琥珀色の戯言

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翻訳教室 ☆☆☆


翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

内容(「BOOK」データベースより)
翻訳は、ことばの置き換えではない。だから「正しい訳」なんて、ない。他者のことばを生き、当事者となってそれを自分のことばで実践(または再現)する。それが翻訳だ。大きな感動を呼んだNHK課外授業ようこそ先輩」の授業を題材に、翻訳のはじめの一歩=エッセンスを語る。

 『嵐が丘』の新訳などで知られる翻訳家・鴻巣友季子さんが、NHK課外授業ようこそ先輩」で世田谷区の小学校6年生に行った授業をもとに書籍化したものです。


 鴻巣さんのエッセイは面白いので、この「授業」で、小学生相手にどんなことが語られているか興味深かったのですが、読んでみると、まさに「翻訳というのはどういう作業なのか」がわかるような流れになっています。
 それにしても、この6年生たちはみんな優秀ですね。もしかしたら、子どもってみんなこのくらいのことができるのを、僕が知らないだけなのか、忘れてしまったのか……


 この本のなかで、”I love you."の訳し方の話が出てくるのですが(夏目漱石が講義で話したという、有名な訳も出てきます)、これを読んでいて、僕は以前読んだこの話を思い出しました。


『オタク成金』(あかほりさとる、天野由貴共著・アフタヌーン新書)より。

(1986年、あかほりさとるさんが大学2年のとき、アニメの脚本家を目指して<アニメシナリオハウス>第二期生となったときのエピソード。「」内は、あかほりさとるさんの発言です)

「俺の場合は師匠について。で、<アニメシナリオハウス>に自信満々で行ったらさ……見事に鼻、バシンバシン折られて。脚本の成績、なんと50人中、48番だったんだよ!ビックリするだろ?
 俺ね、同期のヤツらがものすごくて。『仮面ライダー クウガ』とかの戦隊モノをやってる荒川稔久とか、『機動新世紀ガンダムX』全話の脚本を一人で書いた川崎ヒロユキとか、『幽☆遊☆白書』とかジャンプ系アニメの脚本をやってる隅沢克之とか。あいつら天才だからさ。やんなっちゃうよね。
 ほんと、あいつらって脚本うまいんだよ。同じストーリーのものを書いても、うまいって思ってね。これは師匠のところで習ったんだけど、その人のセンスを見るときに、こういうテストをするの。
”I love you. を100個訳せ。”
実際に注目するのは1個目なんだけどね。これを荒川はだね……
”アンタなんか大嫌い”
って訳したんだよ! 勝てないだろ!?
 ちなみに俺は”ヤラせろ”だったけどな! こういうセンスがあるかないかで、セリフってのはぜんぜん変わってくるから。だから当時から、絶対勝てねぇと。
 その頃から俺は、自分は脚本業界で一番の才能を持っていないと思ってたから。
 だから、勝負するならここじゃねぇなと。俺の場合は、見切ってるところがすごくあってね。こいつには勝てねぇとか、精一杯やっても自分はここまでとか。
 昔、川崎が言ってたんだけど、みんなで飲んだときに、酔っ払ったあかほりが言ってたよと。”この業界じゃ天下は獲れん!”って」

 たしかにこれはすごいセンスだ……
 いやほんと、歴史とともに、"I love you."の訳も多様化してきていますよね。
 そんななかで、「どれかに決めなければならない」のですから、翻訳家というのは、大変な仕事だと思います。
 読者には、「なぜそう訳したのか」というプロセスは、なかなか見えないものですから。
(それがわかるような人は、原書で読んでしまうでしょうし。ただ、どんなに外国語が得意な人でもネイティブと同じ感覚で読めるかというと、それは難しいのではないかという気もするのです)

 じつは英語から日本語への翻訳って、ほとんど三人称の「it」との戦いみたいなものなんです。「it」がいちばんむずかしい。YIS(横浜インターナショナルスクール)の生徒たちは「it」の意味を「わかっていても」訳せないのではなく。「わかっているから」なかなか訳せないのでしょう。英語がよくわかっていても訳せないものはあるんですね。
「文章の形は違うけど意味はそのほうが伝わる」というのも、ひじょうに深いテーマを含んだ指摘です。ちょっとむずかしい言い方になりますが、文章の形をそのまま移す翻訳の方法を「形式的な等価をめざす翻訳」、文の形を変えても意味や作用を同様・同等にしようとする翻訳を「機能的な等価をめざす翻訳」と呼んだりします。
 例えば、アメリカの小説に出てきたpreach to the converted (すでに改宗している者に改宗しろと説教する)という言い回しを、日本語では「釈迦に説法」と訳したりするのも、機能的な翻訳の例です。

 この新書を読んでいると、翻訳家のなかでも「原文になるべく忠実な訳派」と「意訳に寛容派」の争いというのは、いまでもずっと続いているのということがわかります。
 以前読んだ『翻訳教室』という新書では、柴田元幸さんや村上春樹さんは、どちらかというと「原文忠実派」で、この新書での鴻巣さんは「意訳寛容派」のようです。
 僕はこれまでは、「原文忠実派のほうが正統なのではないか」と思っていたのですが、この新書を読んで、ちょっと考え込んでしまいました。
 もちろん、大ヒットしたニーチェの『超訳』みたいなのは、「翻訳」としては、さすがにやりすぎなんじゃないか、と思うのですけど、英語と日本語のリズムや心地よい言い回しが異なる以上、読者の「読みやすさ」「わかりやすさ」のための「意訳」があっても良いのではないかな、と。
 村上春樹さんが、新訳で『長いお別れ』を『ザ・ロング・グッドバイ』に、『ライ麦畑でつかまえて』を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にしたのは、「原作に忠実」ではあるけれど、それが「原書を読めない読者」にとって親切なのかどうかは微妙です。
 まあ、『ライ麦畑でつかまえて』ってタイトルは、「内容とズレている」ような気もしますけど(でも、すごく良いタイトルなんですよねこれ。耳慣れているからなのかもしれませんが)。


 この新書の大部分は、"The Missing Piece”という絵本の翻訳に、小6の生徒たちが取り組むという授業の内容で占められています。
 僕が大学生くらいのときに、この絵本は何度目かのブームになっていて、誕生日プレゼントとして友人にもらった記憶があるんですよね。
 この絵本には「新訳」は出ていないのですが、

 とくにこの本の日本語訳については、作者の死後50年たつまで、独占翻訳権といって、いま言ったひとりの人しか翻訳出版できない約束が交わされています。

 そうか、そんな契約になっていたのか……

 
 でも、この本、いまの小6にとっては、「ひとクラスのほとんどの子どもが読んでいないであろうと予測される本」なんですね。
 けっこう読まれていそうなんだけど、むしろ「大人の絵本」なのかなあ。

 翻訳とは言ってみれば、いっとき他人になることです。個人的な好き嫌いや私的な感情を乗り越えた先で、実際、相手(作者)になり代わって書く。例えば、「書評」という仕事がありますね。ある本を読んで自分なりに解釈し、その書物にどんなことが書いてあるか、本の趣旨や魅力や評価、あるいはその本の読み方を他の読者に示す文章のことです。翻訳にも似たような働きがありますが、翻訳者が書評家と決定的に違うのは、その本を丸ごと自分の手で書きなおし、作者の文章を一語一句にいたるまでみずから当事者となって実体験することなのです。
 翻訳とは、いったん他人になった後、最終的には自分に還ることです。

 

「翻訳」に興味がある人は、読んでみて損はないと思いますよ。
 いちおう、中高生にもわかるように易しく書かれていますが、もちろん、大人が読んでも楽しめます。


 この新書を読んでいると、"Missing Piece"って何なのだろうなあ、と、また考え込んでしまいました。
 僕にとっても、20年前に読んだときとは、違っているような気がするなあ。



ちなみに、みなさんお察しとは思いますが、”The Missing Piece”の日本語訳はこれです。 

新装 ぼくを探しに

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アフタヌーン新書 005 オタク成金

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翻訳夜話 (文春新書)

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