琥珀色の戯言

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【読書感想】「東洋の魔女」論 ☆☆☆


「東洋の魔女」論 (イースト新書)

「東洋の魔女」論 (イースト新書)

1964年10月23日、視聴率66・8%を稼ぎ出すほどの国民が見守る中、金メダルを獲得した「東洋の魔女」。彼女たちが在籍した繊維工場は、当時多くの女性が従事した日本の基幹産業であり、戦前には『女工哀史』に象徴されるような悲惨な労働環境も抱えていたが、そこでバレーボールが行われたことの意味するものは何か。そして「東洋の魔女」が「主婦」を渇望したことの意味するものは何か。「レクリエーション」という思想からバレーボールが発明され、日本の繊維工場から「東洋の魔女」が誕生したことの歴史性を考察する。


第一部 実践としてのレクリエーション……1.都市とレクリエーション/2.工場とレクリエーション/3.レクリエーションのグローバル化と日本
第二部 歴史的必然としての「東洋の魔女」……1.バレーボールの日本的受容/2.繊維工場内の女子バレーボール/3.工場から企業のバレーボールへ/4.せめぎ合う共同性とスペクタクル化/5.「魔女」から「主婦」への旅立ち


『商店街はなぜ滅びるのか』を書いた著者による「東洋の魔女」と戦後のレクリエーション論。
いまさら「東洋の魔女」かよ……などと思いつつ手に取ったのですが、あらためて考えてみると、僕自身、「東洋の魔女」って、東京オリンピックで金メダルを獲った、ものすごく強かった時代の女子バレーボール女子日本代表だというのと、大松監督の「おれについてこい!」くらいしか知らなかったんですよね。
『商店街はなぜ滅びるのか』が、けっこう面白かったこともあり、読んでみたのですが、結論からいうと「いままで知らない『バレーボールの歴史』がわかって、興味深いところもあったけれど、あまり惹き付けられるようなエピソードもなく、学術論文みたいな新書だなあ」という感じでした。
最後まで読んでみると、これはもともと2003年に書かれた著者の論文をもとにしているようなので、その印象は当たっていたのです。
日本で実業団の女子バレーボールが盛んになるまでの歴史や、「なぜ繊維工場のチームが、日本代表の大部分を選手を輩出したのか?」という流れに沿って書かれているのですが、肝心の「東洋の魔女」について書かれているのは全体の半分以下なので、「感動のエピソード」を求めているとか「競技的な側面から、『東洋の魔女』のことを知りたい」という人には、「なんだか読みづらい本だな」という感じになりそうです。
正直、僕もちょっとそう思いました。


冒頭で驚かされたのは、「東洋の魔女」は、オリンピックでは「バレーボール女子日本代表」だったのですが、実際は、いまのサッカーや野球やバレーボールでイメージするような「日本代表」とは違っていた、ということでした。

 なぜ、日本の女性たちが「魔女」と呼ばれるにふさわしかったか。
 おそらく、彼女たちが、日本中からかき集められた代表チームならば、ヨーロッパのチームも、その強さに納得しただろう。だが、「東洋の魔女」の特異さは、それが一企業のチームでしかなかったことである。東京オリンピックの代表チームは、「第日本紡績貝塚工場チーム」(日紡貝塚)によって固められていた。いや、「東洋の魔女」は、もとから日紡貝塚のことだった。
 日紡は、戦前からバレーボールが盛んだったが、戦後、その活躍が目立たなくなっていたころ、大松博文監督のもとで日紡貝塚として再出発し、その強さを取り戻した。大松監督の猛練習によって、国内で無類の強さを誇るようになる。1961年(昭和36)には日紡貝塚単独でヨーロッパに遠征し、当時のナショナル・チームを相手に22戦全勝という快挙を成し遂げた。「東洋の魔女」というニックネームは、この連勝の際に、ソビエトソ連)のメディアが称したものを国内メディアが採用し、日本中に広がったことに由来する。


19世紀後半から、欧米で「レクリエーション」という概念が生まれてきます。
これは、産業革命などを経て、「余暇」を得られるようになった労働者たちの時間の使いかたをどうするか?という企業側の悩みを解決するものでもあったのです。
時間があると、悪い遊びにハマってしまったり、社会運動に興味をもったりしてしまう「危険」があるということで、「健全な余暇の過ごし方」として、スポーツが奨励されていくことになります。
バレーボールは、比較的大勢が参加でき、さほど広いスペースを必要とせず、チームスポーツということで連帯感を生むということで、企業側としても、かなり「使える競技」だったのです。
明治維新第二次世界大戦後の紡績工場で働く女性というのは、『ああ野麦峠』で描かれていたような「哀史」のイメージが強く、寮生活などもあいまって、あまり好感を持たれてはいませんでした。
そこで、「社員の福利厚生」の一環として、バレーボールなどの「レクリエーション」がとりいれられ、それが発展していくことによって、「企業をアピールするためのスポーツ」となっていきました。


この新書によると、バレーボールというスポーツは、誕生時から、「女性向けを意識していた」そうです。
バレーボールは、1895年に、YMCAの体育係であったウィリアム・ジョー・モルガンによって考案されたとされています。

 バスケットボール、バレーボールともに、冬季に体育館内――つまりはYMCAの建物のなか――でプレイが可能であることを条件にしてつくられた。バスケットボールは、アメリカンフットボールから粗暴さをとり、誰でもプレイできるよう、習うにやさしいゲームであることを中心において考案された。バレーボールは、バスケットボールのように身体が激しくコンタクトするものだと、女性が参加しにくいということで、バスケットボールとテニスを組み合わせたものとして考案されたとされる。そこでは執拗なまでに、参加の気軽さと娯楽性が強調され、競技としての面白さとどのようにバランスを保っていくかが、問題とされているのだ。


 僕はこの本を読んではじめて知ったのですが、「東京オリンピックでの女子バレーボール正式競技化というのは、オリンピック史上初の女子のチームスポーツの採用だった」のです。
 1950年代くらいまでのオリンピックは、「個人競技を主とするもの」で、チームスポーツの採用に対しては、男子も含めてあまり乗り気ではなかったそうです。
 当時から「大会の規模が大きくなりすぎているので、競技数を絞りたい」という動きもあったのだとか。
 東京オリンピックでの「東洋の魔女」の優勝というのは、「オリンピックでの女子チームスポーツの幕開け」でもあったんですね。


 しかし、「東洋の魔女」の活躍が、日本国内に熱狂をもたらした一方で、その陰には、さまざまな問題もあったのです。

 大松曰く、睡眠不足になってまで練習するのは当然だった。それは、アマチュアなのだから、仕事の余暇にスポーツをやるのは当然であり、仕事のあとに人並み以上に練習しなければ世界一にはなれない、という理屈だった。「ソ連のスポーツ選手はすべてプロなの」だから、「なおかつ彼らに打ち勝つ力をつけるためには」練習時間の長さが必要だったのだ(大松博文、1963『おれについてこい!――わたりの勝負根性』講談社)。大松はソ連の選手を「プロ」と見なしているが、それは仕事を持たずスポーツだけに専念できる人びとのことを意味しているのだろう。
 だから大松は、選手たちに一般の女子工員と同じ勤務時間を課していた。選手たちを女子工員と同等に扱ったのは、勤務時間だけではない。寄宿舎生活を一般の女子工員とともに送らせたのである。次の記事を参考に見てみよう。

清水(司会・大阪府バレー協会理事長):(中略)他の社員との関係で心配されるとかそういう点はないでしょうか。


大松:現在、一つの部屋に三人ないし四人おりますが、そこに一人ずつぼこぼこ入れてあるわけです。そうしますと選手はうちの部屋のスターだということで、その部屋の人が常々も応援してくれるわけです。(中略)夜なんか部屋に帰るのが12時すぎますが、ふとんだけはちゃんと敷いてくれているのですね。(中略)また現場で仕事をしている男の工務係は自分の使っている女の社員を集めまして”バレーはあれだけやっているのではないか、仕事の終わったあとで夜の11時半、12時まで練習しているのだはないか。あなたたちもああいう気持ちでやってくれたら、もっと製品もよくなり生産も上がるのだ、だからそういう気持ちでやってほしい”ということをいうわけですね。(中略)それが本当の職場スポーツだと思いますね。(「優勝記念特別放談」『バレーボールマガジン』1963年1月号)


 大松は、一般の女子工員が住む寄宿舎の部屋に、選手を一人ずつ入れることによって、一般女子工員とバレーボール部とのあいだに一体感をつくり出そうとした。それは一般女子工員とバレーボール部のあいだの垣根を埋めるだけを意味しなかった。バレーボール部の生活実態を身近なものとすることで、工場の生産性さえもがアップした。それこそが「本当の職場スポーツ」である、そう大松は自慢気にいうのだった。


 なんという、ハイパーブラック企業
 ……とか、2013年の僕は考えずにはいられませんでした。
 「アマチュアである」ことを誇示するために、選手たちには過剰な負担をかけ、さらに、「あいつらは仕事を普通にしたあとに練習しているんだぞ!」と、一般工員にもプレッシャーをかけるために利用するなんて……
 「お手本」といえば、なんだか立派なようですが、これはもう「生贄」に近いような……
 でも、「東洋の魔女」が優勝した時代には、この大松監督の指導法や日紡貝塚の「選手活用法」は、日本中から絶賛されていたのです。
 こういう「アマチュアリズムの暴走」みたいなのって、つい最近まで、あるいは今でも、日本のスポーツ界に悪しき伝統として受け継がれているような気がします。
 それでも、「東洋の魔女」たちは、金メダルを獲れたから幸せ、とも、言えなくはないのですけど……
 ちなみに、著者は、そういう「宥和政策」の一方で、高校を卒業してからスカウトされた「東洋の魔女」の大部分の選手たちと中卒の一般工員との間には「学歴の壁」があったことも指摘しています。


 先日「女性とスポーツ」について、『女性アスリートは何を乗り越えてきたのか』という新書を御紹介し、大きな反響がありました。
 著者は、女子バレーボールでの大松監督のあまりにも厳しすぎる「指導」について、こんなふうに書いています。

 現代においてスポーツは、女性の生理現象を解剖・生理学テクノロジーによって克服しようとする。その克服方法は、暴力的ではないように装う。しかし通底するものは大松の時代と何も変わっていない。そこで追い求められているのは、いつでも、どこでも実力を発揮できる身体なのである。大松にとっては、ハード・トレーニングによって選手たちの睡眠時間が削られるのも、海外遠征で睡眠不足になっても実力を発揮できる身体をつくるという意味で、練習の一貫であった。大松は盲腸も要らないといって、選手に無断で切らせていた。

「無断で」というか、選手が腹痛などで懇意にしている病院を受診した際に、実際は違っていても「盲腸」の診断をつけて、切除してしまう、というようなことを、大松監督はやっていたそうです。「大事な試合を前にして、急に盲腸になってしまったらおしまいだから」。)
 なんて酷い話だ!と僕も思います。
 でも、それは「競技に特化した身体をつくる」という意味では、「合理的」だと言えなくもない。
 オリンピックは、虫垂炎を発症したからといって、待ってはくれないのだから。
(虫垂切除にだって、合併症のリスクはあるんですけどね)


 これまで「日本スポーツ界の金字塔」だとされてきた「東洋の魔女」の偉業の裏側。
「そこまでして勝たなくてはならないのか?」というのと、「そこまでやったから勝てたのではないか」というのと。
 これはたぶん「歴史年表の出来事」ではなくて、いまのスポーツ界にも受け継がれている「伝統」のひとつの源流なんですよね。


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