琥珀色の戯言

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【読書感想】ぼくがいま、死について思うこと ☆☆☆☆


ぼくがいま、死について思うこと

ぼくがいま、死について思うこと

内容紹介
今まで突っ走ってきたけれど、ふと気づくと多くの人を亡くしていました。肉親の死。十代の頃に経験した親友の自死。ここ数年相次いだ友人たちとの離別。あやうく死にかけた体験の数々。世界の旅先で見聞きした葬儀や死。孫を持って気づいたこと。死に急ぐ若者たちへのメッセージ。そして、思い描いてみた自身の最期――。今年、69歳になる椎名誠が、はじめて死について考えた一冊。


椎名誠さんも、もう69歳か……
僕が椎名さんの文章を読み始めて、もう20年くらい経ちます。
いつでもタフで、ビールと焚火と冒険とジーンズが似合う男、シーナマコト。
僕にとっては、「ずっと憧れているけど、自分とは遠い世界にいる、男のなかの男」という存在です。
もうすぐ70歳になられるのに、20年前とほとんど変わらない。
冒険旅行や映画の撮影から少し離れてしまったり、最近エッセイの内容がちょっと説教くさくなってきたなあ、と思うことがあるくらいです。


この本、そんな「死とは縁遠い存在にみえる男」椎名さんが、「死について考えた文章」を集めたものです。
友人の死や、異国で目の当たりにした死の光景や葬儀、自らの死生観などが、抑えられた筆致で語られています。
鳥葬、風葬、土葬、水葬、そしてもちろん、火葬。
世界のさまざまな文化を訊ねるというのは、さまざまな「葬儀の場面」に立ち会うことでもあったのです。


椎名さんは、旅先でのこんな出来事を記しています。

 ある山奥の村にさしかかったとき、激しく泣き叫ぶ声がした。砂埃のなかで7、8人の村人が道端に集まっていた。泣き叫ぶ声は女の声、どうやら母親の声だった。女の子か男の子かわからなかったけれど、母親の腕の中にいる十歳ぐらいの子供の白い顔が見えた。首があきらかにおかしな方向に曲がっているので、もう死んでいるらしいと判断できた。
 ドンコイという名の我々のチームの年寄りのリーダーが「そのまま通り抜けろ」と叫ぶように言った。ラオス語なのでぼくには全然わからないのだが、そのときはドンコイの言っているのはそういうことだと気配でわかった。かかわりあいになるな、ということだと思ったが、実際は大いにかかわっていたはずなのだった。
 もとよりクルマなどめったに通らない山奥の道だ。先頭を行っているバイクの若い運転手のいささか危険で自慢げな顔が頭に浮かんだ。
 その日の夜、泊まったところで、バイクを運転していた若い男はあきらかに狼狽していた。ドンコイに呼ばれて、しばらく話をしていたようだが、ぼくたちには何が話されていたのかまるでわからなかった。やがて若者は戻ってきたが、誰も何も言わなかった。ぼくは、そのバイクの青年が、夜更けに泣いているのを見た。そのことを後に小説に書いた。
 少し前まで元気に生きていた「人間」が、ぼくに関係する「人間」によっていきなり血の気のひいた「白い顔」になって死んでしまったことが、その後何年か、脳裏を離れなかった。旅先で人の死に触れたことは何度もあるが、関係者の一人だったためか、このときの記憶が強く重くのしかかり、ぼくの心をいまだに苛んでいる。
 ほんの一瞬前まで健康に暮らしていた自分の子供がある瞬間、いきなり死者になる。母親の悲しみと怒りは想像もつかないほどすさまじいものだったろう。
 けれど加害者を追跡して捕らえるクルマも、そういうことをやるべき警察やそれに準じた組織もそこにはなかった。だから我々を追跡してくる者は誰もいなかった。
 途上国の山奥の村に住む人は、そんな理不尽な、いきなりの悲しみにも黙って耐えるしかない、という悲しく厳しい現実を知った。

命の価値は、平等なのか?
僕がこの若い男であれば、どう行動しただろうか?
「ひどい話」だとは思います。
でも、ここで降りて、きちんと謝罪できる人が、どのくらいいるだろう?
そもそも、これは「償うことができるような罪」なのか。
黙って通り過ぎれば、「なかったこと」にしてしまえるのに。
いずれにしても彼の「心の傷」が、消えることはないのでしょう。
そして、椎名さんは、自分が直接かかわったわけではないとしても、その場にいたことに「罪の意識」を感じずにはいられなかったのです。
「理不尽な死」というのは、いつ、誰に降りかかってくるかわからないものではありますし、僕も自分の息子がこんなことをされたら……と憤りを感じます。
その一方で、「交通事故」として考えるならば、今の日本で車を運転していて「自分は加害者に絶対ならない」と自信を持っている人はほとんどいないでしょう。
交通事故を起こしたとして、「相手は自分のことを誰だか知らないし、その場から逃げてしまえば、罪を問われることもない」ならば、「自首する」ことができるだろうか?
僕が「良心」だと思っているものは、もしかしたら、「打算」や「思いこみ」なのかもしれない。


また、この本では、こんな話も紹介されていました。
チベットの聖なる山「カイラス」への巡礼について。

 歩いていく数人連れの巡礼もよくみる。千キロ(もしくはそれ以上)を歩いていくのだ。もっと凄いのは五体投地拝礼でいく巡礼で、まあそのような等級づけというのは一切ないが、感覚的に巡礼旅の方法としては、この五体投地拝礼でシャクトリムシのように、自分の背丈ずつじわじわ千キロ(地方の田舎からくる人はそれ以上)を聖山カイラスにむかって近づいていくのが、その厳しさと見た目の崇高さで、一番感動する苦行であるのは間違いない。
 その様子を撮影したテレビドキュメンタリーなどでは、彼らの苦行をことさら深刻な様子で解説したりするのをときおり見るが、実際にその苦しい巡礼をしている人の様子を見たり、話を聞いたりすると、一日の予定距離を終えて休息しているときなど、もっとも優しくやわらかな笑顔でいる巡礼者がこの人たちだった。
 なかには二十代半ばくらいの若い娘が五体投地拝礼で巡礼旅をしているのを目にしたりする。スターバックスあたりで幼児声をだして楽ちんにつるんでいる日本の娘と同じくらいの歳で、よくこんな荒行を、としばし息をのんでしまうこともある。
 でも、こういう教えがある。
五体投地拝礼でカイラスにむかっていく苦行の巡礼ほど、そのことによる御利益が大きい」
 同時にそのような苦行ができる健康な体力と経済的な能力が備わっている、ということが荒行巡礼の充足感につながっているように思えた。
 五体投地拝礼は単独ではなかなか難しい。ルートを見てその日の移動距離は大体計算できるから、一人の巡礼に一人か二人のサポートがついていて、その人が夜具や食料などをもって先に行ってテントをはり、夕食の支度などをして待っている。大地を這ってきた巡礼は一日の行程が終わると、そのサポーターらとお茶を飲み楽しく談笑する。
 テレビドキュメンタリーはそこまでは映さないことが多いから、何も説明なしに五体投地拝礼のありさまだけ見せられると、とにかく人智、体力を超越した凄絶な巡礼行として驚愕的に感心するしかない。

そうか、実は「サポートスタッフ」がいて、「チーム」として、巡礼を成功させるために動いているんですね……
それにしてもすごい、とは思うけど、ちょっと「興醒め」してしまうところはありますし、たしかに、それなりの経済力がないとできないだろうな、と思われます。
こういう事実って、ドキュメンタリーの撮影スタッフはみんな知っているにもかかわらず、番組では「カット」されてしまっているようです。
「演出」としては、仕方が無い、のかなあ。
 

あと、「おじいちゃん」としての椎名さんが、息子さん夫婦の帰国にともなって、3人のお孫さんと生活するようになってからの「変化」を、こんなふうに書いておられたのも印象的でした。

 父親は日本の会社に就職したが、外国を含めて別の都市に長期滞在する仕事だった。三人の子供を抱えた母親の日常はなかなか大変なので、一番上の男の子が幼稚園にいくようになると、しばしばぼくがその子を連れて登園することになった。
 草や花に興味のある男の子で、登園途中でいろんな家の庭の草花などを見て、話をしながらいく。これはぼくにとってピカピカ輝くような「あたらしい朝」の出現だった。

なんだか、楽しそうに歩いている、おじいちゃんと孫の姿が目に浮かんでくるようです。
「孫がいる生活」っていうのは、けっこう楽しいかもしれない。


椎名さんは、この本の最後のところで、友人たちの死生観を訊ねています。
その中で、椎名さんの長年の盟友である木村晋介弁護士は「もし自分が先に死んで、お前が元気だったら、葬儀委員長を頼みたい」と椎名さんに仰っています。
そして、椎名さんも、「葬儀の進行役は、木村にやってもらいたい」と書かれています。
(まあ、沢野ひとしさんは「葬儀委員長」向きじゃなさそうですしね)
これを読みながら、僕には、自分が死んだときに「葬儀委員長を頼む」と言えるような友人がいるだろうか?
あるいは、誰か僕に頼む人がいるだろうか?って考えてしまったんですよね。
……いないな、残念だけど。


現実問題として、葬儀委員長が必要となるような葬式をやらなければならないような出世は見込めないので、「下手の考え」ではありますが。
それでも、お互いに「残ったほうが幕引きを頼むぞ」と言えるような存在が、家族以外にいる人生というのは、なんだかとてもうらやましいな、と。

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