琥珀色の戯言

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【読書感想】一億総ツッコミ時代 ☆☆☆


一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難―。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ過多」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打破し、面白い人生にするために!異才・槇田雄司(マキタスポーツ)による現代日本への熱き提言。


ああ、これは「アツい」本だなあ。
こういうことを正面切って言う人って、あんまりいないですよね。
それこそ、ネットなどで「ツッコミを入れられる」のではないかと心配になってしまいます。
ここに書かれていることは、いまのネットというか、世の中の「閉塞感」を克服するためのひとつのヒントになるんじゃないかと思うのです。
ある意味「閉塞感」を意識したり、それで「自粛」するのも「他者の目を意識しすぎているから」なのだろうし。

 まず「ツッコミ志向」から「ボケ志向」になることについてお話しましょう。
 何度も言いますが、時代を語るキーワードは「ツッコミ」です。
 このツッコミという行為は、かつては面白い言動(=ボケ)にだけ行われるものでした。しかし今やあらゆる失言、失敗に対して行われるようになった。ツッコミというよりも、指摘、批難というたぐいのものに成り代わったのです。
 笑いに変えるための手法であった「ツッコミ」は人を簡単に批難するためのツールとなりました。多くの人は他人にツッコまれることを恐れて、なるべく下手な動きをしないようになった。同調するようになったわけです。
 もともと人と違うことをするのが苦手な日本人がますます萎縮するようになったのは、この「ツッコミ」という攻撃によるものといえるでしょう。
「ツッコミなんてしてないよ」と言う人でも知らず知らずのうちにツッコミをしてしまっているはずです。気になるニュースについてツイッターでコメントする。タレントの年齢詐称や整形疑惑についてミクシィなどでコメントする、友達の変わった言動に対してコメントする――。


 重ねて言いますが、ツッコミというのは「なんでやねん!」という行為のことだけを言っているわけではありません。
 自分では何もしないのに他人がすることについて批評、ときに批判することを指します。これが私の言っている「ツッコミ志向」ということです。

 著者はもう一方の「ボケ志向」を、「主体的に、主観的に行動する人の考え方」だとしています。「自分の人生の主人公は自分である」ことをきちんと人生で体現できている人」だとも。


 僕みたいにネットばかりやっていると、たしかにこの「みんながツッコミになってしまった時代」を実感せずにはいられません。
 著者は「マスコミの報道に乗じて、隙がある人をみんながネットなどで責める」ことを採り上げているのですが、僕の実感としては、いまの「ツッコミ社会」はその「マスコミと一緒に隙がある人を責める」から、「そのマスコミの隙を見つけて批判する」、さらに、マスコミにツッコミを入れている人たちのあらを探して攻撃する」という状況になっています。
 そして、その人たちも、やっぱりツッコミを入れられ……
 まさに、「ツッコミ無限地獄」なんですよね。
 とにかくみんな、「他者にツッコミを入れる側」に回ろうとするのです。
 それは、自分を偉く見せたいというよりは、「自分を守るための方便」であるようにすら思われます。


 著者は、芸人であり、「プロのツッコミ」なのですが、だからこそよりいっそう、この「ツッコミ社会」の問題点を痛感しているようです。
 その一方で、「じゃあ、こういう社会で、どういう生き方をしてけばいいのか?

 多くの人たちは、すごくツッコミを入れたい人たちなのだから、自分はボケになるというスタンスがこれからは有効です。ツッコミを入れられる側になる。場合によっては、ヒール(悪役)になってもいいでしょう。
 私自身、批判にさらされる役、ヒール、いじられ役、ボケ役になる、つまり「道化」になろうという意識がすごくあります。
 ツッコミをしたい人が芸人以外にもこれだけたくさんいて、そこにボケがいれば絶え間なくツッコミが入ってくるでしょう。

(中略)

 以前は私自身、ツッコミを入れられること、いじられることが嫌だったのだから、ずいぶんな変わりようです。でも、ボケはこれからの時代「オイシイ」わけです。「オイシイ」のは芸人に限った話ではなく、一般の人々だって同じなのです。


 こういう時代だからこそ、みんなは「叩いているようで、実は、ボケというか、自分がツッコミを入れられる対象を必要としている」のですよね。
「炎上ビジネス」なんて言うけれど、ある意味「みんなのツッコミ欲を満たしてあげて、稼いでいる」という考え方もできなくはない。
 ネットをみていると、「ボケに対するニーズ」は、確実に存在しているというか、「ツッコミを入れやすい内容のほうが、多くの人に読まれたり、言及されたりする傾向はある」のです。
 まとまっていて、ツッコミどころに乏しいものは、目を留められにくい。
 

 みんながみんな「メタ的」で「評論家」のようになってしまいました。そこでは、あらゆる物事に対して「良い/悪い」という「評価」をします。日本ではフェイスブックでも「好き!」ではなく「いいね!」です。評価をしているわけです。しかし、この「評価目線」は息苦しさを増長させる方向にしか左右しないのではないかと私は考えます。
 あらゆる物事に対して「良い/悪い」という評価をするのではなく、もっと「好き/嫌い」という感情を表現してみてはどうでしょうか。

 2011年の初頭に、お相撲さんの八百長問題が発覚したことがありました。メールの内容が公開され、マスコミの扇情的な報道も後押しになり、みんなで叩き倒しました。
 八百長はけしからんことかもしれませんが、相撲という世界は、特殊な人たちによる、特殊な世界でもあります。そういうところまで思いが及ぶことなく、頭ごなしに「相撲界はダメだ」「お相撲さんって笑っちゃうよね」みたいに否定する。まさに「ツッコミ高ボケ低」社会を象徴する事象だったと思います。
 そういう人たちは「八百長問題が発覚した今こそ、相撲を見に行くべきなのでは?」と思うこともありません。国技館に空席が目立つという報道を見て実際に足を運び、「本当にガラガラなんだ!」と体感することもない。
 何が言いたいかというと、現場を見ずして、情報だけで物事を判断し、ツッコミを入れる。その姿勢はあんまり面白くないな、と思うわけです。肌感覚がないまま、伝え聞いた情報だけで評価を下してしまうことは危険ですらあると思うのです。

 たしかに、日本のフェイスブックでは「好き!」じゃなくて、「いいね!」になっています。
 英語での「Like」ボタンが、日本では「いいね」と訳されているのです。
 僕自身も、自分の「好き」を他人に公開するのには躊躇いがあるのは事実で、「こんなものが好きなの?」と思われるのが怖い。
 「好きなアーティスト」とか「好きな作家」とかって、案外答えにくいものじゃないですか?
 「そんなの好きなの?ありきたりだねえ」とか「センス悪い」って内心バカにされてるんじゃないか、とかね。
 「いいね」であれば、「好き」よりも、なんとなく「客観的な評価」のようなイメージを与えることができますよね。
 「自分は好きじゃないけど、役には立つと思った」みたいな言い訳もしやすいし。
 でもね、ネットでいろんな人を見ていると、たしかに「ツッコミや批判ばかりで、この人が好きなのは何なのかわからない」というタイプは、少なからずいますよね。
 こういう人とは、どう付き合っていいのか、よくわかりません。
 もちろん、ネットの外では、全然別のスタンスの生き方をしているのかもしれませんが……
 また、著者は、ネットで手軽に情報収集ができる時代だからこそ「実際に現場をみること」を勧めています。
「伝え聞いた情報だけで評価を下してしまう」人って、少なからずいますよね。
 ブログでさえ、「この人、本当にこのエントリを読んだのだろうか?」というようなコメントがけっこうあります。
 酷いものになると、エントリの内容を曲解した人のブックマークコメントやブログでの言及を読むだけで、元エントリにあたることもなく、「誤解の連鎖」を生んでいる人さえいるように思われます。


 でもねえ、考えてみれば、この本だって、こんなブログを書いている僕だって、ある意味「社会やネット世界にツッコミを入れている」わけです。
 この「ツッコミを入れる側でいたい」という防衛本能みたいなものは、実に厄介なものですね……

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