琥珀色の戯言

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「新型うつ病」のデタラメ ☆☆☆


「新型うつ病」のデタラメ (新潮新書)

「新型うつ病」のデタラメ (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「上司に叱られ、やる気ゼロ」「彼女に浮気されたので休職したい」…。この十年、そんな理由で精神科を訪れる人が急増。従来のうつ病とは明らかに異なる病態をもつそれは、「新型うつ病」と総称されるようになった。診断書を手に堂々と会社を休む人々、手厚すぎる社会保障、肥大化する自己愛と精神力の低下。はたして「新型うつ病」は本当に“病気”なのだろうか。もはや社会問題。そのまやかしを、現役精神科医が暴く。


※僕は内科医であり、精神科疾患については専門家ではありません。
また、このエントリで書いている内容は、あくまでも僕の個人的な見解であり、内科医一般、あるいは医師一般が同じ考えというわけではありません。
 以上、ご理解のうえ、お読みいただきたいと思います。


 これを読みながら、僕はずっと考えていたのです。
新型うつ病」って、たしかに腑に落ちないというか、「それを『病気』ということにしてしまって良いの?」と感じるところはあるんですよね。
 でも、本人の自覚として「きつい」「仕事に行けない」という場合、それを「そこでがんばらなきゃダメだ!」と説教することに意味はあるのだろうか?
 それって、「できる人」が、「できない人」に「なんでお前はできないんだ!努力が足りないからだ!」と自分基準で押しつけているだけではないのか?


 著者は、「新型うつ病」を、こんなふうに定義しています。

新型うつ病」とは、ずばり、逃避的な傾向によって特徴づけられる、抑うつ体験反応のことです。

 そして、「新型うつ病」の特徴は、「異質性がないこと」だそうです。
 「異質性がない」とは、ストレスがかかるような出来事があり、「そういう状況ならひどく落ち込んでも無理はないだろう」と他者も理解できる場合、と考えていただければと思います。


 でも、そうなると、やはり疑問にもなってくるのです。
「誰だって、辛い目にあえば落ち込むし、仕事に行くのが嫌になることもあるだろう? そういう当たり前の反応まで『うつ病』にしてしまって良いの?」

 先にも述べましたが、最近では抑うつ体験反応と呼ぶのも気が引けるような人が、外来に現れるようになっています。「上司に叱られた」とか「彼女とけんかした」などの日常的な出来事をきっかけに「気分が落ち込んだ」「やる気が出ない」などとして外来を受診するものです。その状態がある程度長い期間続いているならまだしも、それが昨日のことだ、という場合は最近では珍しくなくなりました。「気分が良くなる薬をもらいたくて来た」という訴え方をする人が多いのも最近の特徴です。
 こういった病気とは言えないものは、うつ病はおろか抑うつ体験反応ともせず、「単なる落ち込み」としておくのがよいと思います。


 著者の言い分は、すごくよくわかります。
 僕も、「きつくて仕事ができない」と言いながら、自分の好きなことは「気分転換」という名目でできるのに、ずっと保険金をもらおうとする人には、あまり好印象は持てません。
 会社などで真面目に働いている人にとっては、「何が新型うつ病だ……仕事なんて、みんなキツイし、やりたくないに決まっているだろ……」と言いたくもなるでしょう。
 こういう症状を訴えて病院に行くと、休めて保険金や休業補償ももらえる、ということになると、なかには「疾病利得」に目覚めてしまう人もいるかもしれません。
 『ツレがうつになりまして』という映画で、堺雅人さんが演じていた夫のような状態であれば、「そりゃあもう、しょうがないというか、ゆっくり休んでね」と言えるでしょうけど。


 しかしながら、どうもこの本を読んでいると、「ちょっとこの著者は他者に課すハードルが高すぎるのではないかなあ」と感じるところもあるんですよね。

新型うつ病」の特徴の一つも「自己愛の肥大」です。自分自身に過剰に意識が向くために、自己憐憫が習慣化し、傷つきたくないあまり安易に逃避してしまうのです。
 人間が成長する、つまり大人になるとはどういうことでしょうか。それは、自己愛を克服し、「徳」や「仁」を身につけるということだと思います。子供の時、われわれは皆、自己愛的です。自分が一番大切なのです。それは、子供であれば当たり前のことです。しかし、さまざまな対人的な経験を積み、一部は家庭や学校での教育の影響で、また社会人になってつらい思いをし、揉まれることを通じて、自己愛を克服し、程度の差はあれ、「徳」や「仁」といった態度を身につけていくのではないでしょうか。
「徳」のうちには、忍耐、すなわち我慢する心も含まれます。少々の気持ちの落ち込みや不安なら、すぐに人に見せることなく自分の中に秘め、自分の力で乗り越えようとする姿勢も、大切ではないでしょうか。簡単に訴えて、まわりの人を巻き込んでしまえば、人に余計な負担を与えます。そんなことをして人に心配をかけまいとする心も、生きていくうえで必要なものだと思います。たとえば、少々つらいことがあっても職場では明るく振る舞うという配慮も、必要なものでしょう。そして、そのような努力の積み重ねが、人格を陶冶することになるのです。

この引用部分、途中で読むのをやめて飛ばしてしまった人、手を挙げて!


うーん、著者は「人格者」なんでしょうね……
でも、これって、「精神科医」というより、「親や学校の先生の仕事」なのではないかという気がするのです。
「従来型のうつ病」であれ、「新型うつ病」であれ、病院に来るくらい弱っている患者さんに、「徳」とか「仁」を説かれても……
とはいえ、本人の訴えを際限なく認めてしまうと、たしかに、「自分の力で立ち上がろうとしなくなる」かもしれません。


「そのくらいで甘えさせると、かえって本人のためにならない」という考え方と、「いま、実際に本人はキツいのだし、自殺してしまうかもしれない。そんな状態にある人に『甘えるな!』なんて酷すぎる」という考え方と。
この新書への感想をAmazonなどでみていると、前者の立場で、この本に書かれている「本音」を高く評価している人が多いようです。
でも、そんな「いまの若い者はなっとらん!」という「オッサンの説教」で、この「新型うつ病」の若者たちは救われるのだろうか?
「やる気のない若者たち」を責めて、溜飲を下げているだけではないのか?
じゃあ、どうすればいいんだ?と考えてみるけれど、「説教」以外のうまい代案も思いつかなくて。
精神科医も大変だよなあ。


ひとつだけ言えるのは、「新型うつ病」で休職しながらお金がもらえる立場の人を「気の毒だ」というより、「羨ましい」と感じる人が増えている、ということです。
それは、「新型うつ病」が増えていること以上に、怖くて悲しいことのように思えてなりません。

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