琥珀色の戯言

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【読書感想】光圀伝 ☆☆☆☆


光圀伝

光圀伝

内容紹介
何故この世に歴史が必要なのか。生涯を賭した「大日本史」の編纂という大事業。大切な者の命を奪ってまでも突き進まねばならなかった、孤高の虎・水戸光圀の生き様に迫る。『天地明察』に次いで放つ時代小説第二弾!

あの『天地明察』につづく、冲方丁さんの歴史小説第二弾。
750ページで定価1900円、税込みでも1995円と、2000円を超えない価格設定は、作者の自信と良心のあわわれなのでしょうね。
これ、上下分冊、各1500円でも、みんな納得しただろうと思うもの。
宝島社文庫だったら、4分冊くらいになりそうです。


この『光圀伝』、正直、序盤から前半、光圀の幼少時代は、ちょっと読んでいてつらかった。
徳川頼房の三男ながら、長男を差し置いて(次男は夭折)、水戸徳川家の世嗣に選ばれた光圀。
あふれる才能と野心、そして鬱屈。
お忍びで江戸を闊歩し、「引くに引けなくなって」罪もない人間を斬ってしまったり、酒屋での議論で浅学者たちの鼻をへし折ったり……
うーむ、光圀は、たしかに「魅力的な人物」ではあるのだと思います。
「詩で天下を取る」と豪語する一方で、粗暴な(というか、自分の中の狂気をおさえきれない)面があったり、自分の出生へのコンプレックスをずっと引きずっていたり……
読んでいて、大名の御曹司として生きることへの葛藤に共感するところもあり、大名の御曹司だからこそ、こういう生きざまが許されるところがあるのだろう、という妬ましさもあり。


面白くなってきたのは、200ページを過ぎてから、くらいでした。
不躾ながら、光圀の周囲の人たちが、バタバタと亡くなっていくあたりから、ひき込まれていったのです。
なかには「もう死ぬのかこのキャラ、キルヒアイスじゃないんだから……」などという登場人物もいました。
(実在の人物の死を、小説のキャラと比較しておかしいというのも変な話ですけど)


いろんな意味で、「人間的」に描かれているんですよね、この光圀は。
ただ、冲方さんがこの小説で描いた「光圀の大義」というのをどうとらえるかで、この小説への感情移入度は変わってくるのではないかと思います。
自分が水戸の世嗣となったことに悩んだ光圀は、儒学を学び、伯夷叔斉の故事を知ることにより、ある「決意」を胸に秘めることになります。
しかし、それはいまの世の中に生きていて、自分の子どもがいる僕にとっては、なんというか、あまりに「理不尽」というか、「大義のためとは言うけれど、そんなややこしいことをするよりは、せっかく丸く収まっているのだから、このままの流れを保ったほうがいいんじゃない?」と感じてしまうんですよね。
そのために、光圀は、自分の子どもやその母親をつらい目にあわせている。
自分自身がそうされて苦しんだのと同じことを、自分の子どもにしているのです。
そんな「大義」に意味があるのか?


でも、それは今この時代に生きている僕の感覚であって、17世紀に生きた人々からすれば、それはまぎれもなく「美事」であり「痛快事」だったのかもしれません。
まあ、「美談」として語られたことを考えると、当時の人々にとっても、「非常識で、すごい話だけれど、そんなことは現実的ではない」ということだったのでしょうね。


そのあたりの「あの時代といまの時代の感覚的なギャップ」を埋められるか、そういう「人間的な弱さや矛盾を抱えながら、(自分にとっての)大義を貫いた男」を好きになれるか、というのが、この作品に「ノレる」かどうかの境界なのではないかなあ。


僕はこの小説の世界に溢れる、冲方さんの「光圀愛」に感動しながらも、「光圀は、それを後悔することはなかったのだろうか?」と考えていたのです。


なんだあいつか、面白くないな、と「冒頭の男」の種明かしには、最初がっかりしたのですけど、その後、その男が彼が語った「思想」みたいなものには、「そこにつながってくるのか……」と感心してしまいました。


この作品の主役は、実は光圀ではなくて、「大義」というものだったのかもしれません。
「大義」を貫くために生涯をかけてきた光圀なのですが、その光圀がつくりだした「大義」は光圀の晩年になって、周囲の人たちによって膨張し、先鋭化し、当の光圀ですら「そこまでのことは、考えていなかった」ものになっていきます。
光圀が育てた「大義」は、光圀自身をも喰い破ろうとするのです。
もちろん、史実で光圀がどこまでのことを頭の中で考えていたのかはわかりませんが……


個人的には「あまりに史実とかけ離れた話なのでは……」と思ったので、Wikipediaで調べてみたのだけれど、Wikipediaの範囲では、小説を読んでいて、「これは嘘だろ」と思ったところの多くが史実だったことに驚きました。
もちろん、ある出来事が起こった際の当事者の心情ばかりは、誰にも、もしかしたら当事者その人にもわからないのだけれども。


作中、ある人物が、光圀にこう言います。

「史書に記されし者たち全て、生きたのだ。わしやお前が、この世に生きているように。彼らの生の事実が、必ずお前に道を示す。天道人倫は、人々の無限の生の連なりなのだから。人が生きる限り、この世は決して無ではなく、史書がある限り、人の生は不滅だ。なぜなら、命に限りはあれど、生きたという事実だけは永劫不滅であるからだ」

冲方さんは、たくさんの資料にあたって、「歴史のなかで、生きてきたひとりの人間」の姿を、この作品で語ろうとしていますし、それは成功しているのではないかと思います。
「なんでこんなことをした人がいるのか?」というのを記録し、後世の人にとっての生きる指針とするのもまた、歴史の役割なのだから。

ちなみに「光圀の編纂事業には、あまりに多くの費用がかかり、水戸藩の財政を圧迫していた」とも言われていて、「現実を生きる」ことと「未来をみて生きる」ことの両立は難しいなあ、なんて考えてしまいました。


あと、「水戸光圀」といえばまず思い出してしまう、時代劇『水戸黄門』なのですが、実際の光圀は江戸と領地の水戸を行き来するだけで、生涯に一度鎌倉まで足を伸ばしたことがあったくらいだそうです。
この作中では、その「諸国漫遊伝説」のルーツについても触れられています。


水戸黄門」って、こんなに激しい人物だったんだなあ。
たしかに面白い、でも、「歴史」を描いた作品としては、面白すぎるかもしれない。
なんとなく引っかかるのは、冲方さんが、自由に登場人物を動かし過ぎているような感じがするんですよね、これ。
実際は、読みながら僕が感じていたよりも、はるかに「歴史に忠実であろうとした作品」みたいなのですけど。

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