琥珀色の戯言

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【読書感想】考える生き方 ☆☆☆☆


考える生き方

考える生き方

内容(「BOOK」データベースより)
仕事・家族・恋愛・難病・学問、そして「人生の終わり」をどう了解するか。ネット界で尊敬を集めるブロガーが半生と思索を綴る。


著者について
アルファブロガー(2004年アルファブロガー・アワード)。随筆家。ペンネームの由来は子どもと見ていた仮面ライダーの必殺ワザから。1日1冊のペースで読む読書を30年以上続けている。関心分野は、哲学・思想・文学・歴史など文系領域から生物学・物理学など理系領域まで。1957年生まれ。国際基督教大学卒業。同大学院進学。専攻・言語学。情報技術や最新医療の解説なども得意とする。デジタルコンテンツのための配信プラットフォーム「cakes(ケイクス)」で、文学書などの書評も連載中。


有名ブロガーの「自分語り」なんて、誰が読むんだ?
僕も最初はそう思ったのです。


参考リンク:finalvent『考える生き方』:Not for me. 装丁はちょっと変わってるので本屋で手に取るくらいは。(山形浩生の「経済のトリセツ)

上の書評を読んで、「おっさんの自費出版の半生記」みたいなものなのか……とも思いましたし。
まあ、その通りだと言われれば、返す言葉もありませんが……


なんだか気になって買って読んでみたのですが、なんというか、僕はこの本、好きです。
万人にはおすすめできない、とは思う。
「じゃあ、結局この人は何をしたんだ?ずっとブログを書いて物陰から他人や社会のことをゴチャゴチャ言ってきただけじゃないか」
「なんのかんの言っても、いい大学を出て、この御時世にずっと仕事があって、理解のある配偶者と4人の子供に恵まれているなんて、高等遊民の戯言だろう」
そう感じる人も、少なくないんじゃないかという気もする。
でも、僕にはとても染みました。


僕がネットの「個人サイト」というものに触れて、いちばん面白いと思ったのは「名もない市井の人々の自分語りが、簡単に読めるところ」だったのです。
それまで、知ることができる他人の人生って、身近な人のものか、有名人、成功者の「伝記」、あるいは社会を揺り動かすような犯罪者の「ノンフィクション」、そして、自分でお金を出すくらい気合いが入った人たちの「自費出版での自伝」。
ネットによって、そういうものではない「商業出版としては成り立たないような、普通の人間の自分語り」が読めるようになったのは、すごく刺激的だったのです。
タクシーの運転手さんの日常とか、葬儀屋でアルバイトをしている女の子の話とか、お見合いで会った人のことを延々と書いている人とか、どこにでもありそうな不倫の話とか。
「普通の人が、普通に生きている姿」は、案外面白い。
そして、「自分もまあ、こんなものだよな」と、ちょっと安心できる。


「ザ・アルファブロガー」であるfinalventさんが本を書くとするならば、「これまでのサイトの話のまとめ」とか「勉強術」みたいな本じゃないか、と思っていたのですが、実際に書かれたのは「自分語り」だった。
意外に感じたのですが、パソコン通信から、ネットに関わり続けてきたfinalventさんにも、「ネットで本当に面白いのは、無名の人のリアルな人生模様だ」という考えがあったのではないかな、と僕は勝手に想像しています。
それはまぎれもなく、「インターネット」という新しいツールによって、生まれた文化です。
そして、その文化は「ネットとリアルの境界が失われつつある2013年」には、「不特定多数の人に読まれるのは危険だから」という理由で、失われつつある。

 それともしかしたら、これからの社会、私みたいな人が増えるのではないかとも思うのも書いてみたい理由の一つだ。
「私みたいな人」ってなんですか? と言われると、「他人から見たら人生の失敗者だけど、諦めちゃったというのではなく、それなりに自分では考えて生きてきたという人」かな。
 世の中には、「こうしたら成功できる」とか、「こうやって成功した」という本はいっぱいあるが、「残念、私の人生は失敗だったんだけどね」という本はあまりないように思う。
「読む人いないよ、そんな本」と言われるとそうだが、冷静に考えると、多数の人は私みたいに「人生、失敗したなあ」という人生を送ると思う。で、どうする?
 考えるわけです。「なんだろ、自分の人生?」と。
 そういう状況で考えながら生きて来た人の事例を書いた本が一つくらいあってもよいのではないかと。
 そういう事例を一つくらいでも知っておくと、人生つまづいたとき、驚かず、「人生、そういうこともあるんだ」というふうに、多少、絶望予防の「心のワクチン」みたいになるかもしれない。

高校時代の話から、ICU(国際基督教大学)に入学した経緯、大学生活。
言語学の研究者を志向したものの、挫折し、「そんなに好きではなかった」英語や、趣味だったプログラミングで生計を立てていたこと。
finalventさんが、文学から社会学、自然科学、医学まで幅広い知識を有している理由もわかります。
36歳で突然10歳年下の女性と結婚し、沖縄に移住し、4人の子供を育てたこと。
難病とつきあってきたこと、そして、年をとってきたこと、頭髪のこと。


僕がブログから勝手にイメージしていたfinalventさんって、「森の中で、ひとりで本ばかり読んでいる隠者」みたいな感じだったので、「結婚してたんだ!」「しかも子供が4人も!」なんて、驚きながら読みました。
子育てをしながらの沖縄での生活の話も、「観光客としてみた沖縄」とは違うものだな、と思いましたし、僕より10年ちょっと年長のfinalventさんの「日本が途上国から先進国になっていく過程を体験してきた」という言葉には、「10年違うと、日本という国の見え方に、こんなに差が出てくるものなのだな」と驚きました。
1970年代はじめに生まれた僕にとっての日本は「物心ついたときには、イケイケドンドンの先進国」だったので。


印象に残る文章はたくさんあったのですが、「子ども」についてのこんな話には、考えさせられました。

 結果論ではあるが、子どもは多いほうがよいと思う。
 可能なら三人は生んで育ててみるとよいのではないか。
 そう思うのは、子どもが一人だと、親もその子だけが自分の子どもだと思い込んでしまう。実際に一人っ子ならその子だけが「我が子」なのだが、子どもの性格や能力の遺伝的な特性は、かなり偶然に出てくるもので、親が思ったように出てくるものではない。こういうとなんだが、子どもというのは、そういう可能性もあるという一つの例でもある。
 子どもは三人くらい育てるといいというのは、子どもの側からも言えるだろう。
 子どもにしてみると、親は必要でもあるのだろうが、親から子の関係が一つだけだと心理的に重たいだろう。子ども二人でも、親二人は重たいのではないか。私など兄弟二人だったが、それでも親は重たい存在だった。
 これが三人になり、2歳差くらいだと、子どものほうが数が多いし、子どもなりの小さな社会ができる。
 子どもが多いと、赤ちゃんのころはそれなりに大変だが、上が幼稚園から小学生くらいになると、子どもたちどうしで行動の統制が取れるようになる。子ども同士の統制のほうが、うまくいく部分も多い。子ども同士で役割分担や、教え合ったり、何かとコミュニケーションをとっていくようになる。その分、親は楽になる。

 うちは「子ども一人」で、「一人でもこんなに大変なんだから、もう一人なんて無理だよなあ……」なんて思っていたのです。
 でも、これを読むと、「一人だから思い入れが強くなりすぎてしまって、大変になってしまう」面もあるのかな。
 それは、子どもの側にとっても同じことで。
 僕自身は兄弟が多くて、そんなに仲良しというわけではなかったので、「兄弟が多いほうが良い」というのには経験上懐疑的なところもあったのですが、もしそのチャンスに恵まれることがあれば、自分たち夫婦の子どもも、もう一人くらいいてもいいんじゃないか、と感じました。
 わりと素直にそう思えたのも、finalventさんが、僕にとっては、なんとなく身近な感じがする人だからなのかもしれません。


 僕にとって最も考えさせられたのは、この文章でした。

 難病というのは、多くの人が人生で遭遇するできごとではない。だが、社会のなかでは一定数の人はこうした病気にかかって、一生生きることになる。
 もっと広く見ていくなら、交通事故の後遺症でも、意識や記憶など精神活動に障害を残す高次脳機能障害などは、社会生活が困難で治療法もないという点で難病に似ている。
 がんも若い人がかかることがある。病気を抱えることが人生になっていく可能性は、誰にでもあるだろう。また、自分がそうならなくても、家族や友だちがそうなることがある。そうなると、思いもかけない人生の危機が押し寄せてくる。
 人によっては、信念や宗教が支えてくれるのかもしれない。自分の経験でいえば、自分を責めない、ゆるやかな理性が重要だろうと思う。
 癒えることのない病気になると、人間はつい自分を責めるものだ。そういう心理はしかたがない。また、運命を呪うようにもなる。それもしかたがない。
 そうしたことを、しかたがないものとして受け入れていくのが、理性の役割だろうし、現実的に病んでいる自分が頼れるのは、そういう緩やかな理性しかない。
 生きるというのは、つらいことがある。当たり前のことだが、つらさはなかなか他の人には通じない。

 僕はブログをずっと書いていて「一定の割合で誰かに必ず起こること(病気とか事故とか犯罪に巻き込まれることとか)」と「それが自分に起こること」の距離感、それがもし自分に起こったら、どう折り合いをつけるか、みたいなことを、ずっと考えています。
 でも、その距離を、僕はなかなか埋めることができないのです。
 どうしても、「傍観者」になってしまって、自分の存在を抜きにして「客観的に」とらえようとしてしまう。


 僕も含めて、多くの人間は「理性」というのを「神の視点」のように思い込んでしまうのだけれども、ここでfinalventさんが語っている「緩やかな理性」というのは、「一定の割合で誰かに必ず起こることは、自分にも起こることだ」ということ、そして、「自分に起こったことは、誰にでも起こりうることだ」という認識だと思うのです。
 世の中を正したり、大きなことをするための「理性」ではなく、大きな社会のなかで自分を律する、もっとシンプルに言ってしまうと「自分も所詮、いつ壊れてもおかしくない普通の人間なのだと諦める」ための理性。


 ただ、これを書きながら、北野武さんが、あるインタビューで言っていた、こんな言葉を思い出しもしたんですよね。

「いまの時代は夢を持っているやつのほうが、なんの夢もないやつよりよっぽどいいとされてるじゃない。だって、夢を持っているんだからって。でも、現実は同じなんだよ。いま何もやっていないことに変わりはない。それなのに、いまの時代は強制的に夢を持たせようとし出したから、夢のないやつがそれを社会のせいにして、ナイフで刺しちゃったりするでしょう。でも、夢なんて持たなくていいんだって言わなきゃいけないんだと思うよ。下町だったらさ、いいんだよ、お前バカなんだからで終わるから(笑い)。別に、人に誇れるものなんてなくていいんだよね。ないやつだっているし、ない自由だってあると思うよ」

 考えに考えて、達する「受容」と「『お前バカなんだから』『運が悪かった』で終わる諦め」。
 ぐるりと一周して、到達するところは「同じ」なのか、それとも「全然違う」のか。
 まあ、それこそ、「人それぞれ」だとしか言いようがないのかもしれないけれども。


 この本を読みながら、僕はある小説を思い出していました。
 ホールデン・コールフィールド少年が、妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事について語っている場面(J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)より)。

 だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方へ走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

 finalventさんというのは、まさにこの「ライ麦畑のキャッチャー」なのではないか、と思うのです。
 まあ、こうして本を出してしまうと、僕のような「何者にもなれないオッサン」に、「僕もまだこれから、finalventさんみたいになれるんじゃないか?」という「何者にもなれなかった人のロールモデル」に、まつりあげられてしまう可能性もあるのでしょうけど。

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