琥珀色の戯言

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【読書感想】日本が世界一「貧しい」国である件について ☆☆☆☆


日本が世界一「貧しい」国である件について

日本が世界一「貧しい」国である件について


Kindle版です。僕はこちらで読みました。

日本が世界一「貧しい」国である件について

日本が世界一「貧しい」国である件について

内容紹介
ロンドン在住、元国連職員の著者が見た「日本は世界でかわいそうな国だと思われている」という現実。若者の自殺、「社畜」的働き方、「人付き合い地獄」の社会、「みんなで不幸になろう」という足の引っ張り合い、グローバル人材なんて育つはずもないおかしな教育、何でも人任せで自分で考えない「クレクレ詐欺」。空気を読み過ぎて「セルフ洗脳」に陥る日本人たちの「貧しさ」を、世界の現実と対比させながら問いかける。


 著者が言う日本の「貧しさ」というのは、日本という国が「物質的には恵まれているはずなのに、みんなが幸せを感じられていないという『もどかしさ』」ではないかと僕はこの本を読みながら考えていたのです。
 ネットで「不幸だ」って言っている人たちは、ネットが自由に使える環境にあるというだけでも、生きるのに困窮しているという意味での「どん底」でしょうし。

 自分の生活をよりよくしたければ、まず自分の問題を分析し、「どうしたら良いのか?」と自分の頭で考えることから始めないといけないのではないでしょうか。しかし、残念ながら、日本の人には、「自分の頭で考えなければいけないんだ」という必要性すら、理解している人が多くはないようです。Twitterのようなソーシャルメディアを使いこなす人々は、比較的若く、ネットやコンピューターの使い方をよくわかっている「教育を受けている人々」のはずです。その「教育を受けているはずの人々」が、この調子なわけです。


 日本は中国やアラブ諸国のように政治的発言が制限されているわけでもなく、表現の自由があります。もちろん、多少制限されているとは言っても、世界の多くの国とは比較にならない自由さがあり、裁判を起こすのにも、警察に犯罪の対応を頼むのにも、賄賂やコネはいらないのです。通信回線は世界最高レベルなのでネットも電話も使い放題で、先進国基準でも激安です。多くの国では電話回線を引くだけでも大変で、ネットの接続料は高く、接続品質は不安定です。例えばイタリアなんて電話回線を引くのに半年かかりますし、イギリスなんて長期休暇の時期には、自宅のインターネット接続がいきなり二週間ぐらい落ちてしまうことがあるんです。本屋はいたる所にあり、労働法でもプログラミング言語でも学び放題、テレビだって衛星放送をはじめさまざまなチャンネルがあります。外国に行くことだって自由です。日本のパスポートほど自由に世界各国へ入国できるパスポートというのはないんです。出国する時だって、旧ソ連の国みたいに、出国許可や役人への賄賂はいらないんです。


 このように、自分で考えたり行動するための「道具」や「材料」は十分すぎるほどそろっているのに、今の日本の人の多くは、そのような「道具」や「材料」があることのありがたさが全くわかっていないようなのです。このように恵まれた環境にある、ということがわかっていないことが、日本の人達の最大の不幸かもしれません。

 この本を読みながら、僕は自分の仕事のことを考えていました。
 日勤〜当直〜翌日も朝から通常業務なんてことが「当たり前」、病気で具合が悪くても、よほどのことでなければ「代わりの人を探して頼むより、痛み止めを飲んで自分で仕事をしたほうが(気分的にも)ラク」というような日々の連続。
 もちろん、こういう労働環境は、医療の世界だけのことではありません。
 「こっちは客なんだからな!」と「過剰なサービス」を求められて疲労困憊している人が、自分が客側になってみると、同じように値段以上のサービスを要求し、店員に横柄な態度をとる。
 電車が遅れるのは目の前の駅員のせいじゃないのに、「仕事に遅刻するだろ!」と怒りをぶちまける。
 そして、駅員もそんな「お客様」に平謝り。
 うーん、やっぱり「過剰」というか「異常」ですよね、日本。
 客側としてはありがたいところもたくさんあるのだけれども、サービス提供側になったときの負担が、あまりに大きすぎる気がします。
 しかし、そんな「ハイレベルなサービス」を要求される国であるにもかかわらず(むしろ、それだから、なのだろうか)、バブル崩壊以降、この国の成長は止まってしまっているのです。
 こんなに頑張っているのに、報われない。


 著者は「誰かが声をあげるべき」だし、「おかしな労働条件なら、訴えれば良いではないか」と読者に語りかけています。
 「誰かがやってくれるんじゃないか」「自分が訴訟なんて起こしたら、みんなに『裏切り者』だと思われるんじゃないか」
 結局、そうやってみんなが躊躇しているばかりでは状況は何も変わらない。
 ああ、でも僕自身も「誰かひとりの命で世界を救えるとして、誰かが名乗り出るのを待っているだけの男」なんだよなあ。
(by Mr.Children『HERO』)


 著者は、イギリスで電車が遅れたときの風景を、こんなふうに描写しています。

 ちなみに、イギリス人も最初からやる気がありませんので、電車が遅れると、
「あ〜皆さん、紳士淑女の皆様、あ〜現在、あ〜、運転手を捜しております」
「あ〜紳士淑女の皆さん、運転手が今こちらへ歩いております。もう少々お待ちください。今日は運転手が足りません」
「あ〜あ〜紳士淑女の皆さん、幸運なことに運転手が到着しました。ちなみに電車が遅れた理由は、信号機の故障であります。ハバナイスデー、グッバイ
 というような説明が入ります。寝坊して遅れたとか、人が足りないとか、身もフタもなく言ってしまうわけです。


 遅れて激怒しているのは大抵アメリカ人なのですが、「おいおい、いい加減にしなさいよ」と周囲に揶揄されるのは鉄道会社ではなく、そのアメリカ人なのです。そもそも、誰も命に関わるような仕事をしているわけではないので「まあ、遅刻は当たり前のことだ」と少々の遅れは気にしないわけです。取引先や会社の上司もこのようにのんびりした調子なので、遅刻したからといって怒ることはありません。少々の遅れで業務に支障が出るようであれば、それは仕事のやり方がおかしい、というわけです。ちょっと目から鱗が落ちるような考え方です。余裕を持たせない仕事の計画が悪い、というわけです。

 これ、今の日本では、このままコントのネタとして使えそうなんですが……
 まあ、どちらが生きている側からすると「気楽」かというと、イギリスのほうですよね……
 とはいえ、いまの日本で生活している僕には、「電車が遅れたっていいや」と急に割り切れるようにもなれないでしょうね……


 僕は最近、「ワークライフバランス」について考えることが多くなりました。
 でも、「家族と一緒に過ごす時間を増やしたい、もっと子供と居たい」と思うのと同時に「仕事を早めに切り上げて、家にいることが、本当に自分や家族の『幸せ』なのだろうか?」とも思うのです。
 家にいたって、特別なことが毎日できるわけじゃないし。
 いや、「特別なことをやる必要」なんてないし、家族というのは、みんなが一緒にいることそのものに意味があるのかもしれない。
 とはいえ、「家族のため」と言って、家でゴロゴロしていたり、趣味に没頭していたり、家族に過剰に干渉してくるような夫や父親は、はたして「正しい」のだろうか?
 「家事をバリバリやって、家族のために尽くせばいい」のかもしれないけれど……
 「元気で留守のほうが良いのかも」なんて、ついつい考えてしまったりもするんですよね。
 「身を削って仕事を頑張っている親のほうが、家族にとっては『誇らしい』のでは?」とか。


 そんな日本人は、僕だけでしょうか?
 もしかしたら、いまの日本が「貧しい」のは、みんなが「これが自分にとっての『豊かさ』『幸福』なのだ」という定義を確立できないまま、ゴールを持たないまま、とりあえずレールから外れないように生きているから、なのかもしれません。


 客観的にみて、自分以外の日本人は、少なくとも世界水準からみれば「不幸」じゃないような気がします。
 でも、自分自身はそんなに幸福じゃない。

 いま必要なのは「これが自分にとっての幸福なのだ」と決めて、それを目指す「覚悟」なのかな、と考えています。
 

 私にはTwitterやブログの「お問い合わせ」から、失業している人や、就職活動がうまくいっていない学生さんから、毎日さまざまな相談が寄せられます。「仕事がない」「今の生活が嫌だ」「結婚したいができない」「残業が多い」「英語ができない」「夫がどうしようもない」等です。
 それに対して私が「ではこうしたらどうですか?」というと、以下のような答えが返って来ます。


「いや、それは無理だ。政府が悪い」
「英語ができないのは学校が悪い。すなわち先生の教え方と文科省が悪い」
「残業が減らないのは会社が悪い」
「夫が働かないのは夫に原因があり私は悲劇のヒロインである」
「アラフォーの私が結婚できないのは男性が私を選ばないからである」
「僕が就職できないのは時代は悪いから」


 皆さん知的な人達ですから、問いかけに対して「何々だからできない」という「言い訳」を書くことが大変上手です。理屈も通っています。しかし、どの回答にも共通点があります。それは、自分の今の環境に関して「誰かが悪い」と人のせいにしていることです。


「こういう問題がありますが、僕はこうしたら良いと思う。どう思いますか?」「こうやってみたけど失敗しました。でも次はこれをやろうと思います」
 という「自発的」で「前向き」な「提案」がありません。提案ができる人というのは、自分で考えています。問題に真剣に向き合い、それを分析し、どうしたらできるか、と考えているのです。自分で考える代わりに、見ず知らずの私にTwitterで自分の悩み(大概はたいした悩みではないのです)を送って来て「解決して欲しい」「答えをください」と言っているようなのです。


 この本には「これでもかっ!」とばかり、日本の「貧しさの具体例」が描かれています。
 先ほどの電車が遅れたときの話とか、日本の学校の「学級会」の異常性とか、家族の病気でも働くことが賞賛されることとか。
 でも、いちばん大事なことは、「そんな日本が悪い」と嘆くことではなく、「じゃあ、どこにいまの日本に生きる自分たち、そして、これから日本で生きていくであろう子どもたちの幸せがあるのか?」と考えることのはずです。


 日本は1億をこえる人口を抱えており、島国であることから、比較的「独立採算」で存立していくことができた国でした。
 しかしながら、これからの超高齢者社会で、若者の割合が減っていけば、「高齢者を見捨てる」か「移民を積極的に受け入れていく」しかなくなっていくはずです。
 「それが日本のやりかただ」と文句ばかり言う国に、わざわざ働きに来てくれる外国人は、あんまりいないですよね。
 賃金のわりに、サービスの要求水準は高いし。
 このままでは、日本はさらに「じり貧」になっていく一方です。


 いやほんと、考えないといけないし、考えるだけではなく、やるしかない。
 著者の考え方に全面的に賛同するわけではありませんが(僕は「ちゃんと学校で子どもに掃除をさせること」って、けっこう大事だと思いますし)、とにかく、「誰かのせいにするだけ、誰かが変えてくれるのを待っているだけ」では、何も変わらないのは確かです。
 そんな、考える、やってみるきっかけを与えてくれる本だと思います。


 「地鎮祭に驚く外国人」とか、「『スター・ウォーズ』に影響を与えた日本」なんていう話も面白くて、「海外から日本はどう見えているのか」を知るためだけにでも、読む価値はある一冊だと思います。
 

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