琥珀色の戯言

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【読書感想】ルポ 子どもの貧困連鎖 ☆☆☆☆☆


ルポ 子どもの貧困連鎖 教育現場のSOSを追って

ルポ 子どもの貧困連鎖 教育現場のSOSを追って

内容(「BOOK」データベースより)
駅前のトイレで寝泊まりする女子高生、車上生活を強いられる保育園児、朝食を求めて保健室に行列する小学生…大人たちからハンディを背負わされた子どもに今、何が起きているのか。

なんでこんなことになってしまったのか……
読んでいて、なんだかやりきれなくなってきました。
これまで「子どもの貧困」に関する新書も読んできましたが、この本の場合は、実際の子どもたちのエピソードが紹介されているだけに、なおさらこのあまりにも厳しい現実に打ちのめされてしまうのです。


この本では、定時制高校に通う子どもたちから、中学校、小学校とどんどん年齢が下がっていって、最後は保育園の現状が紹介されています。
「子どもの貧困」というと、僕自身も、「給食費未納」とか「服がいつも汚れている」というような「見かけに気を配れなくなるような状況」だというイメージがあったのですが、これを読んでいると、貧困のあまり、生命の危機にさらされている子どももいるのだということがわかります。


そして、大人が自分の経験から考えている「貧困」と、現代のリアルな「貧困」というのは、まったく違ってきているのだということも。


定時制高校の生徒指導担当の藤井先生の言葉。

「以前、アルバイトするのは車を買うためといった、自由に金を使うのが目的だった。今はそんな余裕はない。稼いだ金は学費や生活費に回る。学費の滞納もすごく増えた」
 藤井は2000年代の半ばごろから、子どもの貧困の広がりと深刻化を実感しているという。
「子どもには成長、発達のための学びが必要で、本来働かなくてもいい。このごく普通の生活ができず、学費を本人が働いて払わざるを得ないのが現代の貧困だ」
 藤井はこう説明する一方で、「子どもの貧困は見ようとしないと見えない」とも言う。
 藤井には苦い経験があった。5年前のことだ。授業中、携帯電話で話していた男子生徒に「電源を切れ」と注意した。
「俺の仕事と生きる権利を奪うのか」
 猛反発を受けた。電話の内容は、その夜の仕事の依頼だった。
 ダブル、トリプルワークで働く生徒たちにとって、職場の勤務シフト変更の連絡などを受ける携帯電話がなければ仕事にならない。
「学校は生活を保障できるのか」
「働く権利は?」
 教室で藤井と生徒たちはけんか腰の議論になった。
「生徒は携帯がないと仕事もできない、と初めて認識させられた。多くの教師は『携帯はぜいたく』と外見で判断してしまうが、それでは家庭や生徒の実体は見えない」
 貧困の広がりの中で、子どもたちを支える教育のセーフティネットは機能しているのだろうか。
「教育にかかる費用は全部無償化すべきなのに、反対に給食や教科書の補助が廃止されたり、条件は厳しくなっている」

「なんとか定時制高校に行くために」2つ、3つの仕事をかけもちする女子高生。
終電にも間に合わず、駅の多目的トイレで仮眠をとるそうなのですが、当然のことながら、授業中は居眠りしてしまい、まともに聞くことはできません。
結局、「高校に行くためのお金を稼ぐための仕事」のはずなのに、仕事のために高校に行かなくなったり、行っても寝てばかりだったり。
そのうえ、親からは経済的な援助どころか、お金の無心までされてしまう。


僕の世代(40歳以上)にとっては、子どもの頃になかった携帯電話は「子どもにとっては、ぜいたく品」というイメージが抜け切らないのですが、いまの子どもたちにとっては「日常生活に(仕事も含めて)不可欠なツール」なのです。
しかし、だからといって、授業中に堂々と携帯で話されると、やっぱり困るとは思うのですけど。


この本を読んでいると、日頃マスコミやネットで叩かれがちな、学校の先生たちや児童相談所のスタッフたちが、いかに過酷な仕事を毎日こなしているかというのが、よくわかります。
学校の先生たちは、授業をして勉強を教えたり、生活指導をするだけではなく、困っている子どもたちに対して、ソーシャルワーカーのような仕事までしなければならないのです。


この本のなかで僕はいちばん衝撃を受けたのは、第三章の「小学校編・保健室からのSOS」でした。
この章の冒頭で、こんなエピソードが紹介されています。

 始業前、まだ鍵の掛かった小学校の保健室。5人ほどの”常連”の児童が、ランドセルを下ろして廊下に座り込んでいた。
「先生、おなかがすいた」
「早く開けて」
 待ちかねた養護教諭の河野悦子が来ると、子どもたちが声を掛けた。
 朝食を食べていない子どもたちのお目当ては、河野が「とっておきの朝食」と呼ぶ給食の残りのパンと牛乳。子どもたちみんなが、おいしそうにパンをほお張り、牛乳をゆっくり飲み干した。
 大阪府内にあるこの公立小学校では、2008年から保健室で朝食を出すようになった。きっかけはある女子児童がやってきたことだった。その子は、失業していた父親が失踪し、母親と二人、月5万円の年金で暮らしていた。服は汚れたままで、給食のほかは二日間、何も食べずにおなかをすかせていた。
「驚いて、とりあえず手元にあったお菓子を渡したんですが、その時、初めて『子どもの貧困』という問題があることに気づかされました。意識して聞いてみると、ほかにも家庭の事情で朝食を食べられない子どもたちがいたんです。だんだん給食のパンと牛乳を朝食として出すようになりました」
 河野は経緯をそう話す。

「どうせ、親が悪いんだろ」
 僕もそう思っていました。
 この本を読んでいていたたまれなくなるのは、必ずしも、親の問題だけが、「子どもの貧困」の原因ではないということです。
 親も生活が苦しいなか一生懸命働いていているにもかかわらず、生活はラクにならず、子どもにもしわ寄せがいっているという家庭が少なくないのです。
 子どもがいることによって、仕事がなかなか見つからない場合もあります。


 とにかく、「生きていくことに精一杯で、義務教育レベルでさえ、まともに受けさせられない」。
 仮に授業料が免除されても、子どもを通学させるためには、たくさんのお金がかかります。
 いまの日本では、レールからちょっと外れてしまうだけで、「普通に子どもを育てること」さえ、難しくなってしまうのです。


 本当に、どうすればいいんでしょうね……
 少なくとも、選挙で一票を持っている高齢者に甘く、票を持たない子どもには厳しいという政治が「正しい」のかどうか、有権者はよく考えてみるべきです。
 そして、この本のなかには、こんなことが書いてあります。

 二件の孤立死が続いた立川市の市長が、テレビで「もしかしたら行政が少しお節介だといわれるぐらいの形で踏み込んでいかざるを得ない」と話す映像が流れた。第三章に登場したシングルマザーの恵も「最初は、保健室の先生がどうしてうちに入ってくるのか、強引だなあ、と思った。でも、今、考えたら、ありがたいお節介でした。生活保護の手続きとかいろいろやってもらって。私、人間関係が苦手だから、慣れるまではうっとうしかったけど」と話していた。
 行政は「プライバシー」や「個人情報保護」を理由にして積極的な介入を控えるケースが多い。地域の絆も断たれ、近所の人も二の足を踏んでしまう現実がある。貧困による悲劇をこれ以上生み出さないためにも、日本には、いい意味での「お節介」がもっと必要なのではないか。

 僕はこの「お節介」って、苦手なんですよ。
 人間関係が得意でもないし。
 でも、この本を読みながら考えていたのは、この時代に「個人情報保護」を声高に叫んで孤立し、「何も言わない人は、知りませんよ」と見捨てられてしまうよりは、煩わしくても「身近な人とのつながり」を築いていったほうが「サバイバル」できるのではないか、ということでした。


 最後に、こんな過酷な現場でいろんなものを犠牲にして働いている学校の先生たちや児童相談所のスタッフの皆様に、感謝を捧げます。
 いつだって、大部分の「地道にがんばっている人たち」は、なかなか報いられることがないんだよなあ。




付記:今日からしばらく夏休みに入ります。



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