琥珀色の戯言

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【読書感想】「本当のこと」を伝えない日本の新聞 ☆☆☆☆


「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

内容紹介
3・11、そして福島第一原発事故を経て、日本人は新聞の限界を知った――。
なぜ日本の新聞は国民が知りたい事実を伝えず、「権力者の代弁」ばかりをたれ流すような報道に終始するのか。
日本取材歴12年の米国人ジャーナリストが明らかにする「国民総新聞不信」の真実!
新聞は誰のためにあるのか
この当たり前の問いに対し、はたして日本の新聞は胸を張って答えを出せるだろうか。
「社会の木鐸」と例えられ、権力を監視し、市民社会をより良きものにするために存在するはずの新聞。
だが、福島第一原発事故をめぐる報道では、当局の発表をそのまま報じる「記者クラブメディア」の限界を国民の前に自ら晒すことになった。
著者のマーティン・ファクラーはそんな「発表報道」に背を向け、東北の被災地を自分の足で回り、地元の人々や行政機関の窮状や奮闘を全世界に向けて発し続けた。
単身乗り込んだ南相馬市役所では、原発事故により記者クラブにいるはずの記者はみなすでに退避していた。
桜井勝延市長は、著者にこう訴えた。
「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった! 」(本書p42より)
著者は12年間にわたり日本を取材し続けている。
この国において、アウトサイダーと自覚するからこそ見えた、日本の新聞が抱える「ジャーナリズムの欠落」という根源的な問題。
そのための議論を起こすために、あえて実体験に基づいた厳しい指摘をいくつもしている。
同時に、志をもって働く日本人ジャーナリストたちと、3・11から立ち上がりつつある第二の故郷・日本にエールを送る。


【目次】
第1章 青い目の3・11取材記
第2章 情報寡占組織・記者クラブ
第3章 かくもおかしい新聞
第4章 ジャーナリストがいない国
第5章 日本の新聞 生き残りの道


 某上杉隆さん(全然「某」じゃないですね)などの告発により、日本の「記者クラブ」に関する問題は、かなり広く知られるようになりました。
 僕もこの「記者クラブ制度」について知ったときには、「なんて閉鎖的で、読者をバカにした制度なんだ!」と腹が立ったのですが、だからといって、何ができるというわけでもなく、時間とともに「まあ、フリーランスにはいかがわしい人も多いし、なんでも『外国の制度のほうがすぐれている』なんて言われるのも、なんだかあんまりいい気分はしないし」なんて、「棚上げ」な気分になっていたのです。


 そんななか、この新書を手にとってみました。
 著者は『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長であり、12年間も日本で取材を続けている人。
 僕は内心「ベースボールと野球は違う!」というような「上から目線の本じゃないかな」と予想していたんですよ。
 でも、そうじゃなかった。


 マーティン・ファクラーさんは超有名メディアの偉い人、ではあるのですが、日本で取材を続けるひとりの「ジャーナリスト」として、この本を書いておられます。
 この本の内容としては、「取材対象との馴れ合い」や「署名記事の少なさ」、「全社横並びの『プレスリリース』しかしていない大新聞の現状」、そして、「海外メディアへの閉鎖性」など、これまでの「日本のマスメディアおよび、記者クラブへの批判」が主なものです。
 にもかかわらず、この本に大きな説得力を与えているのは、著者自身の「ジャーナリスト魂」だと思うのです。


 もちろん著者の考え方には、ひとりの日本人としての僕とは違う面もありますが、それを承知の上で、「ジャーナリズムとは何か」を問われているような気がするんですよね。

 ニューヨーク・タイムズは、佐々木康さんや深田志穂さんをはじめとするプロのカメラマンと一緒に被災地に入り、震災被害のすさまじさや被災者の悲しみを伝える多くの写真を掲載した。そのなかには、被災地のさまざまな現場で撮影した遺体の写真も含まれている。日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、「1万人死亡」と数字を見せられただけでは、現場で本当に何が起きているか読者に伝わらない。私たちは、遺体の写真を報道することに大きな意味があると考えた。
 こうした写真に対し、日本人からネット上で批判の声が上がったことは承知している。当然のことだが、亡くなった人たちの死を軽々しく扱ったり、センセーショナルな報道によって注目を集めようという意図などまったくない。日本人が遭遇しているこの悲しく、厳しい局面を正確に伝えるために、「人間の死」から目をそむけずに報道するべきだとニューヨーク・タイムズは判断した。私もそう思ったし、いまもその考えは変わらない。

 「被災地で数知れない遺体を見た」著者は、「そうした光景を目にするたび、胸に、何か苦く思いものがずしりとのしかかった」と仰っています。
 「それでも、伝えるべきことなのだ」という著者のスタンスは頭では理解できるのです。
 でも、僕は震災直後に現地入りした日本人ジャーナリストの「遺体を撮るな」と遺族に抗議された話も読みました。
 「歴史の1ページ」としては必要な記録なのかもしれないけれど、自分の大切な人が、そうやって「惨い光景の登場人物」になるのはイヤだ、というのは最もなことですし、僕はどちらかというと、後者のほうに共感してしまいます。
 こういうのは、どちらが正しい、というものではないのでしょうけど。
 ただ、大事なことは、著者は「自分のジャーナリストとしてのスタンス」を明らかにしている、ということです。
 「こういう理由があるから、遺体の写真を『報道』するのだ」と、批判を承知の上で明言している人と、「何か問題があったら困るから」「そんなの最初から『当然のこと』だろ」と、逡巡すらしない人。
 とにかく、日本の「ジャーナリスト」は、顔が見えにくい。
 そういう意味では、ネットメディアのほうが「その記者の個性」がみえる記事が多いのは確かです。

 
 著者が2011年1月に、ライブドアの堀江元社長などを採り上げながら、「日本の世代間格差」について記事を書いたところ、「記者はここまで自分の立場を明確にしないほうがいい」という批判のメールが届いたのだそうです。
 それに対して、著者はこのように「返答」しています。

 私は最初から、この記事を完全に客観的に書こうとは思っていない。「マーティン・ファクラー」という署名がはっきり入っており、私の目から見た日本を記事に書いていることは明らかだ。
 そのうえで、偏った感情的な表現にならないよう、冷静かつ平等に記事を書いている。この記事は、私が書いたもののなかではかなり極端な内容ではあるだろう。だが、さまざまな状況を吟味したうえで、公正だと判断したときには記者は自らの意見を強く述べてもいいと私は思っている。それは読者に「この記者はこうした主張・信念をもって日々の記事を書いている」という判断基準を与えることもなるからだ。
 その点、日本の新聞に「客観報道」という”神話”が息づいていることは不思議でならない。日本の新聞は言葉遣いや文法がきっちり決まっており、まるで同一人物が書いているかのような記事ばかりだ。自分の名前を出して記事を書く主筆編集委員論説委員など一部を除いて、記者が導き出した判断を前面に押し出す記事はほとんど掲載されない。
 公正な報道を実現するために、異なる立場の識者のコメントを両論併記するのは重要だ。だが、無理やりバランスを取ろうとする必要はない。取材を重ねたうえで右、左どちらかの結論に至ったのであれば、記者の署名入りで堂々と記事を書けばいい。いくら新聞が「客観報道」を追究したところで、究極的には報道とは主観の産物でしかないのだ。

 言われてみればもっともな話で、「報道とは主観の産物」なんですよね。
 そもそも、何を記事として載せるか、それを1面に載せるか、隅っこのほうに小さく載せるかという選択そのものが「主観」によって行われているわけですし。
 考えてみれば、「客観報道神話」って、「自分たちが『客観報道』をしなければ、読者はみんな騙されてしまうだろう」というマスメディアの「驕り」でもあると思うのです。
 ブログと一緒で、「この人は、こういうことを普段から考えている人だ」ということがある程度わかっていれば、大部分の人は、「それなりの読みかた」で判断できるはずなのに。

 
 著者は、この本のなかで、2002年に『ニューヨーク・タイムズ』の記者が流した「イラク大量破壊兵器核兵器)保有」という「意図的な誤報」や2003年の「パクリ記事事件」についても触れています。
 もちろんそれはジャーナリズムとして間違ったことです。
 しかしながら、『ニューヨーク・タイムズ』は、「謝罪や訂正を、紙面の最も目立つところに載せる」ことと「そのような間違いがなぜ起こったのかを検証する」ことを続けています。
 そして、ニュース源についても、「原則的に実名で、匿名の場合もその理由を明示する」ことを徹底しているのです。

 あまりにも匿名コメントの実例が多すぎるので、敢えて日本の新聞記事を紹介するのは控えておこう。皆さんのお手元にある新聞を開いて、政治面や社会面を眺めてみてほしい。そこには「政府首脳」「政府高官」「検察関係者」「捜査関係者」、はては「買い物に来ていた女性」まで、のっぺらぼうのような正体不明のコメントが掃いて捨てるほど見つかるはずだ。
 また「〜だということがわかった」という”主語なし文章”も不思議な表現だ。政府や捜査当局、企業の公式発表があったのであれば、「××は△△と発表した」と主語をはっきり書けばいいはずだ。これでは発表されたものを報道しているのか、記者が自分で見つけてきたネタなのか、読者は区別がつかない(賢明な本書の読者はご存知だろうが、「〜がわかった」という新聞用語は発表報道の典型的な表現だ)。それとも、日本の新聞記者はある日突然、神の啓示のようにニュースが頭のなかに舞い降りてくるとでもいうのだろうか。

 こういうのは「日本語らしい」といえばその通りではありますし、名指しされることによるリスクが日本では大きいという可能性もあるのですが、たしかにおかしな話ではありますよね。
 こういうところは、それこそ今すぐにでも変えることができそうなものですけど。

 
 日本の大手新聞は、発行部数でいえば、『ニューヨーク・タイムズ』の10倍くらいあり、日本の新聞記者たちはアメリカのジャーナリストと比べれば、はるかに給料もいいし、競争にさらされることもありません。
(ちなみに、『ニューヨーク・タイムズ』の記者(記者経験あり)の平均年収は、約736万円なのだそうです。円高の影響があるとはいえ、「世界最高峰といわれる新聞の記者でも、このくらいなんですね。日本の大手新聞社では、30歳で1000万円近くになるらしいです)
 そんな「ぬるま湯」のなかで、自らの「保身」ばかりを考えるようになってしまったエリートたち。
 著者は、彼らを「取材対象の官僚たちと同じではないか」と批判しています。
 ジャーナリストが取材対象と「馴れ合い」で仲良くなって、他社より1日早く公式プレスリリースに書いてあるような内容を知って「特ダネ」だと自慢することに、意味があるのか、と。


 もうひとつ大事なのは、「受け取る側の姿勢」だと思うのです。
 「御用マスコミ」が発達してきた裏側には、「購読料ではなく、広告で稼がなければならないマスメディアのビジネスモデル」が存在しています。
 とくにネットの時代になって、情報は「無料」あるいは「ものすごく安い」のが当たり前と考えて、お金を払おうとしなくなりました。
 でも、マスメディアのような「情報を集めるためのシステム」には、やはりコストがかかります。
 「広告主の顔色をうかがわなくてもいい、独立した良質のメディア」を評価し、お金を出すように(あるいは、「御用メディア」をきちんと拒絶するように)ならないと、おそらく、この状況は変わらないでしょう。
 
 
 著者は、最後に「いまも胸に刻んでいる、先輩記者が教えてくれた言葉」を紹介しています。

 ”A good journalist needs a sense of moral outrage.” 
(良いジャーナリストには正義感(悪に対する人間的な怒り、義侠心)が必要だ)

 「ジャーナリズム」とは、形式や特定の組織に所属することではなく、志みたいなもの、なのかもしれません。
 メディア側に属する人だけではなく、ブログやSNSで発信している人、そして、「日本のマスメディアを批判してはいるけれど、どこが問題なのかうまく指摘できない人たち」に、ぜひ読んでみていただきたいと思います。
 悔しいけど、少なくとも「覚悟」では、日本のジャーナリズムは負けています。

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