琥珀色の戯言

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未来国家ブータン ☆☆☆☆


未来国家ブータン

未来国家ブータン

内容紹介
ブータン政府公認プロジェクトで雪男探し!!
「あの国には雪男がいるんですよ!」。そのひと言に乗せられて高野氏はブータンヘ飛んだ。雪男を探しながらも、「世界最高の環境立国」「世界で一番幸せな国」と呼ばれる本当の理由にたどりつく。


先日御紹介した『ブータン、これでいいのだ』という本が、「中心部からみたブータン」「政府中枢からみたブータン」とするならば、こちらは、高野さんが実際に観て歩いた「辺境からみたブータン」といったところです。

 私は二十年前から世界中の未知の動物(未確認動物)を探し回ってきた。コンゴの謎の怪獣モケーレムベンベ、中国の野人、トルコの巨大水棲獣ジャナワール、ベトナムの猿人フイハイ、アフガニスタンの凶獣ペシャクパラング……。
 一つも見つかっていないから自慢にもならないが、私ほど、未確認動物を客観的かつ徹底的に探してきた人間は日本にはほかにはいない。世界でもいないんじゃないか。
 もちろん、雪男のことも話としてはよく知っているが、”本場”はネパールである。ブータンの雪男は初耳だった。

辺境を愛する作家・高野さんは、「少数民族の村に行って、彼らの伝統的な知識や現地の状況を調べてくる(今後の本格的なフィールドワークの下調べ)」というブータン政府のプロジェクトで、ブータンの辺境を旅していきます。
もちろん、高野さんの最大の興味は「雪男」なのですが、今回はそれと同時に、ブータンの伝統的な資源に、薬品や化粧品などとして、利用できる可能性があるかどうか、という調査も行っておられます。
いやまあ、この本を読んでいると、これは「調査」っていうより、本格的な調査の前の、現地への「顔見世」みたいなものなのかもしれません。


見知らぬ土地で現地の人に話を聞くときに、居住まいを正して「お話をうかがいたいのですが」と接触するのが「日本人的」だと思われますし、高野さんも当初はそうしていたのですが、雰囲気に慣れていくにつて、それでは警戒されてしまって、相手の話を引き出せないことに気づきます。
試行錯誤の結果、「一緒にお茶やお酒を飲んで、気分がほぐれたところで、さりげなく『本題』に入るのが、いちばん得られる情報が多い」ということがわかったのです。
僕自身は「飲ミニケーション」みたいなのは勘弁してほしいのですが、お互いに警戒してしまうような相手との対話には、お酒っていうのは有効ではあるのだなあ、と考えさせられました。


この本のなかでは、ブータンの自然の美しさや、人々の暮らし、そして、彼らが語る「民間伝承」が紹介されています。
まさに『遠野物語』を読んでいるようでした。
ブータンの辺境に住む人たちにとっては、たしかに、「雪男はいる」のだよなあ。
それとあわせて、高山病のつらさやお酒をたくさん飲ませる、一昔前の新入生歓迎コンパのような「歓待」の様子も出てきて、「ブータンの辺境の生活」もうかがえます。


高野さんは、日本とはかなり違うブータンの人々の感覚についても書いておられます。

 ブータン人の「殺生観」は日本人とだいぶちがうらしい。日本人(欧米人はもっとそうだが)は大きな動物を殺すことを嫌がるが、ブータン人は逆だというのだ。
 私の妻もノンフィクション・ライターで、たまたま私より先にブータンに興味をもち、二度訪れている。ブータン人の友人も何人かいる。そのうちの一人が日本に来たとき、妻は一緒に寿司屋に行った。彼は「うまい、うまい」と言って寿司をぱくぱく食っていたが、数の子やイクラといった魚卵と白魚だけは「食べられない」と顔をしかめたという。
 ブータン人にとって、大きくても小さくても命は命。だからマグロやタイといった大型の魚を何人かで分けると罪悪感が減るが、一人で何十もの卵や小魚を食うというのは大量虐殺みたいな気分になるらしい。
 さらに、これまた妻の話だが、ブータンの人たちに「どの肉が好き?」と質問したところ、「牛肉」という答えが圧倒的だったという。理由は「大きいから」。妻は味の好みを訊いていたつもりが殺生の話にすりかわっていたのだ。
 また、ある本によれば、切り身の肉にたかるハエを叩こうとしたら、ブータン人に「殺生はよくないですよ」とたしなめられた日本人もいるという。
 体の大小よりも命の数なのである。
 いっぽう生物多様性で重要視されているのは種の数(多様性)だ。種の数=個体数ではないが、大きさより数が大事という点では似通っている。少なくとも「パンダ一種とカビ一種が同じ価値を持つ」と生物多様性的に説明したとき、日本人は「は?」と思うが、ブータン人ならすぐ納得できる。幼少のときからこういう思想を叩き込まれているからである。

僕もイクラとかちりめんじゃこを見ると、「大量虐殺犯」的な気分になる子どもだったので、これは理解できるような気もするんですよね。
こういう思想には仏教の影響が大きいのだろうなあ。
「クジラは賢い動物だから、食べてはいけない」という欧米の思想とは、かなりの違いがあります。


高野さんは、この旅行記のなかで、ブータンが「幸福の国」である理由について考察しています。
ブータンには、西洋医学と伝統医学の2系統の医療が現存しており、患者は「好きなほうを選ぶことができる」そうです。
ちなみに、ブータンでは、この両者は、お互いに補完しあう存在で、カルテのやりとりもしているのだとか。

 私は、「患者は西洋医学と伝統医学のうち、自分の好きなほうを選べると聞きましたが」と訊いた。すると、先生は「そうです。やっぱり気持ちが大事ですから」と言う。
 だが、よく聞いていると、伝統医学が得意とする分野と西洋医学が得意とする分野ははっきり分かれている。
 もし患者が先に西洋医学の病院に行っても、それが腰痛や神経痛、慢性の胃腸病のときは医師が「伝統医学に行ったほうがいいですよ」と言い、ケガや急性の病気を抱える患者が伝統医学に来たときは「西洋医学のほうが向いています」と勧める。あたかも日本の病院で、「これは内科ですね」「これは外科でしょうね」と言うがごとくだ。
「医師は勧めるだけで最終的に決めるのは患者です」と先生は言う。
「でも医師の言うことを聞かないで『それでも自分はこっちの治療を受けたい』と患者が言ったらどうするんですか?」
「そんな頑固な患者はいませんね」と先生は笑った。
 ――ああ、そういうことか……。
 私は嘆息した。まだ自分はわかっていなかった。
ブータン方式とは国民の自発性を尊重しつつ明確に指導すること、もう一つは巧みな補完システム」とシンゲイさんたちに自分で言っていたではないか。
 患者が自分で選べるというのは形だけで、結局は医師が決めているのだ。
 そうなのである、ブータンを一ヵ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
 何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである、国民ははそれに身を委ねていればよい。だから個人に責任がなく、葛藤もない。

 なるほどなあ、と僕も考えさせられました。
 「自由であること」「なんでも自分で選べること」が幸せなのだと思っていたけれど、僕も含めて、人間というのは、ある程度誰かに決めてもらったほうがラクだし、悩まなくてもすむのかもしれません。
 実際、人口70万人の小国・ブータン、とくにその辺境ともなると、「生きかたの選択肢」は、そんなにたくさんは無いはずです。
 でも、それを「仏教」とか「カリスマ的な国王」への信仰・信頼によって肯定的に受け入れることができれば、「自分で選ばなくていい」ほうが、幸せなのかなあ。
 その一方で、「何にでもなれる可能性がある(と思い込んでいる)ために、何にもなれないことに苦しんでしまう人」が、日本にはたくさんいます(僕もそのひとりなわけですが)。


 じゃあ、実際にどちらが「幸せ」なのだろう?と問われたら、いまの僕は「選べること」を知ってしまっているから、やっぱり、「誰かに誘導される、考えなくていい人生」は受け入れがたいんですけどね。


 『ブータン、これでいいのだ』という本では、「高額のローンを組んで、車やiPhoneを買いまくるブータンの若者たち」が紹介されていました。
 おそらく、いまのブータンは、けっこう「幸せな国」なのだろうと思います。
 しかしながら、外からの風が吹き込んでくるかぎり、いつまでもこのままではいられないはずです。


 ブータンという国、そして、なぜこの国が「幸福の国」と呼ばれているのかに興味がある人は。ぜひ読んでみてください。
 ↓の本とあわせて読むと、よりいっそうブータンの「現実」伝わってくるのではないかと思います。

ブータン、これでいいのだ

ブータン、これでいいのだ

この本の僕の感想はこちらです。

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