琥珀色の戯言

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華麗なるギャツビー ☆☆☆☆



あらすじ: ニック(トビー・マグワイア)が暮らす家の隣に建つ、ぜいを凝らした宮殿のような豪邸。ニックは、そこで毎晩のように盛大なパーティーを開く若き大富豪ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)と言葉を交わす仲になる。どこからやって来たのか、いかにしてばく大な富を得たのか、なぜパーティーを開催し続けるのか、日を追うごとに彼への疑問を大きく膨らませていくニック。やがて、名家の出身ながらも身寄りがないこと、戦争でさまざまな勲章を受けたことなどを明かされるが、ニックはこの話に疑念を持つ。

参考リンク:映画『華麗なるギャツビー』公式サイト


2013年17本目。
2D版を鑑賞しました。
月曜日のレイトショーで、観客は僕を含めて5人。
まあ月曜日だから……というのと、公開4日目としては厳しいかな、というのと。


華麗なるギャツビー』、通算5回目の映画化なのだそうですが、僕は映画で観るのははじめてでした。
小説版は、中学校の頃に1回、村上春樹さんの新訳版も読みました。
村上さんの新訳のタイトルは『グレート・ギャツビー』になっているのですが、この映画の邦題は、日本人の耳に馴染んでいる『華麗なるギャツビー』。


この映画、ネットでの評判は賛否両論で、「眠い」「退屈」「後味が悪い」という人もいれば「素晴らしかった」「時間が経つのを忘れる」という人もいたのです。
で、僕自身の観終えての感想としては「すごくよかった」。
ただ、この映画の魅力って、何なんだろうな、とは思うのです。
観ていていちばん印象的だったのが、1920年代のギャツビーの豪邸で行われていたパーティーの場面。
ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマン監督ですから、もしかしたら、このパーティを撮りたくて、映画をつくったのではないか、と勘ぐりたくなるような、華やかで、騒々しくて、猥雑で、それでいて、刹那的な悲哀が感じられる(というのは、観客である僕が「このあとのアメリカが、世界がどうなっていくかをすでに知っているから」ではあるのですが)シーンでした。
観ていて、「本当に1920年代に、こんなことをやっていたのか?」とも思うのですが。
歴史検証映画じゃないから、史実にどのくらい忠実かもわからないですし。
ただ、まったくのフィクションではなく、こういう世界が、当時のアメリカにはあったのでしょうね。


小説の『華麗なるギャツビー』を読んでも、「毎晩繰り広げられるパーティ」の映像って、僕には全然浮かんでこなかったから、「ああ、こういう感じだったのか」という「知識欲」を満たしてくれるところもありました。


そして、レオナルド・ディカプリオのギャツビーの登場シーンもなかなかよかった。
さんざんじらしたあげくみせる、ギャツビーの「最高の笑顔」。
ディカプリオさんのインタビューによると、「あの場面は、本当に苦労したし、何度も議論した」そうです。
小説では「最高の笑顔だった」と書けば、読者はそれぞれの「最高の笑顔」を自分で思い浮かべてくれるけれど、それを映像にするっていうのは、かなり難しい。
でも、僕にとっては、まさに「最高の笑顔」に見えました。
いやほんと、最近のディカプリオさんは地味な映画にばかり出ているような印象があるけれど、素晴らしい役者さんだし、良質の作品を選んで出ているんだなあ、と感じます。


しかし、この『華麗なるギャツビー』、って、僕にとっては、「なぜこれがアメリカの国民的な作品として、ずっと愛され続けているのか?」がわからないところもあるのです。
ギャツビーが愛車で無謀運転をしまくるシーンが、すでにもう不愉快で。
大学時代、免許とりたてのころ、僕の車を運転していた友人がスピードは出すは危ない運転はするわで、すごく嫌だったのを思いだしました。
お前、他人の車で、しかも持ち主を乗せて、よく平然とこんな運転できるな、って。
ギャツビーの富の源泉もロクなもんじゃなさそうだし。


ただ、ニックがギャツビーの「デイジーをお茶に誘いたい」という懇願を受け入れたとき、さまざまな「見返り」を提示して、「いや、何もいらない。僕からの『好意』だから」とニックに言われたときに、「好意?」と怪訝な表情をするシーンは、すごくせつなくなりました。
世の中には「好意」で何かをしてあげるという人間が存在することを、信じられない人がいる。
それは、いまの世の中でも、たぶんそうなんだと思う。
その一方で、「好意」とか「善意」ほど、曖昧で、翻りやすいものもない。
だって、それは「契約」ではないのだから。


なんというか、登場人物は、ロクでもない人ばかりなんですよ。
裏稼業で金を稼ぐ「純愛不倫パーティ男」と「友情という名のもとに他人の家庭をムチャクチャにしているのに、傍観者を決め込む男」「美人でバカはお前じゃないか女」「やり手傲慢差別主義男」「何でそこにいるのかよくわからない女」
こんなのばっかりです。
ある意味、これほど登場人物に感情移入できない作品も珍しい。
ギャツビーが贅沢をするたびに「お前のその豪遊の陰で、何人の人が泣いているんだ?」とか、つい考えてしまうんですよね。


この作品は、アメリカ人にとっては「100年後でも、それぞれ自分自身とつながる部分を見いだした人々が、登場人物が自分にとって何者であるかを語り合える作品」なのだそうです(レオナルド・ディカプリオのインタビューより)。
ああ、でも、それはそれでわかるような気もします。
僕はギャツビーみたいに金持ちではないけれど、「過去は変えられるのではないか」と信じたくなるときがあるし、ニックみたいに「友情」の名のもとに、モラルに反するようなことをしてしまったこともある。デイジーみたいにいざという時には優柔不断だし、トムのように支配欲が強くて、内心では差別をしているかもしれない。
この映画には、アメリカという新興国家のなかでの「階層」みたいなものが描かれていて、ギャツビーという人は、ある意味「上流階級への挑戦者」でもあるんですよね。
その彼が「良家の子女」であるデイジーに、幻想を抱きすぎて破滅していく。
「彼女がいるだけで、その場が明るくなる」
豊臣秀吉とかも、そんな気分だったのだろうか……


第一次世界大戦後のアメリカの文化、風俗とか、『華麗なるギャツビー』という作品そのもの、あるいはレオナルド・ディカプリオという役者さんに興味がない人にとっては、「退屈で、後味の悪い、パーティでばか騒ぎしているだけの映画」なのかもしれません。
でも、僕にとっては、「なんか出てくるやつらは、どいつもこいつも嫌いなんだけど、人間って、こういうもんだよな」と考えてしまう映画でした。


ところで、小説で頻繁に出てくる、ギャツビーの口癖「オールド・スポート」をどう訳すか、ちょっと楽しみにしていたのですが、字幕をつける人も、けっこう苦労されたみたいですね。
そういうところに注目してみるのも、原作ファンにとっては、けっこう面白いかも。


個人的には『華麗なるギャツビー』は、「アメリカを知るために、読んでおいて損はない本」だと思います(村上春樹さんもすごく好きな小説らしいです)。
でも、小説を読むのがめんどくさい、という人は、「こういう話なんだということを知っておく」という意味で、この映画を(DVDになってからでも良いので)観ることをおすすめしておきます。
地味なんだけど、やたらと派手な場面があって、ロクでもない人ばかり出てくるのだけれど、全体としては「良い映画」でした。
ところでこれ、3D版があるそうなんですが、どこがどんな感じで3Dになっているのだろうか……

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