琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】「やりがいのある仕事」という幻想 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
人々は、仕事に人生の比重を置きすぎた。もっと自由に、もっと楽しく、もっと自分の思うように生きてみてもいいのではないだろうか。成功するとはどういうことか?良い人生とは?すり切れた心に刺さる画期的仕事論。人生を抜群に楽しむための“ちょっとした”アドバイス。


現在は「仕事は1日、1時間」という、「逆高橋名人状態」で、趣味に明け暮れているという森先生の仕事論。
大学の工学部から、研究生活に入り、「長年、仕事中に『もう家に帰りたい』という気持ちになることもなかった」という著者の話を読んでいると、「客観的」「抽象的」であることに感心するのと同時に「僕は森先生みたいには生きられないからな」と嘆息してしまうのも事実です。
いや、森先生は、そういう僕に対して、「生きられない」のではなくて、「生きようとしていない」だけなんだろ?と仰るのではないかと思うけれど。


そういう反発を感じてしまうのは事実なのですが、そういうふうに「読者に媚びない」のが、森先生の異質なところでもあり、刺激を受けるところでもあるんですよね。

 そもそも、就職しなければならない、というのも幻想だ。人は働くために生まれてきたのではない。どちらかというと、働かない方が良い状態だ。働かないほうが楽しいし、疲れないし、健康的だ。あらゆる面において、働かない方が人間的だといえる。ただ、一点だけ、お金が稼げないという問題があるだけである。

そう、問題は「ただ一点だけ」なんですよね。
実際は「本当に働かずに遊んでばかりいて、遊ぶことを楽しく感じられるのだろうか?」などと僕などは考えてもみるのです。
でも、そういう考え方こそが、長年の「洗脳」の結果なのかもしれません。
あるいは、森先生的な考え方をすれば、「それは『仕事』をしてから『遊ぶ』という、ワンセットの『娯楽』なのだ(遊びをいっそう楽しく感じるための準備として仕事をすることも含めて)」ということなのかも。


そして、「仕事は大変」という「大人の概念」に対しても、こんなふうに疑問を呈しておられます。

 大人の何が楽かといって、仕事は辞められるが、子供は学校は辞められない。また、事実上、子供の自由で学校は選べない。大人は仕事を選べる。これだけを取っても、子供のほうが過酷である。仕事は基本的に自分の得意な分野であるはずだ。一方、学業は、不得意なものでも、(特に小さい子供ほど)しっかりと向き合わなければならない。

ああ、これは僕にもわかるような気がします。
僕はいまでもたまに、小中学校時代、大嫌いだった体育の時間に団体競技で失敗して白眼視される夢をみるのです。
大人になって、たしかに仕事はつらいし、当直とかやっていると何もかも捨てて逃げ出したくなるときもあるけれど、いざとなれば、本当に逃げ出すという手もありますしね(まあ、その日の当直くらいはなんとかやり過ごさなければなりませんが)。
子供の頃は、「どうしてもイヤなら、逃げ出す」という選択肢があることすら知らなかった。
最近、大人たちは、「子供たちよ、逃げてもいいんだよ」って言うようになってきました。
僕は、そう思っていました。
でも、実はその言葉は「大人たちが、大人にしか聞こえない場所で、そう言い合って責任逃れをしている」だけで、子供には届いていないのかもしれないなあ。
大人になれば、体育の授業には出なくていいし、嫌いな食べものは注文しなければいい。
僕も「子供の頃に戻りたい」とは思いません。
息子をみていると、「あの走り回っても疲れない身体が羨ましいなあ」とは感じますけど。


あと、大学教員の経験の長い森先生が「学生というのは、自分自身の向き不向きを、意外なほどわかっていないものだ」と書かれていたのが印象的でした。

 人と話をすることが好きだ、という人は、自分が話すことが楽しいと感じている。こういう人は、相手からは、よくしゃべる奴だと思われている場合が多い。一方、自分は思っていることをなかなか話せないという人は、相手に対して、よく話を聞いてくれる信頼できる人という印象を与えやすい。「人を騙すようなことはできない」という印象が、仕事ではプラスになる。営業の仕事で最も大切なのは、信頼を得ることであって、調子良くしゃべることではないからだ。
 このように、自分で自分が何に向いているのか、ということはけっこう難しい判断なのである。人間は、自分を客観的に捉えることが不得意だ。仕事で発揮されるような能力の多くは、あくまでも外面的なものであって、内面的な性格はほとんど問題にならない。極端な話、「振り」ができるかどうかが大事な場面ばかりだ。


「優秀な営業マン」について、中島らもさんが、こんな話を書いておられました。
中島らもの特選明るい悩み相談室・その2〜ニッポンの常識篇』(中島らも著・集英社)より。

(「上司に『君の顔は営業向きでないから、なんとかしなさい』と言われて困っている」という女性の悩みに対する答えの一部です。中島さんの「自分は相手の言いなりにすぐなってしまって、営業マンとしてはダメだった」という述懐のあとに)

 ただ、自分以外の優秀な営業マンは、たくさん見て知っています。

 たとえば「関所破りのK」と異名を取った営業マン。普通、得意先の担当者と会うためにはアポイントメントが必要ですが、このKさんはアポもとらずにどんな会社でもずいずい入っていって担当者をつかまえてしまうのです。受付嬢を笑わせるのがコツだそうです。

「やってあげましょうのT」さん。普通の営業マンは「仕事をくださいよ」と頼み込む人が多いのですが、このTさんは逆です。どんと胸をたたいて、やってあげましょう、やってあげようじゃないですか、と相手に迫り、いつの間にか仕事を取ってしまいます。

「脂汗のS」さん。この人は少しでも緊張すると顔中から脂汗が噴き出します。汗はあごを伝って、得意先の机の上にぽたぽたとしたたり落ちます。口だけ達者な営業マンの中で、この脂汗の効果は大きいのです。Sさんにはいかにも「実」があるように見えてしまうのです。

 要するに、優秀な営業マンとは、自分のスタイルを確立した人のことをさすのです。

「脂汗のS」さんなんて、先入観なしにみれば「絶対に営業マンには向かない人」のように思われます。
 もしこの人が僕の友達だったら、「営業はやめておいたほうがいいんじゃない?」とアドバイスしそう。
 ところが、顧客側からみれば、かえって「立て板に水とまくしたてる人」よりも、はるかに信頼できるようにみえるのです。
 まあ、「向き不向き」の話であって、Sさん自身は「営業成績がよくても、ずっと大きなストレスを抱えている」可能性もありますが。


 この本のなかで森先生が言いたいことは、おそらく、「自分の人生を楽しくすることができるのは、結局のところ、自分自身だけなのだ」ということなのだと僕は思います。
 それを「他人の判断基準にしたがおうとする」から、いつまでたっても、幸せにはなれない。

 僕の教え子で優秀な学生だったけれど、会社に就職をしなかった奴がいる。彼は今、北海道で一人で牧場を経営している。結婚もしていないし、子供もいない。一人暮らしだそうだ。学生のときからバイクが大好きで、今でもバイクを何台も持っている。毎日それを乗り回しているという。「どうして、牧場なんだ?」と尋ねると、「いや、たまたまですよ」と答える。べつにその仕事が面白いとか、やりがいがあるという話はしない。ただ、会ったときに「毎日、どんなことをしているの?」と無理に聞き出せば、とにかくバイクの話になる。それを語る彼を見ていると、「ああ、この人は人生の楽しみを知っているな」とわかるのだ。男も四十代になると、だいたい顔を見てそれがわかる。話をしたら、たちまち判明する。

 僕はこれを読んで、しばらく考えこんでしまいました。
 ああ、この人の生きざまがネットに書き込まれていたら、どんな反応がみられるだろうか?って。
 「有名国立大学を出て、専門とは関係無い仕事をして、結婚せず子供も持たずに遊び回っている男」をバッシングするコメントが少なからず書き込まれるのではないでしょうか。
「なんのために大学に行ったんだ」とか「老後困るに決まっている」とか。
 この人は、誰に迷惑をかけているわけでもなく、自分の人生を楽しんでいるだけなのに。
 

 ……とまあ、ここまで書いて、僕自身も、こうやって「僕自身の考え」ではなく、「想像上のネットの人たちの反応」をここに書いてしまうような人間なのだな、ということに気づきました。
 僕も「うらやましいなあ」というのと同時に「そんな生活をしていたら、いつかバチがあたるに決まってる!」って、言いたいのです、本当は。自分が「自由じゃない」と感じることも多いから。
 

 たぶん「世の中の常識に従うことを求める人たち」の多くは、「自分以外の人間が、そんなふうに自由に、楽しそうにしているのが許せない」のです。ああ、僕もそうだ。


 人間って、他人がつくったモノサシを使っているかぎり、なかなか幸せにはならないものなんですよね。
 仕事も「やりがい」について誰かに決めてもらうのではなく、「(お金のことも含めて)自分がやりたい仕事かどうか」を自分で決めるしかないのです。
 

 この本、「森博嗣慣れ」していない、森博嗣未経験の中高生に、ぜひ読んでみてもらいたいなあ。

アクセスカウンター