琥珀色の戯言

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「上から目線」の時代 ☆☆☆☆


「上から目線」の時代 (講談社現代新書)

「上から目線」の時代 (講談社現代新書)

内容説明
なぜ2000年代後半から「上から目線」という重苦しい言葉が、社会のあらゆる場面で使われるようになったのか? その背景を目線の始まり、社会の変化、日本語の構造にまで踏み込んで解明。
「コミュニケーションが困難な時代」には対立の尖鋭化が目線となって表れる。目線が悪さをする例、目線に怯える問題点、下から目線の居心地の悪さなど、目線の問題を多くの視点から取り上げながら、さらに、「コミュニケーションが困難な時代」の新しいコミュニケーションスタイルを提案する。
「上から目線」の時代を真正面から取り上げた快著誕生!


「上から目線」のことを採り上げた本は少なからずあるのですが、その中ではかなり読みやすい一冊だと思います。
著者は「上から目線」というのが意識されてきたのがいつごろからなのか、という問いに対して、養老孟司さんの『バカの壁』が大ベストセラーとなった2003年頃からではないか、と述べておられます。
バカの壁』そのものに対して、「上から目線の本」だという言葉を使っての批判は、当時はなされていなかったのです。
しかしながら、「わかっている人(=著者)が、わかっていない人を見下しているような態度」だという批判は、のちの「上から目線」に対する批判と同じものだと考えてよさそうです。
もっとも、養老さん自身は、人が「わかっている」範囲には、それぞれ違いがあるのだ、だからコミュニケーションは難しいのだ、と言いたかっただけで、別に誰かを見下していたつもりはなかったのでしょうけど。

「そう言えば、ここのところ話が弾んだ経験はない」
 多くの人はそんな感想を持つのではないか。純粋に初対面の人と「特に用事もなく、話題も決まっていない」会話がうまくいったという経験は非常に少なくなってきている。
「友人の結婚披露宴で初対面の親族と隣同士の席になって困った」
「タクシーに結構長時間乗ったが、運転手と特に何も話すことはなく気まずい思いをした」
「旅行ツアーに参加したが、結局他の参加者とは何も話せなかった」
 そんな具合で、むしろ「会話ができなくて気まずい沈黙を経験した」ということのほうが多いのではないだろうか。いや、もうそうした沈黙が当たり前になってしまい、初対面同士では「お互いに何も話さないことになっている」のがデフォルトという感じも出てきた。最近では「お客様に迷惑な余計な雑談をしない」と断ったヘアサロンが人気という話もあるくらいだ。
 だが昔の世の中ではもう少し自然に初対面の人と会話ができたのではないだろうか。自分より上の世代の人々は、いや自分自身だって結構スムーズに「初対面の人」と話をしていたではないか。では、自分の話術が下手になったのか。あるいは世の中に余裕がなくなって、意味のない雑談など遠慮しなくてはならない雰囲気になったのだろうか。だとすれば、社会が悪くなったのだ、イヤな世の中だ、そんなふうに感じることもあったし、それにマヒしているようにも感じる。


この本の良いところは、多くの「上から目線関連新書」にありがちな「『上から目線』なんて批判する日本人はおかしくなった」というような、「上から目線での批判」ではないところです。
これは時代の流れであり、いままでの世の中の「暗黙の了解」そのものが崩れてしまったのだから、「上から目線」とうまく付き合ってやっていくしかない。
たしかに、そうかもしれないなあ。


この本のなかでは、「披露宴で『できちゃった結婚批判』をしたために臨席の若い人と気まずくなってしまった列席者の例」が挙げられているのですが、「とりあえず、そういう席では世間話をするものだ」というお約束が薄れてきたのは、僕自身にとっては、けっして悪いことではないのです。
床屋で話しかけられるのも苦手というか大嫌いだし。
しかし、「いいお天気ですねえ」みたいな「知らない人との会話のテンプレート」が無くなってしまうというのは、たしかに「なんか気まずいなあ」と感じることもあります。
挨拶とか世間話っていうのは、とりあえず「相手に敵意がないことの確認」にもなるので。


「ちょっとした世間話でめんどくささを感じることもあるので、黙っていたいのだけれども、相手が気まずそうにしているのが伝わってきて、僕もなんとかしたほうがいいのかな、と居心地が悪くなる」という状況が多いような気がします。


著者は、「野良ネコやクマに対する、駆除派と保護派の対立」を例にあげて、「価値観の衝突」について語っています。

 それは「加害者の論理」と「被害者の論理」が対立しているという構図だ。クマにしても、シカにしても「殺すな」といか「保護せよ」と言っている人たちにあるのは、自分たち人間は「加害者の立場」なのだから、加害行為を反省することが大事だという姿勢である。一方で「射殺やむなし」という意見の背後にあるのは、クマに危険を感じている人間、シカとの衝突を恐れるドライバーであり、つまり「被害者」の立場だということになる。かなり重大な被害を受けるか、受けそうになった恐怖体験を引きずった人間は、その「被害当事者」という意識から、強い経験則として防御本能を前提とした判断に傾くことになるのだ。
 問題はこうした「加害者の論理」と「被害者の論理」が衝突しがちだということだ。衝突のパターンは決まっている。「加害者の論理」から自省が大切だと思っている人からは、「射殺やむなし」という主張を行っている人は不道徳に見える。悪しき人間が、残虐な武器を使用してどんどん動物の生命を奪っている、これは許せないというわけである。その結果、猟友会の人々などには、ある種の侮辱の意識を持って対することになってしまうのだ。
 この無自覚な侮辱意識は、「被害者の論理」の側には困惑を生じるだけだ。「正当防衛として行っている行為に対して、どうしてそこまで批判されなくてはならないのか?」という困惑は、次の瞬間には怒りに転じるのだ。「自分たちの手は汚さない一方で、我々に対しては不当なまでの侮辱の意識を持って攻撃してくる」あの人たちは、もしかしたら自分たちの「敵」なのではないか? そんな怒りである。この対立構図は、いったんお互いを罵倒し始めると暴走する傾向がある。

こういう「根本的な立ち位置の違い」というのは、そう簡単に解決できるものではありません。
クマに襲われたことがあったり、身近に危険を感じている人と、それをニュースで知った、実際にクマに遭遇する可能性はほとんどない都会の人とでは、お互いの前提条件が違いすぎるのです。
昔は「クマの危険」については、地元の人しか知らず、「その場にいる人間の感覚で」対策を考えていればよかったのですが、マスメディアやインターネットの発達により、直接の利害関係を持たない人たちが、その「議論」に参加できるようになりました。
「第三者からの意見」という意味では貴重な面もあるのですが、それは、当事者にとっては、めんどくさいというか、迷惑な話でもあるはずです。
誰だって、自分が襲われる危険がなければ、生き物を「駆除」することに積極的に賛成はしがたいでしょうし。
その上、「クマを殺すなんて残酷だ」などと、まさに「上から目線」で、「安全地帯から」言われれば、反発するのも当然のような気がします。
こういう論争は、「自分の手は届かないけれど、情報だけが伝わってくる」社会では、延々と繰り返されるしかないのかもしれません。


こういう「上から目線」的な発想、「日本人的」だと僕は考えていたのですが、著者によると、少なくともアメリカには同じような傾向があるようです。

 では、アメリカには「上から目線」に似た現象はないのかというと、実はあるのだ。
 大昔からあり、しかも、近年はどんどん現象として顕著になってきている。
 その一つは、反エリート感情という動きだ。
 オバマ大統領の登場前後から急に勢いを増した「ティーパーティ(茶会派)」運動というものがある。元来は共和党の支持者の中にあった、連邦政府による課税に反発し、「小さな政府」を志向して福祉や公共予算に対する大胆なカットを要求する運動だった。これが、2010年の中間選挙で連邦下院の圧倒的多数を確保するに至ったのには、単に課税への反対ではなく、オバマとその支持者というエリートへの反発感情があった。
 要するに、オバマを支持しているのは「東北部やカリフォルニアといった国際化した豊かな地域」の人間であり、そもそもが「高学歴」で「高収入」なのだというイメージである。自分たちは、その正反対に位置しているというふうに感じると、こうした「オバマ支持派」の存在はいやでも鼻につくということになる。というのは、無自覚な「上から目線」をそこに感じているからである。
 たとえば、オバマ政権が「国民皆保険」を主張した際に、どうして保守派が反対したのかというと、これも「目線」が作用している。保守派からすると、家族の健康を守る健康保険というのは、雇用主と折半で入る民間のものに加入することが「最低限の責任」なのである。それを「努力しないで福祉にぶら下がっている」層が、こともあろうに税金の補助を得て健康保険に入るというのは許せないということになる。さらに、エリートのオバマとその支持層が「キレイ事」の政策を掲げて、反対する自分たちを見下すというのは、まさに「上から目線」であって許せない、彼らは口に出しては言わないが、そうした感覚が強い。

アメリカでは、なぜ「国民皆保険」に抵抗する人がいるのか、僕はずっと疑問に感じています。
どう考えても、いまのアメリカの民間保険会社による、費用がかかって、しかも制限が多い保険制度よりも、日本のような制度のほうが「望ましい」と思うから。
それは、ある程度のインテリジェンスを持った人なら、簡単に理解できるのではないか?って(こういう「インテリジェンス」とか言い出しちゃうのが、まさに「上から目線」なんでしょうけど)
もちろん、政府とつながった保険会社の宣伝が奏功しているのも事実でしょう。
国民皆保険」は、「共産主義医療」なんてアナウンスされているようですし。
僕からすれば、共産主義だろうが何だろうが、自分たちにメリットがある制度であれば、受け入れていけば良いと思うのだけれども、こういう「アメリカ国内での断絶」が、医療保険制度の決定に反映されているのです。
それは、外部からみると、この上なく不幸で残念なことなのですが……
いまの日本でも「自己責任論」が強まっていて、その点では、「アメリカナイズ」されているのかもしれません。


この本を読んでいて参考になったのは、「では、その対立に巻き込まれたときに、自分がどう振る舞ったら良いか」のヒントも書かれているところでした。
たとえば、自分が役所勤めをしていて、申請者が提出した書類に不備があった場合には?

 もう一つは、さらに「個人の立場」から移動して、利害の衝突するポイント、つまり「利害の結節点」に立つということだ。「恐れ入りますが、この申請書では受け付けかねます。条例に決められた条件に従って再申請していただけますか」と突き放すのではなく「それでは、条例に違反しない範囲でご入り用の書類を発行するにはどうしたらいいか、私に作業させていただけますか、その際に恐れ入りますが、追加の書類など、ご協力をお願いすることになると思いますが」という言い方に「移動」するのである。つまり自分の位置を「ダメなら再提出させればいい」という「コンフリクトの一方の側」ではなく、「現在の申請内容では不十分だが、問題をクリアしてなんとか発行したい」というコンフリクトの結節点に動かすのだ。そうすることによって、仮に追加の書類を揃えるのがたいへんでも、「役所に要求された」という被害者意識、そして「役所の人間は偉そうだ」という「上から目線」の印象を回避することができる。

「コンフリクト」という言葉がちょっと難しいのですが、要するに、「あなたのこれがダメだから、できない」と突き放すのではなくて、「自分もこの書類を完成させたいと思っているので、こうしましょう」と歩み寄る姿勢をみせることが大事、ということなんですね。
「正しさ比べ」をしていても、問題は解決しません。
もちろん、こんなふうに歩み寄るのは、自分の仕事を増やすことにもなるし、めんどくさくもあるのですが、結果的に、そのほうが「よりめんどうな事態を避ける」ことにつながるはずです。


いわゆる「サービス業」をやっている人にとっては、気づくところが多い良書だと思います。
「上から目線」なんておかしい!と感じることは多いけれど、それが現実に存在する以上、付き合っていかなければならないのは事実ですから。

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