琥珀色の戯言

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【読書感想】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
良いニュースと悪いニュースがある。多崎つくるにとって駅をつくることは、心を世界につなぎとめておくための営みだった。あるポイントまでは…。

ようやく入手し、3時間くらいで読了。
読み始めて最初に「あれっ?」と思ったのは、主人公の多崎つくるが、「たさき・つくる」ではなくて、「たざき・つくる」だったことでした。
僕はすっかり「たさき」と濁らないとばかり思い込んでいたので。
名字の「崎」って、東日本では濁点がつくことが多く、西日本ではつかないことが多いと言われています。
「山崎」という名字は、関東では「やまざき」で、関西では「やまさき」。
村上さんは関西出身なので、「たさき」だと思っていたのですが……
これは「語感」の問題なのか、それとも、「関西という出自を意識しない」という意味なのか?


この作品、なんだかすごく『国境の南、太陽の西』を読んでいるときと似たような感触があったんですよね。
村上さんは、ちょっと「大きな(「社会」を扱うような)物語」を書いたあとには、「個人的な、内なるものに踏み込んでいくような物語」を書きたくなるのかもしれません。
(いやまあ、そういう意味では、『ノルウェイの森』は「究極のリアリズム小説」であって、別に「社会」じゃないと言われたらそうなんですけど)
あるいは、大ヒット作のあとは、そんなに売れなさそうなら、小さめの、狭い範囲の物語を書きたくなるのかな。


読んでいて感じたのは、「これは、わかりやすい、読みやすいほうの村上春樹だなあ」ということでした。
現在36歳の「駅をつくる専門家」である多崎つくる。
彼には、20歳のときに、自分の生きている感覚さえ遠くなってしまうような「突発的な環境の変化」に直面した記憶があります。
彼は、あるきっかけから、その「過去に起こったこと」と向き合うことになるのですが……


こういう「わかりやすいキャラクターが、過去のトラウマに向き合っていく」「そのとき、何が起こったのかを確かめていく」という作品をいまの村上さんが書いたのは、ちょっと意外だったのです。
村上春樹が、そんなわかりやすい『続きが気になるようなトラウマ物語』を書いてもいいのか?」って。


正直、「高校生のときの仲良しグループなんて、そんなもんだろ?というか、自然消滅のほうがありがちなのでは……」とか、「そんなに気になるんだったら、そのとき、直接確かめるべきだったんじゃないのか?」とか、いろいろ考えもしたんですよね。
相手も、友だちなら、なぜ、つくるに直接打診しなかったんだ?とか。
僕が20歳だったら、たぶん、そう思って、この物語を受け入れられなかったのではないかと思います。
でも、いま、40歳を過ぎた僕にはわかる。
人間って、意外と「確かめるのが怖くて放置して、いつの間にか時間が経ってしまい、それがそのまま深いところに沈んでしまうこと」ってあるんだよなあ、って。
聞きたくないこと、確認したくないことは「他の誰かが当然やってくれているはず」と、思い込んでしまおうとするんだよなあ、って。


なんだか、読んでいると、過去の村上作品をいろいろと思い出すんですよね。
ああ、あの子は直子……というよりは、『スブートニクの恋人』の「すみれ」かな、あの人は「突撃隊」、いや「鼠」?で、あの人は「永沢さん」で、彼女はレイコさん……


村上さんも年齢とともに、いろんなものを受け容れ、肯定するようになってきたのかな、と感じました。
以前の「村上ワールド」は、「村上春樹の美学に従うキャラクター」と「反するキャラクター」が比較的明瞭に色分けされていたけれど、今回はむしろ「これまでならバッサリと切り捨てられてしまったであろうキャラクター」たちを、村上さんは認め、彼らの言い分に耳を傾けているような気がするのです。
それは「新宿駅」と「多崎つくるの父親」への言及に象徴されているのではないかと。


さて、そろそろネタバレ感想に入ります。
この作品、村上春樹作品としては、かなり読みやすいほうだと思いますので、「はじめての村上春樹」に、けっこう向いています。
その一方で、ずっと読んできた人にとっては、「懐かしさ」とともに「停滞」を感じるかもしれません。
でも、僕はこの作品、好きです。
ねじまき鳥クロニクル』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のような「歴史に残る傑作」ではないけど、少なくない人にとって、人生に迷ったときに、ぽつんとこの小説のセリフが浮かび上がってくるような、そんな作品だと思います。
まさに、この作品そのものが、僕にとっての『ル・マル・デュ・ペイ』なのかもしれません。


それでは、ネタバレ感想をどうぞ。



本当にネタバレですからね!


 というわけで、ここからは既に読んでいる人対象で、ネタバレ感想を書いていくわけですが、この『多崎つくる』、『1Q84』に比べると、「ものすごく個人的で、小さな話」だと感じたんですよね。
 でもまあ、だからこそ、そこには「親しみ」みたいなものも生まれてくる。
 全寮制男子校出身の僕にとっては、「男女5人の仲良しグループ」なんて、柴門ふみのマンガの中にしか存在しないだろうと思っていましたし、36歳と38歳の回りくどい話し方をするカップルというのも、レストランで近くのテーブルにいたらちょっと嫌な感じだろうなあ、とか考えながら読んでもいたんですけどね。
 そもそも、突然グループからハブられたのだけれども、何が何だかわからないまま死ぬほど悩み、なんだか生きている感覚が希薄なまま、36歳まで生きてきた男が、他の男とも付き合っているらしい恋人に心の中に土足で踏み込まれ、20歳のときの出来事に向き合う、なんて話は、ある意味「非現実的」ではあるんですよ。
 でも、「似たような、理由のわからない拒絶で疎外され、傷つけられた体験」は、僕にもある。
 たぶん、多くの人もあるはず。
 

 それにしても、この物語は、徹底的に中途半端です。
 灰田のゆくえ、「シロ」に起こったこと、沙羅のもうひとりの相手、そして、主人公と沙羅の関係のゆくえ……
 何一つ、「結論」は出ていないのです。
 「ダークサイドの多崎つくるがいて、本当にシロをレイプし、絞殺した」可能性だって、ゼロではない。
 直接手を下したのではなくても、「夢の経路で妊娠させ、絞殺した」のかもしれません。
 「つくるくんは、そんなことはしない」
 僕もそう思います。
 でも、人間の記憶とか理性って、そんなに確実なものでもない。
 もちろんこれは犯人探しのミステリではありませんが、村上さんは、そういう「読み」もできることを承知のうえで、あえて曖昧にしたまま、この作品を書いているのでしょう。
 人とは、そんなに絶対的なものではない。
 そして、人は誰かの一面しか知ることができない。

 
 この物語の登場人物は「中途半端であることを承知しながら、生きていく」ことを選ぶのです。
 後半、とくに最後のあたりは、登場人物の考え以上に「村上春樹の決意表明」みたいなものが書かれていて驚きました。
 ここまで主人公と一体化している村上さんは、読んだことがなかったから。
 
 
 主人公は、自分を罪に落としたシロを、「非常事態だから」「つくるなら乗り切れるから」ということで自分を切り捨てた「自分の一部のように感じていた仲間たち」を、赦し、理解しようとします。
 ついでに、「僧侶の家に養子に出され、不動産事業で成功して癌で死んだ父親」も。
 この「つくるの父親」には、僧侶として、学校の教師として働いていた村上さんの父親の像が間違いなく反映されていて、この作品では、『1Q84』以上に「父親を認めている」ように感じられるのです。
 これまでの村上作品では、「俗物」として切り捨てられていたはずの、自己啓発セミナーの主となった「アカ」や、優秀な車のセールスマンである「アオ」も、「赦されて」いるのです。
 ところで、この本を読んでいると、レクサス買いたくなりますね(そんなお金はないけれど)。

 つくるは黙って肯いた。アオは続けた。
「おれ自身ずっとレクサスに乗っている。優れた車だ。静かだし、故障もない。テストコースを運転したときに時速二百キロを出してみたが、ハンドルはぴくりともぶれなかった。ブレーキもタフだ。たいしたもんだよ。自分で気に入っているものを人に勧めるのは、いいものだ。いくら口がうまくても、自分で納得のいかないものを人に売りつけることはできないよ」

 村上さんは、コピーライターとしての才能もすごい。
 というか、これを読んで、レクサスに乗りたくなった村上春樹ファンも少なくないはず。
 まさか、ステマ


 この作品、東日本大震災のあとに書かれた作品ということもあり、震災の影響みたいなものについて、僕はあれこれ考えながら読んでいました。

「ねえ、つくる。私たちが私たちであったことは決して無駄ではなかったんだよ。私たちがひとつのグループとして一体になっていたことはね。私はそう思う。たとえそれが限られた何年かしか続かなかったにせよ」
 エリは両手でまた顔を押さえた。しばらく沈黙があった。それから彼女は顔を上げ、話を続けた。
「私たちはこうして生き残ったんだよ。私も君も。そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃいけない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても」
「僕にできるのはせいぜい、駅を作り続けるくらいだけど」
「それでいい。君は駅を作り続ければいい。君はきっとよく整った、安全で、みんなが気持ち良く利用できる駅を作っているんだろうね」
「できるだけそういうものを作りたいと願っている」とつくるは言った。「本当はいけないことなんだけど、僕は自分が工事を担当した駅の一部にいつも、自分の名前を入れているんだ。生乾きのコンクリートに釘で名前を書き込んでいる。多崎つくるって。外から見えないところに」
 エリは笑った。「君がいなくなっても、君の素敵な駅は残る。私はお皿の裏に自分のイニシャルを入れるのと同じだね」

 この『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、「誰かを支えていて、いまは失われてしまったもの」へ、いたわりと感謝を捧げるための小説だと思うのです。
 それは、あの震災で失われてしまったものに限らず。
 村上さんは、あえて阪神淡路でも、東日本の震災でもなく、1995年に地下鉄で起こった「あの事件」のことにだけ、作中では言及しました。
「失われてしまったように見えるものが、いまでも、多くの人を支え続けている」
 ほんの一時期であっても、誰かを支える杖となっていたならば、そのものには十分な価値があるのです。
 それがどんな終わり方をしたとしても。


 人は、傷ついて、ボロボロになりながら生きている。
 いや、いろんなものを受け取ってきたからこそ、生きていかねばならない。
 村上春樹作品の登場人物は、つねに「ちょっとした拍子に、死んでしまいそうな人たち」あるいは死者の世界とつながっている人たち」でした。
 多崎つくるは、「死んでいる人たちが置いていった荷物を背負って、生きていくことを選んだ」のです。
 誰に強要されたものでもなく、自分自身の「選択」として。
 誰か知らない人がつくった駅のおかげで、僕たちは生活をしていけるし、次の世代は、それを当たり前のように受け継いでいく。
 共同体の一部が、「悪霊」のようなものにとりつかれ、失われていっても、そうやって、全体としての「世界」は続いていく。

「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」とエリは言った。「もしそうだとしても、君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。そう思わない? それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感を持てる容器に」

 僕は、この言葉がとても好きです。
 しかしながら、この小説で、この言葉の続きには、こんな文章が書かれています。

 つくるはそれについて考えてみた。彼女の言いたいことは理解できた。それが自分にうまくあてはまるかどうかはともかく。

 ああ、そうなんだよね。こうやって力づけられても、「空っぽの容器でいいんだ」と思いつつも、つくるは駅の見えないところに自分の名前を彫り続けるだろうし、エリは皿にイニシャルを入れる。
 悟れないんだよね、そう簡単には。
 
 
 人生というのは誰にとっても中途半端です。
スター・ウォーズ』の「エピソード5(帝国の逆襲」と「エピソード6(ジェダイの帰還)」の間にも、たくさんの人が亡くなりました。
 「まだ後編を観ていないのに!」と思いながら、去っていく人がいる。
 そういう「やりかけの人生」が集まって、大きな人間の営みが続いていく。
 僕も含めて、大部分の人は、なんとなく「自分は『ドラゴンクエスト11』も遊べるはずだ」と信じているけれど、人はどこかで、生のレースから脱落していく。


 いや、こういうのこそ、僕自身も「わかったようなことを言っているだけ」で、全然実感できていないのだけれども。

 父親がつくるに残してくれたのは、自由が丘の一寝室のマンションと、彼名義のまとまった額の銀行預金と、このタグ・ホイヤーの自動巻腕時計だった。
 いや、他にも彼が残してくれたものはある。多崎つくるという名前だ。

 僕は村上さんの『品川猿』という短編が大好きなのですが、あれも「名前」に関する物語でした。


 少なくとも、「つくる」という名前の「色彩」を、父親は遺していったのです。
 たぶんこれは、「村上春樹」という名前を与えてくれた人への、村上さんからの、まわりくどい感謝の言葉でもある。
 これを書きながら、村上さんは「ああ、こんなことを僕も書くようになったのか」とつぶやいていたかもしれません。
 それはやはり、還暦をすぎた村上さん自身も、自分の人生の終わりみたいなものを、受け取ってきたものと、次の世代に引き継いでいきたいもののことを、考えずにはいられなかったからなのかもしれません。
 

 もう一度繰り返しますが、僕はこの作品、すごく好きです。
 「文学史的な傑作」ではないかもしれないけれど、「自分史的に、ずっとそばに置いておきたい作品のひとつ」です。

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