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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】採用基準 ☆☆☆☆


採用基準

採用基準

内容紹介
●概要
マッキンゼーの採用マネジャーを12年務めた著者が語る


マッキンゼーと言えば、ずば抜けて優秀な学生の就職先として思い浮かぶだろう。
そこでは学歴のみならず、地頭のよさが問われると思われがちで、応募する学生は論理的思考やフェルミ推定など学んで試験に挑もうとする。
しかしマッキンゼーの人事採用マネジャーを10年以上務めた著者は、このような見方に対して勘違いだという。
実はマッキンゼーが求める人材は、いまの日本が必要としている人材とまったく同じなのだ。
だからこそ、マッキンゼーは「最強」と言われる人材の宝庫の源泉であり、多くのOBが社会で活躍しているのだ。
本書では、延べ数千人の学生と面接してきた著者が、本当に優秀な人材の条件を説くとともに、日本社会にいまこそ必要な人材像を明らかにする。

白地に黒で『採用基準』というタイトルだけが書かれた装丁の本。
某超有名ブロガーさんの手によるものだと噂されていることもあり、年齢的にも能力的にも、いまさらマッキンゼーに転職することはないけれど、興味本位で読んでみました。


読んでみての感想。
この本、超一流企業の「採用基準」というタイトルだけれど、実際は、一企業が欲しい人材情報の、あるいはその会社の「攻略本」ではありませんでした。
実際に書かれているのは「リーダーシップ」についての話なのです。


読んでいて僕が最初に驚いたのは、マッキンゼーが求めている人材についての著者の説明でした。
「いい大学を出ている、頭がすごく良くて、積極性がある、完璧超人みたいな人」しか、マッキンゼーみたいなところは求めていないのだろうなあ、と思っていたのですが、そもそも、その「頭の良さ」についての定義が、僕のイメージとは違っていたのです。

 マッキンゼーでも、分析が得意で理解力が高く、洞察が深いだけでは「頭がよい(intelligent, smart)」とは呼ばれません。最もインテリジェントだと思われているのは、処方箋を書くための、構築型の能力がある人です。
 構築型の能力とは、「独自性があり、実現したときのインパクトが極めて大きな仮説を立てる能力」(仮説構築力)であり、「ゼロから、新しい提案の全体像を描く構想力や設計力」です。
私は日本人にこういった能力をもつ人が少ないと言っているわけではありません。日本ではこういった能力が、「頭がいい」ことをイメージさせる能力として認識されていないと言っているのです。

「情報を処理する能力が高い」だけでは、「頭が良い」とは評価されない。
それは、コンピュータでもできることだし、「必要条件」ではあっても、「必要十分条件」ではない。
創造力を併せ持つ人こそが、「頭がいい人」だというのが、「世界標準」のようなのです。
日本では、「創造性」の大切さを説く人は多いのですが、それをどのように評価するモノサシが無い、というのが率直なところではないでしょうか。

 日本人の多くは、「リーダーは、ひとつの組織に一人か二人いればいいもの」と考えています。その他の人はあまり強い主張をせず、リーダーの指示に従って粛々と動くほうが、組織全体としていい結果につながると考えているのです。さらに、リーダーが多すぎると「船頭多くして船山に登る」ということわざに象徴されるようなトラブルが発生すると懸念する人もいます。
 このため、「組織においてはごく一部の人がリーダーシップをもっていればいいのに、なぜ外資系企業や欧米の大学では、採用面接や大学入試において、全員にリーダーシップを求めるのか」と不思議がられるのです。同様の趣旨で、「メンバー全員が強いリーダーシップをもっていたら、チーム全体としてはうまく動かないのではないか」といった質問もよく聞かれます。
 この質問に対する私の答えはきわめてシンプルです。全員がリーダーシップをもつ組織は、一部の人だけがリーダーシップをもつ組織より、圧倒的に高い成果を出しやすいのです。だから学校も企業も、欧米では(もしくは外資系企業では)全員にリーダーシップ体験を求めるのです。もちろんマッキンゼーがリーダーシップを、重要な採用基準と考えているのもそのためです。


「リーダーになろうという人」は、けっこう「出しゃばり」に見えてしまうんですよね。
僕も「選挙に出る人なんて、みんな目立ちたがりの自分大好き人間」というイメージを持っています。
著者は、日本人の「リーダーシップ」に対する誤解や思い込みに警鐘を鳴らすために、この本を書いたのではないかと思うのです。

 リーダーとはどんな人なのか、定義として明確にはできなくても、日本人もそのことはよくわかっています。「リーダーとは和を尊ぶ人ではなく、成果を出してくれる人だ」と、実はみんな、理解しているのです。たとえば次のような場面を思い浮かべてください。
 皆さんが家族連れで、大型客船のクルーズ旅行を楽しんでいたとしましょう。あなたは妻と娘の三人で旅行をしています。ところがある日、嵐が来て高波が起こり船は岩に座礁、沈没の危機に遭遇します。急いで甲板に上がると、数多くの救命ボートが船の横に降ろされ、人々は避難を始めようとしています。
 よく見ると、それらの救命ボートにはすでに一人ずつ主な漕ぎ手が乗り込んでいました。あなたは、「どの船に乗ろうか」、そして、「最愛の妻と娘をどの船に乗せようか」と、それぞれのボートに乗っている漕ぎ手の顔を見回しました。この時「このボートに命を託そう!」と考えたボートの漕ぎ手こそが、あなたが最も信頼しているリーダーです。
 こういった場合、私たちはどんな基準で漕ぎ手を選ぶでしょう? それは、普段の仕事でプロジェクトのリーダーに選ぶ人と同じ人でしょうか? それとも、「こいつと一緒に仕事をしたいとは思わない」という人でも、自分の命がかかった救命ボートの漕ぎ手としてなら、選択することがあり得るでしょうか?
 私が、こういった状況で選ばれる漕ぎ手こそ、リーダーとして評価されている人であると考える理由は、この選択には「命がかかっているから」です。誰にとってもこれ以上に明確な成果目標はありません。自分と最愛の家族の命がかかっている、絶対に達成したい成果目標があるのです。

僕は、これを読みながら、間近に迫った選挙のことを考えずにはいられませんでした。
僕がこの救命ボートに乗らなければならない状況に陥ったとき、選ぶのは、安倍さんか、野田さんか、橋下さんか、小沢さんか、あるいは……
正直、「うわー、どの船にも乗りたくないなあ……」とか、考えてしまいます。
でも、僕はボートを漕げない。
ああ、悩ましいなあ。
選挙、とくに今回の選挙での選択は、本当に「救命ボートの漕ぎ手を選ぶ、命がけの選択」なんですよね。
たしかに、「命がかかっている」と思えば、性格的な好き嫌いよりも、「期待できる成果」を熟考せざるをえません。
しかし、そういう現実を目の前にしてみると、「誰かを選ぶ」っていうのは、本当に難しい。


日本にはリーダーがいない、リーダーが育ちにくい国なのではないか、僕はそんなふうに考えていたのです。
「出る杭は打たれる」傾向はありますし。


そのような思い込みに対して、著者はこう反論しています。
日本にも「カリスマ的な突出したリーダー」はいる。日本に足りないのは「リーダーの総量」なのだ、と。

 日本では、大きなプロジェクトが行われることになると、すぐに「誰がリーダーになるのか(なるべきか)と話題になります。大事故が起こって深刻な問題の解決が必要になった際にも、難局を乗り切るために強いリーダーシップの必要性が叫ばれます。このように日本人にとってのリーダーシップとは、特殊な出来事が起こった時に必要なものという認識が強く、「日常的に誰もが発揮するもの」とは考えられていません。
 そしてそういった重要なプロジェクトのリーダーになるのは、有名人であったり第一人者と呼ばれる専門家であったりと、傑出した人ばかりであるため、「一般の人はリーダーになる機会などない。リーダーシップは一般人には無関係なスキルである」、といった誤った受け止め方が定着しています。
 しかし本来リーダーシップとは、そういった特殊なイベントを前提としない概念です。それは普通の人によって日常的に発揮される、ごく身近なスキルなのです。
 たとえば、マンションの管理組合の会合にお菓子の持ち寄りがあったとしましょう。会合が終わり、帰り際になってもテーブルの上にはお菓子や果物が残っています。貸し会議室なので残していくわけにもいきません。お菓子の数は全員分には足りないので、ひとつずつ分けるのも不可能です。みんながそれをすごく欲しがっているわけでもありません。
 この時、「このお菓子、持って帰りたい人はいますか。お子さんがいらっしゃる方、どうぞお持ち帰りくださいな」と声を上げる人が、リーダーシップのある人です。

僕は、この「管理組合の会合のお菓子の話」に、とても感銘を受けました。
ああ、こういうふうに言われれば、わかりやすいなあ、って。
日常で、こういう場面に出くわしたことがない人は、まずいないはずです。
でも、僕を含めて、大部分の日本人は「誰かが仕切ってくれないかな、何かあったときに自分のせいになるのはめんどくさいから」と、考えてしまいがちです。
たかがお菓子、そんなことで悩んでいるのは時間がもったいない。
誰かが決断してくれれば、誰も文句は言わないことなのに。
(とは言ったものの、このあと、声を上げた人が、ご近所さんから、「あの人は仕切りたがりだから」なんて陰口を叩かれている様子も、なんとなく想像できるのが悲しいところです)


僕は仕事柄、「どちらが正解ともいえない、重要な決断」を強いなければならない場面に立ち会うことがあります。
たとえば、副作用が強く、リスクも高いが、うまくいけば予後の改善が期待できる抗がん剤の治療を選択するか、緩和医療を選択するか、というような場面です。
患者さんも家族も、なかなか「選べない」んですよね、当然のことながら。
でも、「選ばない」わけにもいかない。
そのうちに、治療のタイミングを逸してしまうこともあります。


あるいは、持病がある人が「○○をやってもいいか?」というような場合。
「絶対に大丈夫ですよね。何かあったら、先生、責任をとってもらえますか?」と問われたら、「たぶん可能な運動や旅行」であっても、「絶対に大丈夫」とは言えません。そもそも、人間の身体に「絶対」はありえないのです。
結局、他人に責任を委ねることで、「自分ができること」をどんどん狭めてしまいます。
車の運転のように、発作によって他者に多大な影響を与える場合には、より慎重になるべきですが、こちらの説明するリスクを受け入れた上で「自分の責任でこれをやります」ということならば、「それでは、これこれに気をつけて、やってみてください」となる場合も多いはずです。


著者は、「リーダーシップを持つことは、自分の人生のハンドルを自分で握ることなのだ」と繰り返し述べています。
責任は重いし、大変だけれども、自分で行きたいところに行けて、他者に感謝される人生を望ましく感じる人は、少なくないはずだ、とも。


正直、「スティーブ・ジョブズさんや孫正義さんのような、カリスマ的なリーダーシップ」は、ある程度天性のものだと僕は思います。
著者も「そういうカリスマ的なリーダーシップを持つ人は、日本にも一定数いるし、世界各国と比べて見劣りするというわけではない」と仰っています。
ところが、「誰にでもできるはずの、『余ったお菓子の分配』」が積極的にできないことが、日本のさまざなま現場で、意思決定を遅らせ、決断を鈍らせているのです。


なんでも「欧米式礼賛」「マッキンゼー万歳」でいいのか?
僕のなかには、そういう反感もあります。
でも、これから何かをやろうという人、とくに仕事や自分のやりたいことを探している人は、ぜひこの本を一度読んでみていただきたいと思うのです。
ここには確かに、僕も日常的に痛感している「足りないもの」が書かれています。
「みんなに足りないもの」を知って、身につけようとすれば、きっと、それはあなたの特長になり、武器になるはずですから。



そんじゃーね