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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「任天堂というのは、独りぼっちの企業なのです」


参考リンク:任天堂の山内溥前社長が死去 85歳(日本経済新聞)

1927年、京都府生まれ。49年、家業のカルタ・トランプ会社、丸福(現・任天堂)の社長に就任した。早くからハイテク玩具の成長性に目を付け、83年に発売した家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」が大ヒット。「スーパーマリオブラザーズ」などの人気ソフトも生み出し、任天堂を世界企業に育て上げた。


僕にとって、任天堂の山内元社長は、もちろん、名前もその功績も存じ上げているのですが、あまり身近な感じがする人ではありませんでした。
宮本茂さんや横井軍平さん、いまの岩田社長が「ファミコン雑誌で新作ゲームの話をしてくれる人」であるとすれば、山内元社長は「新聞やビジネス誌で採り上げられる人」でしたし。


山内さんという人の「おおらかさ」と「厳しさ」がなければ、任天堂という会社は、ここまでの成功をおさめることはできなかったはずです。
僕が小学生の頃『ゲーム&ウォッチ』の『ヘルメット』とか『マンホール』で遊んでいたときには、「花札とか、トランプとかつくっている会社が、なぜこんな電子ゲームを?」って感じでしたし、ファミコンのときも「『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』はすごく良くできているけれど、任天堂が、どのくらいゲームの『弾』を持っているのだろう?」と疑ってもいたんですよね。
あれから30年で、こんな「世界企業」になっているとは……


山内さんというのは、直接個々のゲームの制作に深く関わっていたわけではないのですが、横井軍平さんや宮本茂さん、そして、岩田現社長など多くの個性的な人材を登用してきました。
横井さんは、同志社大学工学部を卒業したにもかかわらず、(成績が思わしくなくて)「任天堂」という「花札とトランプの会社」に就職したことで、同級生にたいして、コンプレックスを抱いていた時期もあったそうです。
宮本さんは、金沢市立美術工芸大学出身で、最初は工業デザイナーとして入社。
岩田さんは、外部の会社、HAL研究所の社長だった人。
任天堂が急速に大きくなった会社で、山内社長のワンマン体制だったからこそ可能だった登用だったのですが、結果的に、それが任天堂をいまの地位に押し上げていきました。
「あの時期の任天堂にいちばんふさわしい社長」だった、という面もあるのでしょう。
いまのように大きくなってしまった任天堂に、昔の山内社長が君臨しようとすれば軋轢ばかりになってしまったかもしれません。


山内社長に関してのさまざまなエピソードを追っていくと、スティーブ・ジョブズとの類似点がかなりあるように思われます。


『日本を変えた10大ゲーム機』 (多根清史著/ソフトバンク新書)より。

ファミコンの開発にあたり、山内・元社長が付けた注文はたったの二つ。一つは、他社が少なくとも1年くらいは追随できないこと。もう一つは、目標価格を9800円に設定すること。すでに性能面では陳腐化していた「カラーテレビゲーム15」シリーズを、三菱と手を組むことでやっと商品化にこぎ着けた当時の任天堂が、である。

結局、ファミコンの定価は14800円になったのですが、当時のファミコンの性能で14800円というのは、「信じられない価格」でした。


同書には、『ゲームボーイ』開発時のこんなエピソードも紹介されています。

1989年に発売されたゲームボーイの名前に、ファミコンのように<コンピュータ>という文字が含まれなかったのは象徴的だ。この新型ゲーム機は、<おもちゃ>であることに徹していた。おもちゃとは、子どもや大人を問わず、誰もが一目見ればすぐに遊べて、乱暴に扱っても壊れないものだ。「分かりやすさ」と「堅牢性」では、並の家庭用ゲーム機は足下にも及ばない。


 そして任天堂には、長年の経験に裏打ちされた「おもちゃを見るプロ」かつ「ゲームの素人」で、しかもゲームボーイの企画をちゃぶ台返しできる人物が一人いた。当時の社長・山内溥その人である。
 山内にまつわる二つの逸話は、どちらもすさまじい。一つは、ゲームボーイの試作機をプレイしてみたときのエピソードだ。当初の試作品は、ゲーム&ウォッチと同じ、斜めから見やすい「TN液晶」を採用していた。これは「電卓をのぞき込む」姿勢に適しており、サイズの小さいゲーム&ウォッチでは特に問題とされなかった。
ところが、山内はゲームボーイをつかむなり、おもむろに正面にかまえた。
 「何だこれ。見えへんやないか」
 ゲームボーイは本体サイズがかなり大きくなっているため、自然とバランスのいい真正面か上部からつかんで見ることになる。予備知識のない山内は、初めてのおもちゃを手にする子どものように、ゲーム機に面と向かったのだ。
 「どうするんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」
 自力で液晶を製造できない任天堂は、シャープと協力して開発にあたっていた。すでに「TN液晶でいける」という前提のもとに、40億円をかけて製造工場が建設されていたのだ。粛々と既成事実が積み上がる中で、“リセットボタンを押せる”のは山内のほかにいない。
 そこで、急遽「STN」というタイプの液晶に変更されたが、結果としてこれが吉と出た。たしかに表示スピードが遅く、動きの激しいゲームでは残像が発生したりと欠点はあったが、ソフトの作り方によって対応できなくはない。STN液晶は明るい部分と暗い部分のコントラストが利いていて、正面からも見やすく、日光のある屋外でもゲーム画面が確認できる。「遊ぶ場所を選ばない」携帯ゲーム機としては、いい落としどころだ。
 もう一つの逸話でも、山内はまるで子どものようにふるまった。開発陣から渡された最終デモ版の試作機を、いきなりカーペットの敷かれた床に投げ出したのだ。ゲーム機は子どもが買うものだかあ、乱暴に扱っても壊れては ならない、と社長じきじきに「強度テスト」をしてくれたのだ。
そのかいあって、ゲームボーイは「史上もっとも頑丈なデジタルガジェット」と海外でも定評がある。湾岸戦争のさい、任天堂が“戦時支援”として米軍兵士に提供したゲームボーイのうち1台が空爆を受けた家屋から発見され、表面は焼けただれていたがゲームは問題なく動いた、と驚きのニュースが流れたくらいだ。任天堂の社長と空爆、二つの試練に鍛え抜かれたタフガイなのである。


『週刊ファミ通』(エンターブレイン)2006.1.20号のインタビュー記事「宮本茂氏に聞く!!『大玉』、”任天堂”、そして……2006年」より。
(「スーパーマリオブラザーズ」や「ゼルダの伝説」など、数々の傑作ゲームの生みの親、宮本茂さんへのインタビュー記事の一部です)

インタビュアー:原点という意味で、具体的に”任天堂らしさ”
とはどういうことか、教えていただけますか。


宮本: ”人を楽しませることにどん欲”。そして”お客さんに対して誠意を持ってモノを作る”というところですかね。ファミコンのころからそうなんですよ。子供が乱暴に使っても壊れず、機構をシンプルにして誰でもメンテナンスできるようにする、とかね。ビジネスの上では、すごく不利なことをいっぱいしてるんです(苦笑)。見えないところにたくさんコストをかけてますから。そういう風にモノを作ることが好きな人が、任天堂には昔からたくさんいたんですよ。


インタビュアー:原点という逸話として、かつてバブルの時代に、山内溥前社長(現相談役)が、任天堂の本社を東京に移すという話が挙がったとき、「任天堂は東京を相手に商売してるんやない。世界や」と言って京都から動かなかった、と聞きました。そういう頑なな考えかたにも任天堂の哲学を感じます。


宮本:山内さんの話はいま初めて聞きましたけど、僕も見えないとことで影響を受けているんでしょうね。僕は東京に対する劣等感って、ぜんぜんないんです。日々、同じペースで生きている。でも考えてみるとハタチそこそこで入社したときはね、やっぱり東京で最先端の流行に触れたい、流行りの工業デザインをマネしたい、とか思ったんですよ。そういう、人生でいちばん熱い時期に、言ってみれば無理矢理、京都に縛られていたんですね。しかし仕事を続けていくうちに「流行を追いかけるのではなく、自分自身が何を作るかがいちばん大事なんだ」ということに自然と気づかされたんです。妙に東京を意識していたら、『スーパーマリオブラザーズ』は生まれなかったでしょう。そういう意味では、京都にいたことは非常にラッキーでしたね。

無謀な大言壮語のような目標を掲げながら、みんなをやる気にさせ、それを最終的には実現させてしまうカリスマ性。
(もちろん、山内さんには、それが「現実的にギリギリ可能なライン」であることが見えていたのでしょう)
製品に対する横暴なまでの妥協のなさ。
ゲーム会社の社長で「おもちゃを見るプロ」を自負しながら、ゲーム業界に染まりきらずに「ゲームの素人」としてユーザーの、子どもたちの目線を提示しつづけたこと。


あのファミコンの生みの親であり、任天堂をテレビゲームの代名詞にした山内さん。
僕にとっては、人生で最大の楽しみをつくってくれた人であるのと同時に、ゲームウォッチファミコンに出会わなかったら、どんな人生になったのだろう?とも考えこんでしまいます。
いまの40歳以下くらいの多くの日本人(もちろん、世界中のゲーマーたちも!)の人生に、もっとも影響を与えた人のひとり、だったのかもしれないなあ。
アップルが「ジョブズの不在」の呪縛から逃れられない一方で、任天堂は、山内さんがトップの座から降りても、「変わらない任天堂」であり続けているというのは、すごいことなのではないか、とも思うのです。
50代で亡くなったジョブズと、85歳まで生きた山内さんを比べるのべきではないだろうし、むしろ、将来の任天堂も「宮本茂さんがいた頃は……」と言われるのかもしれませんけど。


1985年、『スーパーマリオブラザーズ』発売目前のインタビューで、山内さんは、こう仰っていたそうです(『ファミコンとその時代』(上村雅之,細井浩一,中村彰憲共著/エヌティティ出版)より)。

 任天堂というのは、独りぼっちの企業なのです。独りぼっちの路線を歩んでいるのだということを最近つくづく感じます。


先ほどの宮本茂さんの言葉のなかに、「流行を追いかけるのではなく、自分自身が何を作るかがいちばん大事なんだ」というものがありました。
任天堂は成功ばかりしてきたわけではなくて、『バーチャルボーイ』のような「歴史的大敗」も経験しています。
それでも「自分自身で道を切り開く」ことを、やめませんでした。
会社が大きくなればなるほど、「挑戦」や「冒険」よりも「計算できるもの、安定して売れそうなもの」をつくるべきだという圧力も強くなってきたはずです。
そんななかで、「独りぼっちの企業」であることを貫けたのは、山内溥という「大樹」が、そういう圧力から、クリエイターたちを守ってきたおかげ、なんですよね。
横井軍平さんや宮本茂さんがいなければ、いまの任天堂はなかった。
そして、山内溥さんがいなければ、横井さんや宮本さんは、ここまで自分の能力を発揮することはできなかった。


ファミコンから30年。
「独りぼっちの企業」がつくってきた道は、「自分は独りぼっちなのではないか?という不安にさいなまれてきた大勢の子どもたちが歩んでいくうちに、こんなに大きくて長い道になったのですね。
 

中学校入学とともに引っ越しをして、入学後しばらく友達が全くおらず、家に帰ってファミコンをすることだけを楽しみにしていた僕は、こうしていまも生きています。
山内さん、本当にありがとうございました。


もしあの世というのがあるのなら、横井さんと仲直りして、新しい遊びを開発してくださるのではないかと楽しみにしています。
お二人の新しい遊びが待っている世界があるのなら、そこは僕にとって、間違いなく「天国」だろうなあ。


ファミコンとその時代

ファミコンとその時代