琥珀色の戯言

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【読書感想】雪男は向こうからやって来た ☆☆☆


雪男は向こうからやって来た

雪男は向こうからやって来た

内容(「BOOK」データベースより)
いったいソイツは何なのだ?なんでそんなに探すのだ?二〇〇八年十月二二日、われとわが目を疑った人は、日本中に大勢いたに違いない。「ヒマラヤに雪男?捜索隊が足跡撮影、隊長は“確信”」の見出しとともに、雪男のものとされる足跡の写真が新聞を飾った。まさに、それを撮った捜索隊に加わり、かつて雪男を目撃したという人々を丹念に取材した著者が、厳しい現場に再び独りで臨んでえぐり取った、雪男探しをめぐる一点の鋭い真実とは?―。

『空白の五マイル』が、あまりにも面白かったので、同じ著者のこの本も読んでみました。


「雪男って、いると思う?」
そう問われて、「いる」と自信を持って言える人は、あまりいないはずです。
僕も「は?ゆきおとこ?ドラクエの敵キャラの話?」って感じでした。
でも、あの『空白の五マイル』の著者の「探検本」ですから、おちゃらけた「雪男探しのお気楽な旅行記」ではありません。
著者は、理性では「雪男」の存在を疑っているのですが、ヒマラヤの山に長年アタックしつづけてきた大先輩たちの「雪男を見た」という言葉に揺り動かされるのです。

「今でも自分が見たのは雪男だと思いますか」とわたしはたずねた。
「見たことがない人は必ずそういう質問をするんですよ」と小西は言った。「前提が違うんです。いるもいないも、実際に見たんですから。普通の人は、当たり前ですけど、そんなものはいないと思っているわけです。しかし、おれやチャロックゴンパのラマ僧とか尼僧は感覚が違う。いるというのが前提だから」

「他の動物の見間違い」ということは、あるかもしれない。でも、少なくともあの人は、「面白半分で雪男の話をして、みんなを騙すような人間ではない」
 それに、「雪男が本当はいないとするならば、多くの人が『同じような雪男の姿』を見ているのは、おかしいのではないか?」
(もっとも、この「雪男の共通イメージ」については、存在の証拠になるのかどうか、著者は懐疑的ではあるのですけど)


著者は、盲信するばかりではなく、さまざまな専門家にも取材しています。
1951年に探検家であるエリック・シプトンが撮影した有名な「雪男の足跡」について、雪男に造詣の深い動物学者・今泉忠明さんは、こう仰っていたそうです。

 雨降る銀座の街並みに時折目を向けながら、今泉は「これが本物かどうかは別にして」と前置きをしてから、ゆっくりとした口調で話を始めた。
「この足跡ならヒトでしょうね」。親指が大きいのは二足歩行に適している。ものをつかむためではなく歩くため。類人猿の足は枝につかまるため人間の手みたいだから。類人猿とヒトは全然違う。ヒトの指は縦に平行して生えている。この足跡だと歩くのに適している」
 今泉が言うヒトとはわれわれホモ・サピエンスのことだけでなはなく、700万年ほど前にアフリカで誕生し、現在は絶滅した猿人や原人なども含めた人類全体のことを指している。
「他の動物の前足と後足が重なってしまっている可能性はどうでしょうか」とわたしは訊いた。四足動物の足跡の中には、前足と後足の足跡が重なって楕円形となり、人間みたいに二本足で歩いたように見えるものもある。それがダブルプリントと呼ばれる現象だということを、わたしは雪男とかかわるようになってから知った。
「人間だと肩幅の分だけ足を開いて歩く。これだとそろいすぎている。こういう直線はユキヒョウだとかだろうなあという気がする」

ああ、足跡ひとつでも、いろんな可能性が考えられるのだなあ。
これまで、たくさんの人たちが「雪男の足跡」らしきものを発見しているのですが、近くで撮影した写真や映像などの「決定的な証拠」は、いまだひとつも見つかっていないのです。
著者たちの調査隊は、「今回こそ、決定的な証拠を!」という決意のもとに、ヒマラヤに向かったのです。


この本のなかで、著者は、雪男を探すために、6回もヒマラヤに行ったという鈴木紀夫さんの「足跡」を詳しく追っています。
鈴木さんは、フィリピンのルパング島で、元日本兵小野田寛郎さんを発見、日本への帰国を説得した人なのだそうです。
その冒険家・鈴木さんが、なぜ「専門外」であるはずの、山での「雪男さがし」にはまり込んでいったのか……


著者がその足跡を追っていくなかで辿り着いたひとつの「結論」を読んで、僕は考え込んでしまいました。
彼は、本当に雪男がいると信じていたのだろうか?
「雪男」に何かを投影していただけではないのか?

 わたしは自分でも何かを見てみたくなってしまっていた。雪男が本当に現れて、これまでの世界観が壊されたらどうなるのか。高橋をはじめとして、雪男を探す人たちはだいたいみんなそんな目に遭っている。雪男にも興味はあるが、おそらくわたしはその正体よりも、雪男を見た時の人間の反応に興味があったのだ。雪男は本当にいるのだと確信できる何かを見た時、自分はどのような衝撃を受け、自分の中でどのような化学反応が起きるのか。雪男の実在を強く信じていると言えない自分の中でも、パラダイムはあっけなく転換してしまうのだろうか。雪男とは人の意向と無関係に人生を不可逆的な地点にまでもっていってしまう、ある種の暴力的な現象のような気がしていた。世の中には考えてもみなかった体験をして、それ以降、生き方が変わってしまう人間が時々いるが、雪男というのはそうした体験のひとつの典型的な例だろう。

「雪男なんて、いるわけないのに、バカみたい」
そう言い切ってしまうことは簡単です。
でも、「雪男をひとり見つければ、いることは証明できる」けれど、「絶対にいないことを証明するのは、非常に困難」。
そして、世の中には、他の人が信じようとしないものの存在を証明することに「生き甲斐」を感じてしまう人間がいるのです。
「雪男」は探し続けられるはずです。
それを必要とする人間がいるかぎり。


『空白の五マイル』は、著者自身の身体的・精神的な極限状態の描写が、非常に印象的な本でした。
この『雪男は向こうからやってきた』は、著者自身の体験は比較的起伏に乏しかったため、文章を紡ぎ出すのはけっこう大変だったんだろうな、とも感じました。
「ヒマラヤの山中で、雪男を探すために張り込む」というのはかなりの「冒険」には違いないのだけれども、冒険中に冒険者がやっていることそのものは、そんなにドラマチックなことばかりじゃありませんし。


それにしても、この本に出てくる、名だたる山々を制覇した登山家たちの多くが、山で命を落としていることに僕は圧倒されました。
仲間が死んでも、彼らは山に登る。
そして、そのうちに自分も……


それでも、彼らは山を目指すのです。


「雪男」そのものよりも「雪男を探すという人間の営み」について、誠実に書かれている本だと思います。
ただ、僕自身は「冒険家気質」ではないので、「世の中には大変な星のもとに生まれた人がいるものだな……」としか、言いようがないところもあるんですけど。

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