琥珀色の戯言

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【読書感想】民族紛争 ☆☆☆


民族紛争 (岩波新書)

民族紛争 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
世界各地で続発している民族紛争。どのように発生、激化し、そして終結へと向かうのか。クロアチアボスニアコソヴォルワンダスリランカなど六つの紛争の経緯を詳しく紹介し、軍事介入やジェノサイドの実態などについて考察する。さらに民族紛争に関する研究の論点を整理し、紛争予防や平和構築の可能性を検討する。

この本では、第1部でスリランカクロアチアボスニアルワンダナゴルノ・カラバフキプロスコソヴォという6つの民族紛争の事例が紹介され、第2部で、「民族紛争を理解する為に」という、著者の考えが述べられています。
この6つの事例で、僕がある程度知っていたのは、クロアチアボスニアルワンダコソヴォの3つ。
クロアチアボスニアコソヴォに関しては、この地域に興味を持っていたというより、元サッカー男子日本代表監督のオシムさんのことを書いた本のなかで採り上げられていたんですよね。オシムさんはユーゴスラビア代表監督で、当時ストイコビッチさんも代表選手のひとりだったのですが、彼らの運命は紛争によって翻弄され、オシムさんは長い間、家族とも会えない状態が続いていたのです。
ルワンダの知識は「ホテル・ルワンダ」だし、これらの紛争を積極的に知ろうとしたというよりは、読んだ本や観た映画の背景にあった、という感じ。


日本でこれらの民族紛争について詳しく知っている人というのは、案外少ないのではないかな、と思います。
ニュース番組などで、大きく紹介される機会もあまりないですし。


この本で紹介されている6つの事例を読んでいると、「いがみ合わないで仲良くすればいいのに」という外野の意見など、当事者たちもわかりきっているのに、現実的にはそれが難しくなってしまうのだな、ということがよくわかります。
争っている民族たちも、ずっと仲が悪いわけではなく、歩み寄ろうとしてはまた衝突し、というのを繰り返していることも多いのです。


そして、ある民族の全員が、直接虐殺にかかわっているわけでもない。
ルワンダについて、著者はこう書いています。

 ルワンダの虐殺拡大のスピードは他の虐殺事件と比較すると、際立って速い。キガリで政権中枢を掌握したフトゥ人急進派が各派の暴力機構や民兵を利用して虐殺を組織的に行ったことが、その主な理由である。一般の民衆も参加しているが、大規模な虐殺事件において果たした役割は、フトゥ人を追い込んだり、逃げないよう取り囲んだりすることなどであり、彼らは脇役であった。しばしば言われているように、未組織のフトゥ人個人か、あるいは組織されていても小規模なフトゥ人集団が取り憑かれたように鉈でトゥチ人を斬り殺しているという構図で終始した訳では、必ずしもない。それだけでは、多数のトゥチ人を短期間で殺害することは物理的に不可能なのである。

多くのフトゥ人は、直接手を下したわけではないのです。
しかしながら、それが相手の死に繋がることが明白な『追い込んだり、取り囲んだり』を、多くの「普通の人」が行っていたというのは、恐ろしいことです。
「自分の手で殺す」のでなければ、心理的なハードルというのは、かなり低くなってしまうのかもしれません。
あるいは、協力しなければ、自分の身もあぶない、という状況だったのかもしれませんが……


この新書を読んでいて考えさせられたのは「民主主義の功罪」についてでした。
いまの時代に生きている僕は、民主主義には欠点が多いけれど(衆愚政治に陥る、とか、物事を決定するのに時間がかかる、とかですね)、それでも、チャーチルが言うところの「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」というくらいの信頼(?)は持っています。


著者は、こう述べています。

 本書の事例の全てには、多少とも体制変動が関わっている。特に民主化である。民主化とは、非民主制から民主制への体制変動、またはその過程である。多民族国家において、民主化が起きた場合には、どのようなことが想定できるだろうか。非民主制の時代に民族的多数派が政権を担当していた場合、民族的少数派がその立場にあった場合、それぞれについて考えてみよう。
 前者においては、体制変動が起きても、民族的多数派内の政争でも起きない限り、政権の移動が起きることはない。むしろ、自身の支配を、選挙などの民主的手続きを通じて正当化することすら可能である。民族的多数派は民主主義を用いて、少数派を差別・抑圧し続けることもできるのである。これまた、本書の事例に頻出する現象である。
 後者の場合、民族紛争の危険性をより孕んでいる。民主化するのであれば、当然に国政選挙をしなくてはならない。民族間関係が緊張し、選挙の争点が民族的であるならば、政権の移動が生じる可能性も高い。そうなれば、民族的少数派は支配的立場から追い落とされることになる。彼らにとってはこの結果に従うことは難しい。ましてや、非民主制時代の支配に暴力的な弾圧などが伴っていたならば、彼らは新たな支配者である民族的多数派の報復をも恐れなくてはならない。選挙の実施、あるいは実施したとしてもその結果への承服は非常に困難である可能性が高い。

 それでは他の民族の存在を認めればよいかと言えば、それだけでは民族紛争の予防にはならない。ある民族が他の民族の存在を前提として、それらを支配するということも考えられるからである。その端的な例が奴隷制だろう。実のところ、他民族に対する様々な形態の支配ことが、民族間関係の一般的な歴史においては普通なのである。
 更に言えば、民主主義すらも、他民族に対する支配の正当化に資する可能性がある。民主主義の根本原理のひとつに多数決がある。従って、民族的多数派が自分達の利害に関心を集中させるならば、民族的多数派は民主制において常に自己の利益に適う政策を実施することが可能なのである。換言すれば、民族的多数派は、たとえそれが民族的少数派に対する差別的政策であったとしても、民主的手続きを通じてそれを正当化することさえできるのである。

「多数派の意向に従う」のが民主主義の大原則であるならば、ある国の60%を占める民族が、40%を「正当な手続きを経て」差別・抑圧することも可能になるわけです。そこまであからさまではなくても、優遇することはできるし、少数派に配慮する政治家よりも、多数派の利益を代弁してくれる政治家のほうが、支持されることも多いのです。
やっぱりみんな「博愛主義者」よりも、「自分」や「自分たち」に、より利益を与えてくれる人を選びがちだから。
とはいえ、それだと少数派の不満が高まり、国は不安定になり、紛争が起こってきます。
ある程度は、少数派に配慮しておくべき、ではあるのですが、そのバランスは難しい。
この例に挙げたような60%と40%であるならば、「原則的に平等」で良いのかもしれませんが、では、少数派が10%なら? あるいは1%なら?
国によっては、少数派の民族に「拒否権」が付与される場合もあるのですが、たとえば、いまの日本でアイヌ民族に「国の政策への拒否権」を与えることが合理的なのか?
それぞれが自分の最大限の利益を確保したいというなかでの「線引き」は、本当に難しいのです。
それこそ「すべての人は平等」であれば、悩む必要はないのだろうけれど、貧困や政治的な混乱や社会への不満は、往々にして「民族問題」にすり替えられるのです。
「あいつらがいなければ、自分にも仕事があるはずなのに」と。


事実が淡々と書かれている部分が多い新書で、そんなに読みやすくはないし、馴染みがない国の慣れない人名はなかなか覚えきれないのですが、「なぜこの人たちは、こんな残酷な民族間の争いをやめられないのだろう?」と疑問に感じている人は、読んでみて損はしないと思います。
「民主主義の難しさ」についても、考えさせられますよ、本当に。

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