琥珀色の戯言

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【読書感想】おかんの昼ごはん ☆☆☆☆


内容紹介
ふるさとに帰ってみると、おかんが「老いて」いた。母の老い、本当の「ワタシ」、仕事の選択。心揺さぶられる大人のアイデンティティ問題を取り上げた「ほぼ日」連載の大反響コラム集。


この本のサブタイトルは「親の老いと、本当のワタシと、仕事の選択」です。
最初に掲載されている、山田ズーニーさんがお母さんの「老い」を実感したときの話、僕も読んでいて、なんだかすごくしんみりしてしまいました。

「行ってきます!」
 と別れて歩き始めた私を、はじめて、名残り惜しんで、母が追ってきた。
 いつもは、別れが辛くても、平気なふりをする母が、バレバレでも、そっけないふりだけは、必ずしていた母が。
 これも老化で、自分がおさえられんようになったんかなあ。
 母と別れ、駅に向かって歩きだすと、一歩ごとに、心と思考がつながって、ひとつの言葉になり、涙になってにじんで出てきた。それは、


「2011年、5月5日、きょう、私の青春は終わった」


という言葉だった。


僕自身は、ずっと前に両親を亡くしていて、結局のところ、「老い」を実感したというよりは、「もうちょっと親孝行したかったなあ」とか「息子(両親にとっては孫)をひと目見せてあげたかったなあ」なんて、いまでも時々思うことがあります。
妻の両親はまだまだ元気で、息子の面倒もみてくれて、ありがたいかぎりです。
僕自身は、親が亡くなったとき、まだ若かったこともあり、「親のくせに、子どもにみっともないところを見せるなんて!」というような子どもっぽい「理想の親像」を押しつけたまま、自分の親を逝かせてしまったのではないか、という気持ちもあるんですよね。
そういう意味では、「親の老いと共に生きている」人たちの話は、ちょっと羨ましく、そして、後ろめたくもあるのです。


本のなかで紹介されている、読者からのこんなメールがありました。

 親って、すごいですよね。


「老いていく」ということを、身をもってありのまま、子どもに見せていく。
 そして、その先にあることも、「乗り越えていきなさい」と示す。

親が生きていくこと、老いていくこと、そして、死んでいくこともまた、ひとつの「次の世代への教育」なのですね。
もちろん、現実の介護とか闘病というのは、そんなに綺麗なものではないのだけれど。


正直、この本を読んでいて、ちょっと違和感もあったのです。
「家族がいちばん」という価値観を語る人は、このネット時代になって、かえって増えてきているような印象があります。
でも、本当に「ずっと側にいてあげる」ことが、幸せなのだろうか?
自分自身にとっても、家族の側にとっても。
そりゃ、「放置プレイ」みたいなのはどうしようもないでしょうけど、「家族」だけが大切で良いのだろうか?
24時間介護が必要な状態ならともかく、元気で身の回りのことが自分でできる状態なら、その「寂しさ」を解消するために、ずっと側にいる必要があるのだろうか? それで、何ができるのだろうか?と考えてしまいます。
年をとったら変わるかもしれないけれど、いまの僕だったら、息子が「親のために」自分の仕事を犠牲にして同居してくれたり、地元でやりたくもない仕事をしてくれるくらいなら、外国ででも、やりたいことをやって、自分の人生を生きてほしい。
うーん、でも、もしかしたら、そういう「自分の人生をずっと追い続けなければならない」というプレッシャーが、多くの人を焦らせ、不幸にしているからこその「家族主義への回帰」なのだろうか……


僕は、これを読んでいて「家族第一主義」を唱える人のなかには、「自分の人生がうまくいかない理由を、『親の老い』にしてしまっている人」もいるように感じたんですよね。
いまの日本のシステムや「世間の目」は、お金で介護を買って、自分の人生を生きることを難しくしていますし。


ある読者からの、こんなメールが紹介されていました。

 仕事を辞めてはいけない。故郷に帰ってはいけない。


 あなたが社会で活躍することで、親の経済を支えられる。独居老人は介護や医療の公的減免が受けられます。
 辞めて介護に入り、失業・虐待・アルコール依存。そんな悲劇を望んで子供を呼び寄せているほど、親の認知能力や予測能力は、かつてのように鋭敏ではないのです。
 子どもを持つ親なら、案じる心を抑えて旅立たせる(初めてのお使い、予防注射、保育園から始まる教育)。介護職のモラルに敬意を払い、頼って親を子から手放す勇気と、周りに気を使うことによって、本人に還元されるように、環境を整えることも、子の役割ではないか。


 持続可能か?


 ここを考えて欲しい。泣いたり吼えたりはその後です。独身で、子育てというケア準備教育もないまま、介護に入る方々のご苦労を思う2つ困難があるように思います。


(1)ケアの経験がないまま、親がケアの対象になる戸惑い。
(2)介護そのものの困難(食事、排泄、金)。


 ケアする側が追い詰められることが、虐待の原因です。あなたが悪いんじゃない。手放してもいいんです。あなたもほっとしたり、良く眠る権利がある。ひいてはそれがよい介護関係を築くことになると思います。その代わりに、「良い子供、良い嫁」は手放しましょう。

「わかりやすい家族愛礼賛」だけではなく、こういう現実を見据えたメールも紹介されているのが、この本の「真摯さ」だと僕は思います。
僕は仕事柄、介護の現場を見る機会もあるのですが、こんなに家族が追い詰められるのなら、「お金でプロに任せてしまったほうが良いのではないか?」と感じることも多々あります。
実情を知らない第三者は、きつい介護を家族が行うという「美談」を好み、「施設なんかに入れて」と非難しがちですが、それで虐待が起こったり、家族の側が追い詰められてしまうような介護には、やっぱり無理があると思うのです。
残念ながら、いまの日本では、そういう「無理をする家族」がいるからこそ、なんとか高齢者が「姥捨て」されないというのが現実でもあるのですが……


「親の老い」「本当の自分」「仕事の選択」
それぞれ、本当に「重い」テーマについて、山田さんと読者が、懸命に言葉を探しながらキャッチボールをしているのが伝わってきて、僕もいろいろ考えながら読みました。
心を打たれる言葉がたくさんあって、それと同時に「良い事を言おうとしよう、言葉にしようとしたとたんに、なんだか薄っぺらくなってしまうことってあるよな……」なんて、考え込んでしまったりもして。


最後に、この本のなかで、いちばん僕に響いたところを。

 向かい合わせの座席で、目の前に座っていた青年が、ふいに車内に知り合いを見つけたらしく、大声で話し始めた。青年たちの会話は外国語だった。英語じゃない。
 いったいどこの言葉だろう。
 私はどこの言葉か知りたい気持ちが湧き起こり、「どこの国のかたですか?」とたずねたかったが、車内で、見ず知らずの人に、話しかけるのは、実際やろうとしてみると、ほんとに、なかなかできないものだ。聞いてみようか、やめようか、勇気を出して、でもまあいいや、と、長い長い間、ためらっていると、目的地は近づき、臆病な私は、いつものように、話しかけないまま、そのままで降りようと決め込んだ。ああ、やっぱり話しかけないんだ……。その瞬間、


「また、は無いよ!」


 私の中から声がした。さらに、内なる声はこう響いた。


「いま、しかない」


「聞きたいことは、いま、聞かなきゃだめ。知りたいことは、いま、知らなきゃだめ。会いたい人には、自分から会いに行かなきゃだめ。やりたいことは、いま、やらなきゃいつやるの。また、はもう、私には無い。」

 山田さんは、「突き動かされるように、勇気をふりしぼって」、青年に話しかけたそうです。
「死」を意識するのは、必ずしもネガティブな面ばかりではなくて、「いま、しかない」ことを受け入れることでもあるのです。
 

 なんとなく、昨日と同じ今日を過ごし続けていることに、不安になっている人は、ぜひ一度読んでみてください。
 考えようによっては、この時代に「昨日と同じ今日を過ごすことができている」のは、かなり幸運なのかもしれませんが。

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