琥珀色の戯言

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サブカルで食う ☆☆☆☆


サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法

サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法

内容紹介
ミュージシャン、小説家、エッセイスト、テレビタレント、ラジオパーソナリティ、俳優……数十年に渡りサブカル界の第一線で活躍してきた大槻ケンヂが、自身の活動を振り返りながら、定職につかずに「サブカルで食っていく」ために必要なことを、若者や元若者へ伝授!
ライムスター宇多丸オーケンによる『サブカル対談』も収録。


「早起きできない」「勉強・運動できない」「ネクタイしたくない」「モテない」……普通のことができない全てのボンクラのバイブル的一冊。


そもそもサブカルって何? 映画『モテキ』や雑誌『クイック・ジャパン』が好きならサブカル? 自分もオーケンみたいに好きなことだけやって食べていけるの? サブカルって儲かるの? モテるの? 何なの?……その答えが明らかに。


【目次】
第1章 「サブカル」になりたいくんへ
第2章 自分学校でサブカルを学ぶ
第3章 インディーズブーム~メジャーデビュー
第4章 「人気」というもの
第5章 サブカル仕事四方山話
第6章 サブカル経済事情
第7章 人気が停滞した時は
第8章 筋少復活! それから……
第9章 それでもサブカルで食っていきたい
[巻末特別対談] オーケン×ライムスター宇多丸


あの大槻ケンヂが書いた「サブカルで食べていくための本」といえば、もうこれは読むしかありません。
しかし、「サブカル」っていうのも難しいもので、僕などは、「サブカル好き!」「私は他の人とは感性が違うから」と言っている人がみんな「オーケン筋少大好き!」というのを横目に、「それって、結局『典型的なサブカルが好きな人』なんじゃない?」なんて考え込んでしまうんですけどね。
まあ、「本当に世界中に自分ひとりしか愛好者がいない趣味」であれば、それはもう商売にはならないからなあ。


この本、いわゆる「ハウツー本」なのかな、と思いながら読み始めたのですが、実際は「大槻ケンヂは、いかにしてサブカル者として生き抜いてきたのか」という自伝っぽいつくりになっています。
オーケンの経験から学べ、ということなのでしょうけど、まあ、すでに40男になっている僕としては、「学ぶ」というよりは、オーケンという「サブカル界の巨星」は、こんなことを考えながら生きてきたのだなあ、なんて思いつつ読みました。
逆に「本気でサブカルで食べていこうという人」には参考にはならないかもしれません。
むしろ、「オーケン、こんな生ぬるい本で稼ぐなんて、みっともねえな」というくらい尖ってないと、サブカルで食べていくのは難しいのではないかなあ。


ピリッと山椒がきいたような、「先達の言葉」も、この本のなかには、たくさん含まれています。
オーケンは僕より5つくらい年上なのですが、僕たちの世代って、まだ「思春期にインターネットが普及していなかった」のですよね。パソコン通信とかはありましたが、あれはもう、リッチな好事家とログインの後ろのほうに載っていた「墜落日誌」だけの世界で。

 サブカルな人になりたいと思って自分学校で一生懸命に自習している人が陥りがちなんですけど、色々な本や映画、ライブ、お笑い、演劇を見ているうちに、それを受容することばかりに心地よさを感じてしまって、観る側のプロみたいになってしまうことってよくあるんです。
 だからといって、批評、評論の目を養うわけではなく、それこそツィッターやミクシーに「今日はそこそこよかったなう」とかつぶやくだけで満足してしまう。それでいてチケットの取り方だけは異常に詳しい……みたいな。そういうのを「プロのお客さん」というんです。
 色んなライブを観ました、色んな映画を観ました、でも「じゃあその結果、君はどうしたの?」と聞かれると「え? いっぱい観たんですけど……何か?」で終わっちゃう。もちろん、そういう生き方もあると思いますけど、自分も表現活動をこれからしていこうというサブルなくん、サブルなちゃんは、プロのお客さんになっちゃいけませんよ。
 映画を何本観た、本を何冊読んだ、サブカルになりたいならばその結果、受容したものを換骨奪胎し、自分なりの表現としてアウトプットすることが重要です。それが稚拙であろうとクオリティが低かろうと、まずは自分で何かを表現してみるということが第一歩ですから、もう一度言いますね。プロのお客さんになってはダメです。

ああ、耳が痛い……
twittermixi、ブログに感想を書くと、なんだか「表現」したような気分になってしまうんですよね。
もちろん、それも広義の「表現」なのかもしれませんが、「自分なりの表現」として昇華することは難しい。


それにしても、大槻さんの昔の話は、やっぱり懐かしい。
オーケン、「オールナイトニッポン」の第一部を、短い間でしたが、やっていたことがあるんですよね。

 ある時、ニッポン放送の公開収録番組でライブをやったのですが、いきなりステージから飛び降りてお客さんに向かって「ウギャーッ! ムヒョーッ!」って叫んでつかみかかって……完全にどうかしてました。
 ところが何が評価されるか分からないもんで、それが面白いと言われ、いきなり『オールナイトニッポン』のパーソナリティを任されることになったんです。なんと1部の生放送だっていうじゃないですか。それを聞いた時はホントにヘナヘナーって腰が抜けちゃいましたよ。
 そんな状態だったので、第1回目の放送でも当然ロクにしゃべれるわけもなく、ずっと「キエーッ! ギョエーッ!」って叫んでるだけ。裏のTBSラジオでやっていた『コキサンのスーパーギャング』の放送作家さんが「大槻ケンヂっていう新しいヤツが出てきたらしいぞ」ということで試しに聴いてみたら「キエーッ! ギョエーッ!」って叫んでるので、小堺さんと関根さんに「裏の大槻ケンヂっていうの、アレはただのキチガイだから大丈夫です」と伝えたそうです。それぐらい何もできなかった。

これ、ネタじゃなくて、本当にそんな感じの番組だったんですよね……
当時の『オールナイトニッポン』の1部は「深夜放送の花形」でしたから、オーケンのこの番組には本当に驚きました。


オーケンといえば、筋肉少女帯での「歌」だけでなく、小説やエッセイ、バラエティ番組での「ひな壇芸人」的な仕事までなんでもこなす人なのですが、この本のなかで、とくに僕の印象に残ったのは、「オーケン流ライブテクニック」の話でした。
オーケンは、ライブをやりながら、どんなことを考えているのか?
演者の「目線」について。

 実は、盛り上がってきた時ほど演者は後ろに下がって全部のブロックを見渡した方がいいんです。みんなが均等に演者を観ることができますから。そういう目線を含めての前後左右の動きっていうのは、ステージ上で常に考えないといけないかと思います。
 演者の目線っていうのは重要です。場合によっては目線の移動だけで客席内でのトラブルを収拾することもできるんですよ。
 すごく盛り上がったライブで、たとえば左前のブロックがヒートアップし過ぎて、モッシュやダイブでもみくちゃになって誰かが倒れちゃったみたいな、お客さんが危険な状態になる場合ってありますよね。そういう時は目線をそこ以外のブロックに外してあげるというのが大事です。
 どうしても心配になってそこばっかり見てしまいがちなんですが、演者が目線を送ると、さらにワーッとお客さんが集まって状況が悪化しかねない。最悪の場合、ローリング・ストーンズのオルタモントの悲劇みたいなことになりかねないんですよ。
 だからどんなに気になっても逆サイドや2階席を見た方がいいですね。そうすると混乱していた場所も意外と落ち着くものです。


この「目線」の話って、ミュージシャンのライブに限ったことではなく、もっと広い範囲に応用できるのではないかと思います。
ブログやtwitterなどでも、一つの話題で盛り上がって、というか、炎上めいたことになったりもしている状況でも、その局所にばかり立ち向かっていると、かえってこじれたりするものですよね。
うーむ、「サブカル者」として生きるというのは、ここまで自分を客観的に見て、計算しなければならないのか、と考えさせられます。
この本には、大槻ケンヂによる『有名人になるということ』の一面も、たしかにありますし。


この本を読んでいると、なんというか、『老子』を読んでいるような気分になるところが、けっこうありました。

 でも、一番大きかったのは「何かをできない」ということを逆にチャンスにつなげていったことではないかと思うんです。
 そもそも、音楽の素養も知識も何もない僕の周りに、日本でも……いや世界でも有数の超絶技巧ミュージシャンたちが集まってバンドを組んでいるというのはすごく不思議なんですが、それも僕が音楽を「できなかった」おかげだと思っています。
 楽器ができる人たちにとっては、自分たちの音楽を自由にやるために僕みたいな「音楽はできないけど変な知識があって、世間とはズレた面白いことをしゃべってお客さんを連れてきてくれるヤツ」というのが必要なんです。
 つまり僕を『仁義なき戦い』の金子信雄みたいなダメ親分として神輿にかついで、自分たちは好きに自由な音楽をやろうと。そんなふうに周りの超絶技巧ミュージシャンたちに利用してもらえたのだと思います。
 できなかったから救われたんですよね、「何かができない」というのがすごくコンプレックスになっている人も多いと思うけど、時には「何かができない」ことが自分にとってすごくいい環境を作ることもあるんですよ。

もちろん、オーケンだって、最初からこの境地にあったわけではないはずです。
実際、筋肉少女帯は、一度解散しているわけですし。
それに、「音楽の素養も知識もない」はずがない。


それでも、僕はこの言葉に、なんだかすごく勇気づけられたのです。
「無用の用」というか、「できないひと」の周りに「できるひと」が集まって、チームとしてうまく機能するケースって、けっこうありますしね。
もちろん、この「できないひと」には、それなりの「器」みたいなものが求められるのだけれども。


これを読んでいると、「ラクして、好きなサブカルで食っていく」なんていうのは、夢物語だなあ、と痛感させられます。
オーケンでさえ、好きなことばっかりやって、食べてきたわけではないのだから。
「才能・運・継続」これが、サブカルの世界で生きていくために、最低限必要なもの。
しかしそれは、この世の中で成功するための「普遍的な武器」でもあるのです。


ニーズの大きさや生活の安定を考えれば、サブカルの世界で生きていけるだけのやる気と気配りがあれば、エリートサラリーマンとして生きていったほうが、よっぽど簡単で、贅沢できそうな気がします(オーケンも、「サブカルの世界で成功できるような人は、一般社会でも成功できるはず」と言っています)。
それでも「サブカルでしか、生きられない」人もいる。


この本、むしろ、「ああ、僕くらいの覚悟で、サブカルで食っていくなんて、甘いことは考えないほうがいいなあ」と思い知らされる一冊でした。
面白いですよ、本当に。
読み終えて、「サブカル者として生きていくしかなかった」大槻ケンヂという人の生きざまに、なぜか感動してしまった自分を見つけて、ちょっと驚きもしましたし。

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