琥珀色の戯言

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【読書感想】前田敦子はキリストを超えた ☆☆☆


前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
AKB48の魅力とは何か?なぜ前田敦子はセンターだったのか?“不動のセンター”と呼ばれた前田敦子の分析から、AKB48が熱狂的に支持される理由を読み解いていく。なぜファンは彼女たちを推すのか、なぜアンチは彼女たちを憎むのか、いかにして彼女たちの利他性は育まれるのか…。握手会・総選挙・劇場公演・じゃんけん大会といったAKB48特有のシステムを読み解くことから、その魅力と社会的な意義を明らかにする。圧倒的情熱で説かれる、AKB48の真実に震撼せよ。

著者も「キリスト教を侮辱するつもりは全くない」と仰っているのですが、この壮絶な「釣りタイトル」には呆れました。
いまも世界中に多数のキリスト教徒がいるわけで、「注目を浴びるための手段」だとするならあまりにも「配慮がなさすぎ」で、本気でそう思っているのだとしたら、「正気か?」と言いたくなってしまいます。


まあでも、どうなんだろうなあ。
あんまり神経質になる必要もないのだろうか。
キリスト教をバカにしている、というのならば、『ひょうきん懺悔室』とかのほうが、よっぽどバカにしているような気もするし、「山口百恵は菩薩である」と平岡正明さんが書いても、菩薩信仰をもつ人からクレームが出まくって炎上した、という話もないですから。
こういう本で話題作りのために使われてしまうのも、「信仰の対象のアイコン」であるキリストの偉大さを示すもの、とでも考えておくべきなのか。
僕はキリスト教徒ではないので、信者がどう思うかはわからないのですが、まあ、「アッラーを超えた」にしなくて良かったですね、というくらいの感じなんですけどね。


書かれている内容そのものは、けっして「暴論」というわけではなく、それなりにまっとうな社会分析なんですよ。
まっとうすぎて、「こんなタイトルつけたのなら、もっと思い切って弾けてみろよ!」と思ったくらいです。
ただし後半は、著者による「AKB信仰の告白」なので、興味深くはありますが、万人向けとは言いがたい。


AKBに関しては、別にファンじゃないけれど、テレビに出ていると、ついつい観てしまう、というくらいの僕は、「CDを何百枚も買うファンって、秋元康に踊らされてるだけだろ」と、ずっと思っています。
でも、この本を読むと、「まあ、ファンでいられるのも、それはそれで幸せなのかな」という気がしてきました。
アンチからみると「集金システム」にしか見えない「総選挙」も、はじまったきっかけは、「運営側が特定のメンバーを贔屓している」というファンの声を受けて、メンバーに公平に機会を与えるため」だったというのも興味深かったのです。

 そもそもイエス・キリストはなぜ2000年の長きにわたって推されてきたのか。それは私達人類の原罪を引き受けて代わりに死んだからだとされる。原罪の贖罪である。その利他性に感染するからこそ、キリストは人類史上最大級の超越的存在たりえた。だとすればAKBは、その極めて小さな「リトル・キリスト」たちの生成装置といってよい。彼女たちは、匿名のアンチに叩かれる。それは誰も止められない。しかしその声を真摯に受け止める者だけがセンターの資格を持ちうる。そしてその者が発する利他性に満ちた言葉にこそ、センターの正当性が宿る。それはあたかも、ネットワーク社会の「原罪」、すなわち「匿名で叩く下衆な快楽」という匿名アンチの欲望を贖うかのように。
 それを誰よりも実現してみせたからこそ、あっちゃんは絶対的エースたりえた。

 そして結論を先取りすれば、AKBのメンバーたちがネット上での匿名のアンチに耐えられるのは、リアルの現場でのヲタからの承認の声を存分に浴びているからだ。それがなければ、アンチに耐えるなどということは到底不可能である。劇場や握手会といった近い距離。AKBのヲタたちは、その近接性において見るメンたちに祝福と歓喜の声を上げ、AKBへの信仰を深める。その声を間近に受けるからこそ、AKBのメンバーたちは太陽のように輝く。つまり「現場」があるからこそAKBは宗教たりえているのだ。


「信者」と直接触れ合ってエネルギーをもらい、多数の匿名のアンチからの弾圧を受ける。
こういう傾向は、「有名人」とか「人気アイドル」に、あまねく見られるものです。
人気が出れば出るほど、アンチも増える。
しかし、前田敦子さん(というか、AKB)のすごいところは、アンチを「スルー」しなかったことでした。
眞鍋かをりさんが、2ちゃんねるを「見たら負け」と評したことがありましたが、人気商売である芸能人にとってはなおさら、「アンチ」は「見て見ぬふりをする」のが当然だったのです。
いちいち気にしていては、身が持たないはず。

 もちろん、私のことが嫌いな方もいると思います。ひとつだけ、お願いがあります。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!

第三回総選挙で、大島優子さんから1位を奪回した前田敦子さんのこの言葉に、僕も戦慄しました。
前田さんのすごさは、自分で、しかも、自分の人気の高さを証明したはずの総選挙で1位を獲ったステージの上で、こう言い切ってしまったところなのだと思います。


著者は、こう述べています。

 正直に告白すれば、私はあっちゃんのこの言葉を聴くまで、あっちゃんのみならず、AKBそのものに対しても軽いアンチだった。それまで私は、いまの日本社会でもまだ多数派であろう、AKBに対する無関心層とまったく同じ感覚を抱いていたのである。「なぜ、こんなかわいくない子たちがテレビに出ているのか」「なぜ、あっちゃんのような子がセンターなのか」。私も当然のように、ごく自然に、そのようなネガティブな印象を持っていたのだ。
 しかし私はこのあっちゃんの利他性に満ちた言葉を聞いた瞬間、ひざまずいた。AKBに転んだのである。あっちゃんがいかに巨大なアンチの悪意に耐えてきたのか、その苦しみを瞬時に直覚してしまったからだ。私のAKBヲタ=信者としての日々は、そこからはじまった。それからというもの、私にはもう、AKBの彼女たちがあまりの輝きを持った聖なる存在にしか、見えなくなっていったのである。

僕はそこで「転ぶ」ことはなくて、なんだか引っかかるものを植え付けられたまま、AKBを眺め続けている感じです。
でも、「転んでしまった」著者の気持ちも理解できます。


なんであんなものにハマるのか?
騙されているだけじゃないの?
そう言われれば言われるほど、「信仰」は深まっていく。


AKBに「貢いでいる」人たちに僕が感じているものは、日本国内で新興宗教にハマっている人たちや、アメリカの「キリスト教原理主義者」への印象に近いのです。
彼らにとっては、「アンチが『理性的に』とか言って、自分の大切なものを弾圧してくること」が、信仰を強める要因にもなっているんですよね。
AKBって、そんなにかわいくないよね?
「そんなにかわいくない」からこそ、「自分たちがなんとかしてあげたい」と、いっそう強く思う人もいるのです。

 これはAKBを決して揶揄したり批判するつもりでこういうのではない。私の考えでは、現代社会が「大きな物語」を失い超越者を失っている社会であるというとき、その処方箋は、「サリンをまかないオウム」を生み出すしかないと考えている。生きる目的も、この世界が存在する意味もないままで、人は生きられない。しかしそれがオウムのように反社会的なものであってはまずい。ではどうするか。AKBのように、「近接性」と「偶然性」という何一つ超越的な要素がないものを通じてでも、生きる意味とこの世界が存在する意味をつくりだすしかない。「誰かのために」生きる。それを少なからず提供している時点で、AKBは立派な宗教である。

大部分の人間が「大なり小なり何かに依存して生きていかなければならない」とするならば、AKBというのは、比較的「良性の依存対象」なのかもしれないな、と僕は思います。
麻薬やある種の新興宗教やギャンブルに比べれば、はるかに健康的です。
そりゃあ、みんなが勉強や家族やスポーツに「依存」できればそのほうが良いのでしょうけど、現実的には、そうもいきませんから。


この新書を読みながら、僕がいちばん考えていたことは「イエス・キリストという物語のすごさ」だったんですよね。
ネットで匿名のアンチに叩かれるどころじゃなく、熱狂的な信者がいる一方で、どんなに「奇蹟」を起こしてもさんざん非難され、最期は十字架にまでかけられても、信仰を貫いた。
その後の歴史において、「キリストの教えに殉じた人」あるいは「キリスト教に従わなかったために命を落とした人」は、数えきれません。

前田さんのアンチがどんなにたくさんいたとしても、前田さんは「磔にしろ」とまでは言われないし、「五体満足で卒業」することもできたわけです。


個人的には「前田敦子卒業」という大きな「切り札」を使ってしまったあとのAKBは、なんとなく停滞しているように見えます。
あれ以上の「物語」を、これからつくり出すことはできるのだろうか?


前田敦子は、キリストを超えた」なんて嘘。あるいは巨大な釣り針。
でも、今の日本人にとっては、前田敦子さんくらいが、ちょうど「身の丈に合っている信仰の対象」なのだと思いますし、それはそれで、悪いことでもないですよね。

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