琥珀色の戯言

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『週刊朝日』と「フラット化するメディア」について

参考リンク:物言いは“すべからく”上品に:日経ビジネスオンライン


これを読みながら、僕は「そういえば、最近週刊誌って読んだことあったっけ?」と考えていました。
いや本当に読んでない。雑誌そのものを読んでない。
週刊アスキー』と『ファミ通』くらいでしょうか、手にとったのは。
そういえば、週刊誌じゃないけど、この間『サーカス』が最終号だったのをコンビニで見たな、ということを思い出していました。
あれも最初はけっこう鳴り物入りで始まった雑誌だったような記憶があるのですが、むしろよくもったというべきか。


いろんな統計をみても、ネットの影響もあり、週刊誌はどんどん部数を落としているようです。
週刊少年マガジン』や『ジャンプ』みたいに、かなりの部数が出ていたものは、凋落しながらも踏みとどまっている感じですが、内容的にもネットと被ってしまいがちな『週刊○○』(文春、とか現代、ポスト)のような「総合週刊誌」(報道やジャーナリズムを中心とした週刊誌)は、かなり厳しい状況に置かれているようです。
もう、ヘアヌードでバンバン売れる時代でもないし。


週刊朝日』は、まさにそういう「総合週刊誌」の代表格みたいな存在なのですが、社団法人・日本雑誌教会のサイトで調べたところ、2012年4月から6月の平均発行部数は21万5000部です。
まあ、こんな時代に頑張っている、とも言えるし、その程度なのか、とも思うくらいの部数です。
ちなみに、同じサイトで、2008年4月から6月を調べてみると、29万5000部。
4年間で8万部減というのは、かなり厳しい流れにあると言わざるをえません。


ちなみに「放射能がくる」の表紙で一世を風靡(?)した『AERA』の平均発行部数は、2008年4月から6月が18万8000部、2012年4月から6月が13万5000部です。
もっともこれは「朝日新聞系列の週刊誌だけが売れなくなっている」わけではないのですけど。


『総合週刊誌』というのは、新聞に「速報性」で劣るメディアであるため、「綿密な取材」や「独自スクープ」を売りにしてきたメディアです。
新聞や一般的な月刊誌ほど、「広告主の顔色」をうかがわなくてもいいメディア、でもありました。
(『週刊文春』と『文藝春秋』を比較していただければわかると思います。『文藝春秋』って、記事みたいな宣伝のページがいっぱいありますからね。小さく「PRのページ」って書いただけの)
新聞よりも長いスパンで対象を追って、比較的制約が乏しい環境で思い切った「告発」ができる」というのが強みだったわけです。


ですから、今回の『週刊朝日』は、総合週刊誌の役割が終わろうとしているなかで、なんとか「インパクトがある記事」で注目を集めようとしたと思うんですよ。
その結果が、あんな「暴走」になってしまった。
僕もあの記事はひどいと思いますし、あれを載せようという判断には、「正気か?」と問いつめたくなります。


ただ、「ああいう路線しか、もう総合週刊誌には生き残る道がなくなっている」のも事実なわけで。
ちょっと考えてみたりもするんですよ、もし同じ記事が『週刊大衆』だったらどうだろうか?『実話ナックルズ』だったら?
今回も「同じようなことが、『週刊文春』に以前書かれていた」のです。
週刊朝日』のような、挑発的かつ差別的な書き方ではないとしても。


世の中のさまざまなメディアは、それを利用する人を「想定」しています。
週刊少年ジャンプ』と『アンアン』と『文藝春秋』が想定している読者は、その雑誌に掲載されている広告をみればある程度わかりますし、テレビ番組でも局によって、あるいは番組によって、流れるCMから類推することは可能です。
小学生は『プレジデント』を読まないし、団塊の世代の男性は、『女性自身』を手にとることはない。
そういうふうに、メディアというのは、「棲み分け」がなされているのです。
一昔前の「エロ本」なんて、かなり「女性蔑視的」というか「セックスの相手としか女性をみていないような記述」がたくさんあるのですが、それに抗議する女性はほとんどいませんでした。
だって、「女性はエロ本を読まない」から。


ラジオでも、深夜放送のリスナーたちは、共犯者としてビートたけしの「毒舌」に笑っていたのです。


 以下、『ビートたけしオールナイトニッポン傑作選!』という本のなかの「伝説の第1回放送(1981/1/1)」より。

ビートたけし:次は「たけしのテレフォンショッキング」! 題名、これ私が考えましてですな。人生相談ですね。ハガキがちょっと来ておりますので、読んでみましょうね。

《僕は二浪の予備校生》。二浪で予備校、頭悪いんでしょうねえ。《うちの父は、東大出の大蔵省官吏。母は日本女子大出、兄も早稲田を出て、三菱銀行に勤めています。そして、何かにつけて家族は私を比較して白い目で見ている。ここまでお聞きになればわかるでしょう。あの一柳展也(1980年11月29日に起こった「金属バット両親殺害事件」の犯人の予備校生)とまったく同じケースなのです。実を言うと僕も親を殺そうと思って、金属バットを買ったのですが》……怖いやつですねえ! 《一柳に先を越され……》、先を越した越されたって話じゃないって感じがしますけど。


高田文夫:アハハハハ。


たけし:《しかし、初志貫徹。近いうちに計画を実行しようと思いますが、まったく同じことをしたんじゃつまりません。頼りになるのは日本中でたけしさん以外にありません。相談に乗ってください》。怖い! 新宿区、海野城太郎。大丈夫かなおい、こいつ。


(電話が鳴る)


たけし:あっ……ちょっと、ヤな予感。(電話をとる)もしもし?


海野:もしもし。


たけし:たけしですが。海野さん?


海野:はい。


たけし:海野さん、金属バットで一柳に先を越されたっつうんで、計画を実行しようと、そう思ってるんですか?


海野:ええ。今日も正月でね、オヤジの会社の連中が来たんですよ。その目の前でね、「こいつはバカだ」とかね、もうめちゃくちゃ言うんですよね。もう溜まり溜まって頭にきて、今日あたり本当にやっちゃおうなんて思ってんですけどね。


たけし:今日あたりやっちゃうのはいいんですけどね……一柳展也っていうのは、事件があった時に、すぐもうバレちゃってんの。やっぱり、やる場合はねえ、逃げ切る覚悟でやんないとダメですなあ。


海野:ああ。どうしたらいいんですか?


(中略)


たけし:うんと力ないと金属バットで頭蓋骨は割れませんよ? 頭蓋骨を貫通するためにはね、溶接で五寸釘かなんか金属バットに付けた方がいい。そうすっと一気にいけるから。そいでなるたけ後頭部を一気に叩くと。これがやっぱり一柳と違うところだろうね。


海野:でも、時間がすごくかかるような気がするんですよね。


たけし:ああ、溶接してるとこを見つかっちゃいけないっていうのはありますね。でもね、やっぱり金属バットってのは、王選手も言ってるように、圧縮バットも禁止されてる時にね――アマチュアは金属バット使いますけど、やっぱプロは木のバットにしてほしいですな。ルイズビルかなんかのね。


海野:木製。それ、溶接できないんじゃないですか?


たけし:ああ! そうか。そういう場合はねえ、ナイフで木のバットを削って突起物をいっぱい出した方がいいんですよ。鬼の持ってる棒あんでしょ? 棍棒みたいなデコボコのやつ。ああいうふうな形にした方がいいんじゃないですかね。


海野:あの、たとえば剣山みたいな。


高田:いいアイディアだ!


たけし:そうそう、剣山を紐でくくりつけるっていう手もありますね。出血多量で死ぬケース。でも、骸骨ん中に穴がいっぱい開きすぎて、そこから足がつく。やっぱり草月流の剣山は良くないですよ。


海野:そいで、やった後はね、捕まりたくないですから、あんまり。


たけし:うん、だから「酒飲んで寝ちゃった」って一柳は言ってましたけど、あんたの場合はビニール本かなんか出して、ナニカに耽っていたっていう状態の方がね、一所懸命夜中じゅう起きてたっていう感じが出ていいんじゃないかな、勉強してるとばれちゃうって感じあんじゃん? 「急に勉強なんかしだしておかしい、あいつは」って。やっぱいつものとおり耽るというね。タンパク質を出すという感じが――。


高田:ははははは。何を言って……。


海野:ああ。それなら大丈夫です。

 「ビニール本」という言葉に時代を感じてしまったりもするわけですが、第1回からこの内容!
 危ない、というより、「よくこんなの放送できたなあ……」と驚くばかりです。
 これが、今から25年前の日本で「最も人気があった深夜放送」だったんですよね。
「こんなの昼間に流したら、大騒動だろうな」って言いながら、僕たちはこれを聴いていました。
 逆に「深夜放送だから」善良な大人たちは知らなかったし、知らないふりをするのがマナーだと考えていた節もあります。
 もちろん、当時もたくさん抗議は来たらしいですが。


 某人気歌手の「羊水腐ってる」なんて、このたけしさんの毒舌に較べたら、罪のないものではあるんですよね。
 だって、「悪意はなくて、無知なだけ」なのだから。
(無知こそが罪、だと言われるのだろうか)


 ところが、いまはネットで、どんな深夜放送であっても「問題発言」は記録され、白日のもとにさらされる。
 ネットによって、あらゆるメディアは「フラット化」されてしまう。
 これが良いことなのか悪いことなのかは難しいところがあります。
 「悪いことはどんな場所でも言ってはいけない!」という正論がある一方で、深夜放送やマイナーな雑誌では、多少の「自由」(あるいはやんちゃ)が許されたほうが、ラクになる人が多いのかもしれないな、とも思う。


 いまは、ラジオや雑誌にとどまらず、女子サッカー選手の「居酒屋で合コンしていたときの会話」が、見知らぬ他人にtwitterで広められて、バッシングの材料にされる時代ですからね……
 「脇が甘い」って言われれば、その通りなんだろうけど……


 結局のところ、この号の『週刊朝日』は、すごく売れたみたいですし、「話題になって大ヒット」と「一線を超えて大バッシング」って、本当に薄い薄い1枚の膜しかないような気がするのです。
(この『奴の本性』は、さすがに一線を飛び越えて遠くに行っちゃった感があるけど)


 いや、本当は膜すら無いのかもしれない。
 で、「凋落する一方の週刊誌業界」としては、これからもきっと、「ストライクゾーンぎりぎりをいかに攻めるか」を追求していくしかないのでしょうね。
 そこにしか「売るための可能性」は残っていないのだから。
 読者が「ここまでやるか!」って喜ぶエリアと「これはやりすぎ……」と憤るエリアって、「隣接」しているのです。
 そのうえ、ネット時代では、これまで培ってきた「この読者層なら、ここまでは大丈夫」というノウハウも通用しない。


 ほんと、メディアにとっては、難しい時代になったと思いますよ。
 もう、後戻りはできないだろうけど。

 

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