琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q ☆☆☆


あらすじ:なるべく予備知識なしで観たほうが面白いと思うので、なし(前作までの「直前予習」は必須です)。


参考リンク:『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』公式サイト


今回は、全編ネタバレでお送りします。
この映画、オススメというかなんというか、とりあえず「観る人は観る」だろうし、「興味がない人は全くない」という作品だと思われます。
なんというか、「気になる人は、とりあえず観てもらいたい」けど「損した!」って思われるかもしれないな……という、うーん……


それでは、ネタバレ上等の方は、この先へ。
それ以外の皆様は、また明日(たぶん)。




本当にネタバレですよ。今回は遠慮なく「みんな観終えているもの」として書きます。


You can not redo.


セントラルドグマへようこそ。


2012年34本目の映画館での鑑賞作品。

火曜日の19時からという時間帯で、観客は100人くらい。大盛況です。


まず、予告編がすごく長かった。
噂の『HK』(「それは私のおいなりさんだ!」が、本当に映画化されるの?)の予告編は流れず残念。
で、ようやく10分以上にわたる予告が終わったと思ったら、いきなり「スタジオジブリ」のトトロのロゴマークが。
何?と思ったら、実写の『巨神兵東京に現わる』の上映開始。
僕はこれ、『旧劇場版』のラストに出てきた「観客の姿がいきなり実写で出てくる映像」みたいな「『Q』の演出の一部としてつくられた劇中劇」なのだろうな、と思っていたのです。
あとで調べてみたら、「特撮博物館」で上映されていたフィルムだったんですね。
尺が足りなかったから、同時上映にしたのか、それとも、もともとこの映画で「エヴァの前日譚」として流すことを想定していたのか。ナレーションが林原めぐみさんだけに、いろいろと考えてしまいます。
これ観ながら思ったのは「松本人志が撮った映画みたいだな」ということでした。
松本さんが撮ると「映画じゃない」「駄作」って呼ばれ、『エヴァンゲリオン』だと、なんか深読みしてもらえるっていうのは、不公平な話ではあります。
ぶっちゃけ、あの震災後にこの破壊シーンを見せられたところで「中途半端」で「悪趣味」だとしか思えない。
これのおかげで、本編の前半部分も『巨神兵東京に現る』の解釈が頭を占めていて、話に入り込みにくかったし。
「これも『Q』の一部」であるなら致し方ありませんが、「本編の上映時間が短いのでおまけ」のつもりなら、要らん。


で、本編。
いきなり『ガンダム』の大気圏突入のようなシーンからのスタートです。
なんだなんだ?アスカ生きてるけど、何あの眼帯?
で、「バカシンジ、なんとかしなさいよっ!」という決めゼリフとともに、シンジ砲?発射。


そして、場面はいきなり『宇宙戦艦ヤマト』に。
『民間人も乗っていますから』おっ、『機動戦士ガンダム』か……
この場面を見ながら、僕は「ああ、庵野総監督は、この『新劇場版』のなかで、「宇宙戦艦ヤマト」からの「日本のアニメーション」あるいは「庵野監督が影響を受けてきたアニメーション」を再構築というか、その歴史を劇中でなぞってみるつもりなのかもしれないな、と感じていました。
でも、『Q』をみた範囲では、そこまでの意図があるわけではなく、「とりあえず『宇宙戦艦ヤマト』っぽく、あるいは『ガンダム』っぽくやってみたら面白いだろうな、と作ってみた」ようにしか見えませんでした。
中途半端なパロディなら、やらないほうがいいのに……
マリも、何か意味があるキャラなのかと思いきや、ここまでは「エヴァパイロットの員数合わせ」にしか見えない……
何か「仕掛け」があるのでしょうか……いきなり最後に竜になるとか……ジブリ絡んでますし……


最初の「意味不明さ」というか、「エヴァのキャラクターが、『新春かくし芸大会』で、素人劇をやらされているような違和感」は、途中、渚カヲルがシンジにサードインパクトの光景を見せるくらいのシーンでようやく薄れてきました。
でも、ようやく、感情移入できるようになってきたところで、また、わけのわからない「人類補完計画」発動。
最後は、結局何がしたいんだかよくわからなかったカヲルが自決し(あれは、「輪廻転生からの解脱」なんですかね。うーむ)、絶望的な状況でようやく3人が揃って歩き始めてエンド。
仲間がようやく揃った!


ああ、なんかあらすじ書いちゃったけど、どうも書かないとまとまらないので許してください。
観終えて、宇多田さんの新曲と、予告を観たあと、誰か『残酷な天使のテーゼ』を歌うか、「三三七拍子」でもしないかと期待していたのですが、そんな人はいませんでした。
というか緒方恵美さんの言うとおり、「この映画を観たあとは、あまりに憂鬱で、そんなことをする気分にはなれない」ですよね普通。
いや、「こんなの観たいんじゃなかったのに!」って意味で、ちょっと歌いたくなったけどね僕は。


終映後、観客の反応をしばらく観察していたのですが、みんな黙って出ていっていました。
そんななか、男性二人組が、うつむきながら「難しいね」「うん、バカにはわからんよ」と小声で話しながら出ていったのが印象的でした。
念のために言い添えておきますが、この二人は「バカ」をバカにしているのではなくて、「自分たちのようなバカにはわからない」と自嘲ぎみに話していたのです。


僕は、この映画を観ながら、ちょっとムカついていたのです。
いつまで、僕はこの「解釈ゲーム」に付き合わなければならないのか?
「わからない観客のほうがバカなのではないか?」と凹んでしまうような衒学趣味から、「身体性」への転換こそが『新劇場版』ではなかったのか?
「なんかよくわからんけど、ポカポカする」のが『破』なら、「観客のささやかなプライドをポカポカ殴りつける」のが『Q』。


なんか勿体ぶったエピソードが続くわりには、「初号機にはシンジの母親、碇(旧姓・綾波)ユイの魂がインストールされている」「綾波レイは、碇ユイのコピーである」というシリーズ最大級の謎が、冬月先生によって、いきなりストレートにシンジに明かされます。
ええーーっ!それって、「観客はみんなもうわかっているけど、劇中で直接語られることはなかった、エヴァの最大の謎のひとつ」なのに。
それを、そんなふうに直接、しかも唐突に明かすことに、意味があるの?
僕はその「謎解きの内容」じゃなくて、「なぜこの『Q』でいきなり、こんな『告知』が行われたのか?」のほうが興味深かったです。
冬月先生に見せ場をつくりたかったのでしょうか?
レギュラー陣のなかで、もっとも高齢の冬月先生が、『破』と比較するといちばん老化が目立っていたのが印象的でした。
でもまあ、それこそ僕のような「中途半端な衒学趣味エヴァファン」の悪いところで、「登場人物」じゃなくて、「制作側」の顔色ばっかりうかがってしまいがちになるんですよね。


『序』『破』で、「比較的前向きなエヴァンゲリオン」をつくってきた制作者たちに「いろんなことがあったけど、今回の『新劇場版』では、ついにエヴァンゲリオンに「おとしまえ」をつけるつもりなんだろうな、って、思っていたのです。
そろそろ、僕たちも、庵野さんたちも、卒業の時期だ。


いや、そもそも『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(旧劇場版)で、一度は「卒業」していたはずの『エヴァ』に、なぜ庵野さんたちは帰ってきたのか?


Wikipediaの『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』には、こんな記述があります。

 大月俊倫は「あまり言うとネタバレになっちゃうんですが(笑)12年前の『エヴァ』(旧劇場版)では、あの頃の社会状況や庵野さんの内面の問題があったりして、 特に劇場版は世界が破滅して、シンジとアスカだけ生き残るという破滅的な形で終わりましたから、あの続きはありえないんですよ」とシンジとアスカのみが生存との製作側の認識を示している。同様に劇場版主題歌「魂のルフラン」の歌詞についての及川眠子へのインタビューでも、「みんな死んじゃうから、というので輪廻をテーマにしたんです」、「魂のルフランはこれで終わりという歌ですから、新しい詞は書きようがないんですね。輪廻を出してしまったら次はないですよ。今度の映画ではみんな死んじゃったんでしょ」、「打ち合わせの時にみんな死んじゃうんですかって(庵野に)聞いたら、次が出来ないように殺しちゃうんです。もう疲れましたからって(笑)」としている。


また、大槻ケンヂとの対談でどういう話(テーマ)なのかと聞かれた際、庵野は「最終的には、いいじゃん、他人がいても、ということですね」と述べている。

率直なところ、『破』から3年半たって、ようやく『Q』にたどり着いて、僕はちょっと嬉しかったんです。
この3年半に、亡くなった人もたくさんいたし、あのとき生まれて半年だった息子も、4歳になりました。
なんとか仕事も続けられている。
ようやく、ここまで生きてきたなあ、って。
最近、思うのです。
人って、なんらかの中途半端を抱えて死んでいくものだよな、ということを。


ファンボーイズ』って映画があるんです。
熱狂的な『スター・ウォーズ』ファンの若者が主人公なのですが、彼は重病で、余命いくばくもない。
でも、死ぬ前に、なんとか『エピソード1』を観たい。
そのために、仲間たちととんでもない冒険をするという話です。


僕にも、いつか必ず「その時」が来る。
そして、全く心残りや中途半端が無い人生の終わりなど、たぶん存在しません。


ああ、なんかすごく回り道しながら書いているんですが、なんかね、『Q』を観てがっかりしたのは、「この映画をつくった人たちは、物語を終わらせる責任を回避しているだけなんじゃないか?」と思えてきたことなのです。
あるいは、次の『FINAL』が終わった3年後くらいに「新新劇場版・寿限無」とかが始まるのではないか、という気がしてきたことなんですよ。
稼げるかぎり、無限ループしていく『エヴァンゲリオン』。
まとめてDVDで観る未来人は良いかもしれないよ。
でも、僕はもう、つきあいきれなくなってきている。
(とはいえ、2時間映画を観ることで、これだけ「語れる」映画も少ない、それは認めざるをえない。『のぼうの城』なんて、野村萬斎さんすごいねえ!て終わっちゃう映画だから。けっこう面白いけど)


こんな、「トゥルーエンディングのない『シュタインズゲート』」みたいなのを延々と繰り返すために「新劇場版」って、つくられたのだろうか?


「バカにはわからない」と思い込ませて、「王様は裸だ」と誰にも言わせないようにしているだけなのではないか?
どんなに「解釈」してもムダなんじゃない?
もともと「答え」なんてないのかもしれないよ、迷わせて、話題にするためだけの「謎」で。


いや、「3部作の真ん中」って、つらいのはわかります(『新劇場版』は、(たぶん)4部作のようですが)。
スター・ウォーズ』の『帝国の逆襲』なんて、ハン=ソロ氷漬けで終わりですからね。
続きが気になるようにしなければならないし、いちおう、1本の映画としても「区切り」が必要。
最後を盛り上げるためには、主人公を「これでもか!」とばかりに逆境に追い込んでおくというのもひとつの手段です。
もしかしたら、この苛立ちも、『FINAL』で、スッキリするのだろうか?
でも、スッキリするような作品は『エヴァンゲリオン』なのか?


『完結編(FINAL?)』も観ます。生きていれば、ね。
なんかもう、腐れ縁みたいなものなので。


『Q』を観るまでは、「もう、これとあとひとつで『終わり』なのか……」と、観るのがもったいなくてしょうがなかった。
いまは、「もう、次でちゃんと終わろうよ、終わってほしいよ」と思っています。
そのときは寂しくても、「終わるべきときに終わる」のが、「サービスサービスぅ!」なんだよ、きっと。

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