琥珀色の戯言

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【DVD感想】希望の国 ☆☆☆


希望の国 [DVD]

希望の国 [DVD]

見えない戦争――
ただ、大切なものを守りたいだけ。
東日本大震災から数年後の日本のとある町。
小野家と鈴木家は隣り合い、つつましくも幸せに暮らしていた。
ある日、大震災が発生、それにつづく原発事故が、生活を一変させる。
原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定され、強制的に家を追われる鈴木家と、道路ひとつ隔てただけで避難区域外となる小野家。
そんな中、小野家の息子・洋一の妻・いずみが妊娠、子を守りたい一心から、放射能への恐怖を募らせていく。


 自宅でDVDを鑑賞。
 やや寝不足ぎみだったこともあって、前半は何度か寝落ちしかけたのですが、まあ、なんというか、いまの日本の「絶望」を痛感せずにはいられない作品でした。
 ネットなどでは、園子温監督が「希望」を描こうとしていると解釈しる人がけっこう多くて、僕のネガティブ思考のせいで、絶望ばかり感じてしまったのかもしれないけれども、『希望の国』というタイトルが出たときのイヤミったらしさといったら!


 それにしても、こうやってフィクションとはいえ、被災地の人たちに取材した作品を映像として観ると、ごくふつうの日常から、突然、隣人とカーテン一枚で仕切られた避難所で生活することになることへの困惑とか、「自分がずっと住んでいた土地」が、突然「立ち入り禁止区域」になることの理不尽さとか、同じ地域の中でも「心配しすぎている人」への風当たりがどんどん強くなっていくところとか、ニュースで見るよりも、切実に伝わってくる気がします。
 「命は助かったんだから、よかったね」
 それはもう、被災した当事者が、いろんなことを噛みしめた上での言葉であって、被害を受けていない人間が訳知り顔で言うべきではないのだな、と。


 現実には、金銭的な補償でさえ、事故から2年も経つのにまだまだこれからにもかかわらず、被災者がほとんど事故の影響を受けていない人たちから、「たかり」のように批判されたり、「放射能がうつる」と差別されたりしている事例もあるのです。
 そもそも、世界基準でいえば、日本という国とのものが「穢れている」とみなされているのかもしれません。
 にもかかわらず、この狭い国のなかの、狭い地域のなかで、日本の他の地域で起こってもおかしくなかった事故の被害者を差別せずにはいられない人もいる。

 
 ネットでは「放射脳」なんて、放射能を過剰に恐れている人たちを嘲る声も聞こえてきます。
 この映画でも、いずみは、妊娠したことをきっかけに、放射能をおそれ、防護服を着込んで生活するようになるのです。
 それを、周囲の「被災者」たちさえ、指差して笑う。
 もっとも、彼らにとっては、「気にしている人」の存在そのものが、自分たちの不安を煽るところもあるので、しょうがないのかもしれませんが……
 いずれにしても、「恐怖で追い詰められている人たちを嘲笑する」ことで、誰かが救われるとは思えない。笑われる側も、もちろん、笑ってみせている側も。


 でもね、実際にこの映画の映像でみてみると、「半径20km以内」と「半径20.1kmの土地」に、それほど差があるようには思えないんですよ。人為的に柵がつくられているだけで。
 それは、現地でもそうなんだと思う。もともと、放射線は目に見えないものだし。
 あまりに不安を煽ってばかりでは生きてはいけないと思うけれども、結局、「ここまでが危険」とかいうのは、最終的には、誰かの判断で決められてしまうわけです。
 園監督は、観客に問いかけてきます。


 あなたが本当に「生き延びたい」のなら、政府や他人が示した「基準」に、何も考えずに従っていてもいいのですか?
 その結果が、あの事故だったのではありませんか?


 いまでも、「原発事故の以前だったら、危険だと言われていた放射線量」の場所で、多くの人たちが生活している。
 どこかで線引きしなければならないのはわかるし、非常事態には、非常事態なりの作法があるのも間違いありませんが……


 ただ、この映画にて僕にとって許容できないところがあって(ちょっとネタバレなんですが)、ある医者が主人公たちに「テレビがウソをついているのではなくて、医者がみんなウソをついている」と言いながら、出典不明の「内部被曝の資料」を見せるんですよね。これは「フィクション映画」なのかもしれないけれど、この映画でこんなシーンを見せられたら、「政府も医者もみんなウソをついている」「本当はこれから酷いことが起こってくるんだ」と信じ込んでしまう観客もいるはず。
 チェルノブイリ原発事故後のデータでは「小児の甲状腺がんの有意な増加」がみられた他には、放射能の影響と断定できる、有意差が明らかな発がんの増加は指摘されていません(僕の知るかぎりでは、ですが)。
 「だからといって、安全とは限らないし、できるだけ被曝は避けたほうがいい」のでしょうけど、「今回の事故の影響は、いまのところわからない」のです。「内部被曝の影響」も、未知数です。
 もちろん、良い影響をもたらすとは思えませんが、どのくらい悪いのかはわからない。
 わざと少なく見積もって責任逃れをすることはあってはならないけれども、自分の主張を通すために、多くの人を不安にするような姿勢も許し難いものです。


 日本という国のやり方を、政府を、原発事故のことをもう忘れようとしている人たちに警鐘を鳴らしたいのであればなおさら、こういう「デマを広げるような場面」は入れてほしくなかった。

 
 このひとつの場面が、この映画の価値をどのくらい減じるか、というのは難しいところです。
 「これは、ドキュメンタリーじゃなくて、フィクションなんだ」と言われるかもしれません。
 しかし、この題材に関しては、「誤解を招くようなフィクションを混ぜること」が適切だとは思えません。


 
 エロスとバイオレンスを極力抑えた作品で、「園子温監督らしくない」映画でもあり、正直「面白い」とか「完成度が高い」とか「眠くならない」とは言えないのですが、とにかくいろいろ考えさせられる作品ではありました。
 ちなみに、この映画、「原発事故を扱っているために、スポンサーがなかなかつかず、資金集めが大変だった」そうですよ。


 熱帯魚屋が客を殺してバラバラにする、内臓てんこもりの映画よりも、いま、多くの人が直面している現実を描く映画を作ることのほうが難しい。
 ああ、なんて「希望の国」!

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