琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

父親とナマコの思い出(再掲)


今週のお題「父との思い出」



先日、飲み会の席に、ナマコが出てきた。

スライスしたナマコにポン酢。

ナマコの食べ方としては、かなりポピュラーなものだと思う。


僕は自ら好んでナマコを注文することはない。

味や食感が嫌い、というわけじゃないんだけど。

ナマコを食べると、あの夜のことを思い出す。ただそれだけだ。


あれは、僕が大学生のときだった。

当時、母は重い病で入院しており、僕は病室にいた父親とふたりで、病院の近くの寿司屋に夕食を摂りに出ることになった。

正直、父親とふたりで食事をするというのは、気が重くて仕方がなかった。

もともと世間話というのがお互いにあまり得意ではなかったし、「彼女できたか」とか「酒の飲み方を教えてやる」とか、そんな話題しかない父と、テレビゲームと本にしか興味のない僕(まあ、これは今でも似たようなものか)に、まともな会話なんて、成り立つわけがない。

夜は「飲みに行く」ときどき「家族全員を追い立てて、食事に連れまわす」のどちらしかない人だったし。

とはいえ、その日は「じゃあひとりでまっすぐ帰る」とは、言えない雰囲気で、僕たちはふたりで、寿司屋のカウンターに並んだのだ。


つきだしに出てきたのが、ナマコを輪切りにして、ポン酢をかけたものだった。

僕はそれまで、ナマコを食べたことがなかったので、そのヌメヌメとした雰囲気に、ただならぬ気分になっていた。

これ、食べられるのか?

でも、父の前で弱みを見せるのもなんとなく嫌だったので、コリ、コリッと、そのナマコを食べ始めた。

まあ、食感にさえ慣れれば、ほとんどはポン酢の味だ。


父親はナマコに箸をつけようとせず、ようやく自分の分をクリアした僕に言った。

「お前、お父さんの分も食べてくれないか、年をとると、こういう固いものを食べるのがつらくてな」

内心、「せっかく自分のを食べ終えたのに……」とは思ったのだが、「ああ、いいよ」と答え、またナマコを食べた。

二人分も一度に食べるようなものじゃないよな、と思いつつ。


父親は、しばらく黙っていたが、しばらくして、小さな嗚咽が聞こえてきた。

「お母さん、もう、ダメみたいだ……」

僕は「ダメって、なんでもっと早く病気を見つけてあげなかったんだよ!」という苛立ちとか「急にそんなこと言われても、こういうとき、息子としては、どうすれば良いんだろう?」という困惑とか、「でも、厳しい状況っていうのは、もうわかってた……」という諦念とか、いろんな気持ちが入り混じっていたけれど、口に出しては何も言えなかった。

ワンマンで酒に飲まれることが多い父親で、当時の僕としては、ずっと不満な存在だったのだけれど、父が突然僕に渡してきた、他の家族には隠していた哀しみのバトンは、手にしてみると、あまりにも重かった。

逃げられるものなら、そこから逃げたかった。なかったこと、にしたかった。

そういえば、「固いものを食べるのがつらい」なんて弱音は、はじめて聞いたような。

その夜、僕は上にぎりを食べたあと、「まだ食べられるだろ?」と勧める父の言うがままに、並のにぎりを、押し黙ったまま、あと1人前食べた。

あのとき、僕にできたのは、ただ、「食べること」だけだった。


いま、思い出してみると、うちは兄弟が多かったのと、父親は仕事と付き合いばかりで家をあけてばかりだったのとで、物心ついてから、父親とふたりきりで食事をしたのは、あの一度だけかもしれない。

少なくとも、記憶に残っているのは、あの一回だけだ。


いまでも、ナマコが出てくると、あの夜のことを思い出してしまうのだ。

そして、ナマコを一口噛んで、「ああ、僕はまだ、たぶん大丈夫だな」と確認せずにはいられない。


ナマコを噛みしめると「大人」の味がする。

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