在の政治」のような気がしてきます。


この本のタイトルと表紙に大きく描かれたドイツのメルケル首相のイラストを見て、ああ、これは「ドイツの原子力政策を大きく転換させた、メルケル首相の半生記なのかな」と思っていたのですが、内容はちょっと違いました。
実際は、「ドイツ人の国民性と、原発や環境保護政策の歴史」を概説している本なんですよね。
ドイツの迅速な「脱原発」は、メルケル首相の個人的な力で成し遂げられたものではないのです。


正直に言うと、僕のなかでは、こんなに迅速に脱原発を打ち出したドイツへの憧れというか、賞賛の気持ちがありました。
でも、この本を読んでいると、ドイツ人もまた、ある意味、「極端すぎる人々」なのかもしれません、
著者は、ドイツ人の「不安」の強さについて、多くのページを割いて語っていますが、たしかに、「脱原発による経済的な影響を細かく計算するよりも、まずは安全、安心のために、脱原発の方針で動き、詳細はあとから詰めていく」というのは、「そこまでやるのか」とも思うんですよね。
理念は素晴らしいけれど、それを実現することが、本当に可能なのか?
これは、ドイツの経済に、大きなダメージを与えるリスクもある「選択」でもあるのです。
福島原発の事故は地球の反対側のことですし、ヨーロッパの「原発大国」であるフランスは、原発縮小の方向には向かっていないようです。
先日、報道番組でイタリアの電力事情について伝えられていたのですが、イタリアでは、自国内での発電量が不足しているため、他国から電気を買っており、一般家庭の電気代が2〜3万というのが珍しくもないそうです。
ただでさえ、不景気にあえいでいる国なのに。
(もっとも、これは原子力発電に縁が深い日本テレビの番組だったので、もしかしたら「電力不足への恐怖」をあおるという、なんらかの政治的意図、あるいは配慮があったのかもしれません)


ドイツのさまざまな事情を知るほど、「ドイツに比べて、日本は遅すぎる」のではなく、「ドイツの動きのほうが、あまりにも迅速すぎる」のかもしれないな、とも考えてしまいました。
実際、ドイツは自国内の原発を徐々に停止している一方で、フランスなどが作っている他国の電気(もちろん、原発でつくっているものも含めて)の輸入量が増えてきています。
ヨーロッパは陸続きで、ドイツは多くの国と国境を接していますから、「自国内の原発を全部停止しても、本当に脱原発になるのか?という疑問もあります。
それでも、とりあえず「自分の国が率先してやっていく」ことには意味があるのでしょう。


ドイツでは、福島原発の事故後に「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」が設置されました。
この委員会(原子力技術のプロではない人々)が文明論的な見地からまとめた提言書を、メルケル首相は重視したのです。
ちなみに、原子力の専門家たちによる「原子炉安全委員会((RSK)」は「ドイツの原子炉は、技術的には福島第一原発よりも耐久性が高い」という鑑定書を提出していました。

 委員たちが特に強調するのは、原子力リスクを技術面だけではなく、社会全体として判断することの重要性だ。


「福島事故は、原発の安全性について、専門家の判断に対する国民の信頼を揺るがした。このため市民は、『制御不可能な大事故の可能性とどう取り組むか」という問題への解答を、もはや専門家に任せることはできない」


 提言書は、こう断言している。福島事故以後、ドイツで一段と強まった「技術者に対する不信感」がにじみ出ている。メルケルをはじめとして原発推進派のドイツ人たちは、「どんなに安全措置を講じても完全に消し去ることのできない残余のリスクは小さいので、受け入れることができる」という、原子力の専門家の判断を鵜呑みにしていた。しかし福島事故は、その推定が誤っていたことをドイツ人に悟らせたというのだ。
 この結果、提言書は福島事故のためにドイツでの議論のポイントが「原子力を使用するべきか否か」ではなく、「原発をいつ廃止するか」に移ったと述べる。


国民の「不安感」を重視するあまり、「専門家の判断」を信じることができなくなった国。
それは、かえって危険な場合もあるのではないか、あるいは、リスクをおそれるあまり、何もできなくなってしまうのではないか、などと僕などは考えてしまうのです。
僕自身は、原発反対なのですが、このような「専門家軽視」には、違和感があるのです。
そんなに、自分たちの「感情」を信頼できるのだろうか、と。


それぞれの国には、それぞれの事情があるし、あまり「美談」ばかりを鵜呑みにしてはいけない、それを思い知らせてくれる本でした。
ドイツだって、政権が変われば、「脱原発の方針」が撤回されたり、稼働停止が先延ばしにされる可能性も十分あるのです。
その一方で、「国民の不安を取り除く」ことに、日本の政府はあまりにも無頓着なのではないか、ということも。


それにしても、これだけtwitterなどでは「今後、原子力発電をどうするのか?」が議論されつづけているにもかかわらず、政治の中心にいる人たちは、みんな「今後の原子力政策」について歯切れが悪く、それが「選挙の争点」になりそうもない(社民党共産党は「脱原発」を主張するでしょうけど)というのは、なんだかとても不思議な話ではありますね。

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