琥珀色の戯言

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【読書感想】七帝柔道記 ☆☆☆☆☆

七帝柔道記 (角川文庫)

七帝柔道記 (角川文庫)


Kindle版もあります。

七帝柔道記 (角川文庫)

七帝柔道記 (角川文庫)

内容紹介
青春文学の金字塔ついに刊行!


「このミステリーがすごい! 」大賞出身の小説家で、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で人間の懊悩を書き2012年の大宅賞新潮ドキュメント賞をダブル受賞した増田俊也が、圧倒的な筆力で描く自伝的青春群像小説。
主人公は、七帝(ななてい)柔道という寝技だけの特異な柔道が旧帝大にあることを知り、それに憧れて2浪して遠く北海道大学柔道部に入部する。そこにあったのは、15人の団体戦、一本勝ちのみ、場外なし、参ったなし、という壮絶な世界だった。
かつて超弩級をそろえ、圧倒的な力を誇った北大柔道部は連続最下位を続けるどん底の状態だった。そこから脱出し、なんとしても七帝柔道での優勝を目指し「練習量が必ず結果に出る。努力は必ず報われるはずだ」という言葉を信じて極限の練習量をこなす。
東北大学東京大学名古屋大学京都大学大阪大学九州大学、ライバルの他の七帝柔道の6校も、それぞれ全国各地で厳しい練習をこなし七帝戦優勝を目指している。そこで北大は浮上することができるのか。
偏差値だけで生きてきた頭でっかちの青年たちが、それが通じない世界に飛び込み今までのプライドをずたずたに破壊され、「強さ」「腕力」という新たなる世界で己の限界に挑んでいく。
個性あふれる先輩や同期たちに囲まれ、日本一広い北海道大学キャンパスで、吹雪の吹きすさぶなか、練習だけではなく、獣医学部に進むのか文学部に進むのかなどと悩みながら、大学祭や恋愛、部の伝統行事などで、悩み、苦しみ、笑い、悲しみ、また泣き、笑う。そしてラストは。性別や年齢を超えてあらゆる人間が共有し共感できる青春そのものが、北の果て札幌を舞台に描かれる。


あの『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者、増田俊也さんの自伝的な「青春小説」。
……と聞いて、正直、「『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』はすごかったけど、よくわからんオッサンの、大学生レベルの対抗戦のことを描いた自伝的小説なんて、誰が読むんだ?」と思っていました。


すみません、読んでみたら、すごく面白かった。
久々に「読み終えるのが惜しい小説」だと思いました。「これで終わり?」とも。


著者の増田俊也さんは、1965年生まれ。
僕より、少しだけ年上です。
僕の大学時代と重なるくらいの時期に、こんな大学生活をおくっていた人たちがいたのか……と、圧倒されてしまいました。
スポーツ推薦で大学に入った、オリンピック候補やメジャースポーツの選手なら、わからなくもありません。
でも、彼らは勉強ができなければ入学できない、旧帝大に合格し、スポーツで飯を食っていける可能性などほぼ皆無なのに、高偏差値大学のなかで柔道を極める路を選んだのです。
この「寝技重視の七帝(ななてい)ルール」というのもまた、凄まじい。


2浪して北大(北海道大学)に入学した主人公と、1年先に入学していた高校時代の同級生・鷹山との会話。
この同級生は柔道部に入ったものの、「柔道以外何もできない生活」に疲れ、退部してしまっています。

 私が溜息をつくと、鷹山は責められていると勘違いしたのか、言い訳するように続けた。
「それにさ、抜き役と分け役が最初から決ってんだよ」
「なんだそれ」
 「抜き役は勝ちにいく選手で、分け役は引き分ける選手だよ。はじめからそれが決まってんだ。分け役は絶対に攻めちゃいかんって言うんだぞ。そんな柔道ってあるか?」
 柔道の団体戦には点取り試合と抜き試合のふたつの方式がある。インターハイなど高校の団体戦のほとんどは五人の点取りで、先鋒(一番目に出る選手を柔道ではこう呼ぶ)から一人ずつ相手校選手と一対一で戦い、勝っても負けてもその選手は自陣に戻って、次の選手同士が戦うということを繰り返す。最終的にその五人の勝ち数の三対二とか、四対一とか、そういう数字でチームの勝敗が決まる。
 大学になると二人増えて七人の点取りで戦う。全日本学生柔道優勝大会と呼ばれる団体戦、つまりインカレ団体戦はこの方式だ。
 だが、七帝戦だけは十五人の抜き試合だ。抜き勝負とも呼ばれる。これは、たとえば先鋒で出た選手が勝てばその選手が試合場に残って相手校の二人目の選手と戦う。それにも勝てば相手校の三人目の選手と戦う。そうやって、勝った人間は自分が負けるまで、次々と相手校の選手と順番に戦っていく。つまり極端に強い選手がいてその選手が先鋒に出れば、ひとりで全員を倒してチームを勝ちに導くことも不可能ではない。
「最初から決まっているのか、その抜き役と分け役が」
 私が聞くと、鷹山が言った。
「そうだよ。おかしいと思わんか?」
「その分け役ってのはどうやって分けるんだ」
「カメだよ、カメ。入部早々、カメだけ練習してろって言うんだぞ。おかしいだろ」
 カメとか、亀のように畳に四つん這いになって手脚を縮め、相手の寝技の攻撃を防御する姿勢のことだ。鷹山は続けた。
「一日中カメになって先輩に背中につかれて絞め技や関節技を取られるんだぞ。しかも落とすんだぞ」
 鷹山は「落とすんだぞ」というところで激した。まわりの客がびっくりして一斉にこちらを見た。”落ちる”とは柔道の専門用語で絞め技で意識を失うことだ。脳に血液がいかなくなって意識を失うことだ。私は声を下げて聞いた。
「おまえ、参ったしないのか?」
「参ったするよ。するけど離してくれない」
「どうして……」
「信じられんだろ……死にたくなるくらい苦しいんだ……」

「抜き役」「分け役」と言うけれど、「抜き役」はさておき、相打ちになるために、ひたすら攻撃に耐え続ける「分け役」なんて、何が楽しくてやってるんだ……という感じです。
それも、ずっと「カメ」!
高校での柔道経験者でさえ「死にたくなるくらい苦しい」と呻くような容赦ない絞め技。
それでも、彼らはチームのために自分の役割をこなそうと、地獄の練習に耐え続けるのです。
「分け役」は、満身創痍になりながら、相手の足にしがみつき続ける。


この本での、北大柔道部の練習の光景は、鬼気迫るものがあります。
ところが、そんな彼らにも手の届かない世界がある。
北大柔道部は、頻繁に北海道警特練に出稽古に行っていたそうです。
この道警特練というのは、全国警察大会の団体戦で警視庁、大阪府警に次ぐナンバー3を争っているという強豪で、全日本選手権出場者や世界選手権、オリンピックを目指す二十数人の選手がそろっていました。
彼らは、強い選手でいることによって、通常の警察官としての勤務を軽減され、競技を続けていられるので、まさに「必死で柔道をやっている人たち」でした。

 そんななかに私たち北大生が交じるのである。滅茶苦茶にされて当然だった。
 大相撲の世界は七百人の力士を抱え、そのなかに横綱から序の口までのヒエラルキーがあってひとつのピラミッド世界を形成している。しかし柔道競技人口は日本に何十万人もいて、道警の特練選手はそのなかのトップクラスにいるのだ。とてつもない戦闘能力を持つ怪物だった。私たちは力士のような巨漢がずらりと揃う彼ら特練選手、体重差が40キロも50キロも60キロもあり、運動能力もすぐれている彼らに圧倒された。体格もパワーも差がありすぎた。とくに私たち一年目は何もできなかった。
 乱取りが始まると、あちこちで阿鼻叫喚の地獄絵図が現出する。
 立技では板敷きの剣道場やコンクリート敷きの玄関まで引きずっていかれ、叩きつけられることもあった。彼らは巻き込んで投げ、投げたあと私たちの体に思いきり体を乗せてくるので、その瞬間、死ぬのではないかと思うほどの痛みと恐怖を感じた。寝技でも体力に差がありすぎ、すべての技を封殺された。
 私たちは壁にぶつけられ、鉄製ロッカーにぶつけられ、絞め落とされて失禁した。怒らせると肘や頭突きも飛んできた。試合なら審判が反則を宣するだろうが練習に審判はいないのだ。
「なめるな!」
 馬乗りになったまま肘や膝を落とされた。
 絞め技に入っても簡単には絞め落としてくれないことも再々だった。絞めは落ちてしまえば意識を失うので苦しみから解放される。、しかし、落ちる寸前に絞めをゆるめられた。そして意識が回復しかかるとまた絞めを強めてきた。いちばん苦しいところをいったりきたりするその攻めを三十分も一時間も続けるのだ。生き地獄だった。
 

(中略)


 戦闘能力――すなわち腕力、強さというたったひとつのスケール(測り)の前に私たちの存在そのものが木端微塵に粉砕された。それが正しいか正しくないかにかかわらず、現実として木っ端微塵に粉砕された。
 私たちは粉砕された自分から新たな自分を見つける必要があった。新たな哲学を見いだす必要があった。そうしないと、この世界では、生きている価値すらなかった。それほど腕力というのは圧倒的にわれわれの眼前に突きつけられた命題であった。学問や仕事なら同じようなヒエラルキーがあっても精神的な逃げ道はある。「物理はできないが国語ではトップだ」「仕事は遅いが正確さなら負けない」、あるいは社会には仕事はできないが友達が多いというサラリーマンもいるだろう、優しさが取り柄という者もいるだろう、いくらでも逃げ道はある。しかし、この世界だけは言い訳はいっさい通用しなかった――。


僕は「頂点が見える場所にいて、それを極めるために、自分を鍛える人」の動機は、頭では理解できるような気がするんですよ。
でも、「本物の頂点は、絶対に手の届かないところにあるのに、それでも、こんなにキツイ目にあって、『七帝』レベルでの優勝を目指す」というのは、信じ難かったのです。
それで食えるわけでもなければ、「一番」になれるわけでもない。オリンピックに出るような選手たちは、次元が違う世界にいる。
にもかかわらず、自分のなかでの「強さ」を極めようとする人たちがいる。
そんなの無駄、無意味じゃないのか?
そもそも、「七帝」に出る大学生たちは、「勉強の世界で勝負すれば、柔道の特練選手を圧倒的できる」可能性が高いのだから、自分の長所で勝負すれば良いのではないのか?
まあ、大部分の大学生は、そう思うだろうし、そうしてきたはずです。
ところが、あえて、「腕力の世界」に飛び込んでいく人もいる。
それでも、ひとつだけ言えることは、スポーツの、格闘技の世界というのは、「頂点」と「観客」だけで成り立っているわけではなくて、あまたの「その両者のあいだで、競技を続ける人たち」によって、支えられている、ということなのです。


主人公が怪我をして、整形外科を受診したときの話。

「すごい体だな……こんなの初めて見たよ……」
「………?」
「人間じゃないよ、これ。ゴリラだ、ゴリラ」
 大声で笑いはじめた。年配の看護婦が「ほんとすごいねえ」と言った。カーテンの向こうから何人かの看護婦が顔を覗かせた。
「すごいですか……?」
 私が聞くと院長は肯いた。


ゴリラ扱いっていうのもちょっとひどい話ではありますが、こんな人たちでも、そう簡単には勝てないって、どんな世界なんだよ……
オリンピックの日本代表なんて、どのくらい強いのか……

 教養部に隣接する教養生協は二階建てで、一階が教養食堂、二階には書籍も含めた売店と大きなホールがある。
 そのホールにはビニール張りの安っぽいソファとテーブルがずらりと並んでいて、すべてのソファに大きな貼り紙がしてあった。学生のさまざまなサークルだった。夏はテニスやゴルフ、冬はスキー、コンパに旅行と楽しんでいる連中だった。もちろんテニスやスキーを本気でやっているわけでもない。週に一回か二回、好きな人間がやりたいときだけ集まって楽しくやっていた。私たちには別世界だった。


(中略)


 そういうサークルにはなんとかベアーズとかたいてい横文字の名称がついていて、「スキー&テニス」などと謳ってあった。そのサークルの名前を大きく書いた紙をソファに貼って「ほかのサークルの人間は座るな」と書いてあった。もちろん共用施設なので誰が座ってもいいのだが、彼ら彼女らはいつも交代でそこに座って、ほかのサークルに取られないように見張っていた。大学当局からすると”不法占拠”だった。私は毎日そこへ行って空いているソファを探して眠った。
 その日も、やっと空いているソファを見つけ、すぐに仰向けに寝転がり、ロングコートを膝から頭までかぶった。
「だれ、この人?」
 女子大生の声が聞こえた。
「どうして私たちのところで寝てるの」
 別の女子大生が言った。
「なんだ、この男は」
 男子学生の声だ。北大生だろう。
「勝手にここに寝てんのよ。なんとか言ってやってよ」
 女子大生二人が訴えだした。
「この野郎、なめやがって。どけ、こら!」
 北大生が言った。
 しかたなく、私は顔までかぶっていたコートをゆっくりと払った。そして黙って上半身を起こした。「どけ」と言った北大生はやばいという顔をして眼をそらした。まわりの学生より体が大きく、坊主頭で汚いジャージを着ている私がどこかの体育会に属しているのは一目瞭然だろう。二人の女子大生が北大生を突いて何か言ってやってとうながしている。
 女子大生のセーターの胸の膨らみが艶めかしい。しかし、そんなことはどうでもいい。疲れている。眠いのだ。これからまた練習があるのだ。余力はない。
 私は黙ったままソファに貼ってあるサークル名が書いてある貼り紙を破って丸め、床に捨てた。女子大生たちの顔が引きつった。私はまた横になり、コートを顔までかけた。眠い。疲れている。お願いだから邪魔しないでくれ――。
「早く言ってやってよ!」
 女子大生が怒った。
「だけどなあ……」
 北大生は困っている。
「早く、ほら、言ってやって!」
「でも……」
 女子大生たちと北大生のやりとりを聞いているうちに私は眠ってしまった。

僕自身は、大学でも「リアル体育会系」とは対極の生活をおくっていました。
こういうエピソードを読むと「そうだそうだ、こんなに頑張って練習しているんだから、チャラチャラした学生たちが文句つけるなよ!」という「この小説の読者である自分」と、当時、体育会系の学生たちの「横暴さ」に内心舌打ちしながらも、「争うのは得策ではない」と思わず目をそらしてしまっていた「大学時代の自分」が顔を見合わせてしまうのです。
この板ばさみになってしまった男子学生には、同情を禁じ得ません。
こういうとき、自分では何もしないのに「言ってやってよ!なんで黙ってるのよ!」って、けしかけるだけの人って、少なからずいるよなあ。


僕は、体育会系が苦手です。
そんな僕にも、この作品はものすごく魅力的で、自分自身も登場人物のひとりになってしまったような高揚感と同時に、「体育会系にはかなわないな……」という絶望感も味わってしまうんですよね。
こういう世界で生きてきた人たちは、きっと世の中の理不尽に対しても、圧倒的な気力と体力で、立ち向かっていけるのだろうと思う。
そして、先輩たちは、あのつらい練習に耐えてきた後輩たちを可愛がり続けるのでしょう。
僕が企業の採用担当者だったとしたら、「大学時代に、チャラチャラと遊んでいた連中」よりも、「こんな地獄のような練習を受け入れ、先輩たちを立て、後輩を鍛えた頼もしい奴ら」を欲しがるのではなかろうか。


著者の「自伝的な作品」だそうなのですが、登場人物や、彼らの主人公との関係が、ものすごくリアルなんですよね。
「ああ、マンガだったら、こいつが主人公との諍いを乗り越えてやる気を出し、チームを引っ張っていくはずなのに!」と、ものすごくもどかしい思いもさせられます。
あるいは、「そうそう、初対面の印象って、あんまりアテにならないものなんだよなあ。コイツとは友達になれないな、っていうヤツのほうが、しばらくすると気が合い、ずっと付き合い続けていたりするものだよな」とか。


この作品、本当に「アツい」。暑苦しいほどアツい。
そして、滅法面白い。
僕は体育会系とは極北の世界を生きてきた人間だし、彼らの「独善性」にはずっと反感を抱いてきたはずなのに。
僕にとっての体育会系とは、もしかしたら、「憧れ」だったのだろうか、なんてことまで、考えてしまいました。
少なくとも僕の大学時代には、ここまで濃密な「物語」はありませんから。
(文化系には文化系なりの「物語」もあるのですけど)


「スポーツ小説」「青春小説」なんて、生理的に受けつけない、という人でなければ、ぜひ一度読んでみてください。
古臭いし、理不尽だし、せっかく北大に入ったのなら、勉強しろよ……とも思う。
でも、なんだかすごく羨ましくもあるのは、なぜなんだろうか?


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