琥珀色の戯言

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【読書感想】1989年のファミコン通信 ☆☆☆☆


1989年のファミコン通信 (ファミ通BOOKS)

1989年のファミコン通信 (ファミ通BOOKS)

内容紹介
いちアルバイトの目線で『ファミ通』創成期を活写した実録風読み物!


携帯電話もインターネットも、まだ普及していない時代。『ファミコン通信』(現:週刊ファミ通)は、いかにして作られていたのか?
平成元年にアルバイトとして『ファミコン通信』で働き始めた筆者の目線で、雑誌の制作過程や編集部内の出来事が淡々と語られています。
筆者の成長を軸に、当時の出版界およびゲーム業界の内情を切り取るドキュメンタリー風読み物です。


このタイトル、『1976年のアントニオ猪木』へのオマージュなのかな、なんて思いながら読みました。
(いや、『1986年のマリリン』(vo.本田美奈子)の可能性もあるか……)


ファミコンが誕生した30年前には小学校高学年で、ファミコンの全盛期に小学校〜高校時代を過ごしていた僕にとって、「ゲームデザイナーになる」とか「ゲーム雑誌の編集者になる」というのは、まさに「夢」だったのです。
テレビゲーム友達と、「大学で東京に出て、『ログイン』か『ファミ通』か『BEEP!』の編集部でバイトさせてもらおう!」なんて、よく話していたものです。
この本、そんな「夢」を本当に実現してしまった人、田原誠司さんが、「創刊黎明期の『ファミコン通信』に、アルバイトとして入ってた当時の自分と編集部の様子」を描いたものです。


読んでみると、まるで自分も『ファミコン通信』の新人アルバイトになったような、そんな気分になってくる本なんですよね。
ひとりの「ゲーム好きの大学生」が、ゲーム好きが高じて『ファミコン通信』をつくるようになり、周囲にサポートされながら、一人前の「編集者」として成長する姿が丁寧に描かれています。
その一方で、そんなにボリュームがあるわけではないので、内容の大部分が田原さんの新人アルバイト時代に限定されていることと、当時の『ファミコン通信』の名物編集者たちのエピソードが、「著者が実際に交流があった範囲」でしか書かれていないのは、ちょっと残念というか、もっと読みたかったなあ、というか。

 ずっとあとになって、ファミコン通信がおもしろ路線を選んだ理由をハマムラさんから教わった。現在の週刊ファミ通しか知らない人にとっては意外なことかもしれないが、当時の隔週刊雑誌だったファミコン通信は、家庭用ゲーム情報誌としては最後発の雑誌だった。つまりファミコン通信は創刊の時点でライバル他誌に一歩か二歩のリードを許していた状況だったわけだ。そこで他誌がやっていなかったことをファミコン通信の特色として打ち出すために、おもしろ路線に走ったのだそうだ。

 
 当時発行されていた家庭用ゲーム情報誌を創刊順に並べてみるとこうなる。()内は当時の出版社名だ。


1984年12月 BEEP!(ソフトバンク
1985年7月 ファミリーコンピュータMagazine(徳間書店インターメディア)
1986年3月 ファミコン必勝本JICC出版局
1986年3月 ハイスコア(英知出版
1986年4月 マル勝ファミコン角川書店
1986年6月 ファミコン通信アスキー

これを読んで、あらためて思い返してみると、『ファミコン通信』というのは、当時たくさんあったファミコン雑誌のなかでは「最後発」だったんですね。
僕は『ログイン』のなかの『ファミコン通信』というコーナーの誕生時から読んでいたので、あまり「後発」という実感がないのですが、編集部としては、「最後発であること」に危機感を抱いていたようです。
そして、その結果打ち出されたコンセプトが、

「すべての記事はおもしろくなくてはならない」

だったのです。


当時の僕は「書店に並ぶような雑誌が、こんなに不真面目で、楽屋オチばっかりで良いのか?」と『ログイン』や『ファミ通』に、ニヤニヤしながらツッコミを入れていたものです。
あれだけ創刊されていったファミコン雑誌のなかで、最後に残ったのが『ファミコン通信』だったというのには、やはり、それなりの理由があったのでしょう。
僕が学生時代に読んでいた『ファミ通』は、とにかく「読んでいて面白い(バカバカしい、とも言えますが)記事が多かった」のです。
この本を読むと、「おもしろい記事」をつくるためには、「つくっている側も楽しんでいること」と同時に「真面目に、妥協せずに記事をつくること」が徹底されていたこともわかります。
塩崎剛三さんや浜村弘一さんが、かなり「デキる編集者」であったことも。


田原さんは、友人に借りて読んだ『ファミコン通信』との出会いを、こんなふうに書いておられます。

 自分の部屋でファミコン通信を開いたときは、すべての漢字に振り仮名があることに驚いた。いわゆる総ルビである。こんな本を読むのは小学校以来だ。やっぱり大学生が読むものじゃないよなと思いながらページを繰っているうちに、ただの総ルビ雑誌ではないことがわかってきた。
 やられた! と思ったのは、ディスクシステム用のソフト『バレーボール』の記事だった。そのゲームの内容を紹介するページの中で、画面写真の横に添えられたキャッチコピーが”全マップ公開!”となっていたのだ。全マップもなにも、『バレーボール』は画面中央に固定されたバレーコートで試合するだけのスポーツゲームだ。そもそもマップ自体が存在しない。そんなことは百も承知で全マップ公開と言ってのけるバカさ加減。このキャッチコピー一発でぼくはファミコン通信に惚れた。その号を端から端まで、何度も熟読した。笑いながら、頷きながら、唸りながら。イマムラに電話をした。奴にはライブラリーがあるはずだ。「こんど会うときにいままで発売されたファミコン通信を全部貸してくれ!」

そうそう、まさにこういうのが、『ファミコン通信』のノリだったんですよ。
作っている側も楽しんでいる雰囲気が伝わってくるような。
当時、新潟大学の学生だった田原さんの人生は、『ファミコン通信』との出会いで、大きく変わっていくのです。
それにしても、いくら実家が東京だったとはいえ、新潟大学の学生だったのに、東京での雑誌づくりのアルバイトをするなんて、すごい話だ……

 1993年の2月。ぼくはファミ通エクスプレスとファミ通町内会という硬軟両極端のレギュラーページを担当しつつ、なかなか忙しい日々を送っていた。
 一週間のパターンはほぼ決まっていた。日曜日の終電で出社し、ファミ通町内会に寄せられたすべてのハガキに目を通して、掲載作品を選ぶのが毎週の”仕事始め”だった。そのまま月曜・火曜は編集部に泊まり、水曜日の深夜にタクシーで帰宅する。睡眠だけとって木曜日に出社し、つぎに家に帰るのは土曜日の昼頃。疲れを取るためにぐっすり眠ると、目を覚ますのはたいてい日曜日の午後だった。
 帰宅は週二回、それも寝るためだけ、という生活がすっかり定着していた。それだけ仕事が忙しかったわけだが、不満はあまりなかった。なにしろ、仕事イコールゲームで、雑誌の記事作りは文化祭の準備のようなものだから、仕事と遊びの境目がなかったのだ。

結局、田原さんは大学を中退し、編集者としての道をそのまま歩むことになったのですが、後悔はなさそうです。
こんな生活では「学業との両立」なんて無理ですよね。
たぶん当時、同じように「ゲーム雑誌づくり」に憧れて『ファミコン通信』にやってきた若者は、たくさんいたのではないでしょうか。
でも、この「他のことは何もできない」ようなハードな環境では、よっぽど「楽しい」そして、「とりあえず、将来云々よりも、いまやりたいことをやる!」という覚悟がなければ、続けていくことは難しかったはず。
そりゃ、「職場結婚」も多かったわけだよねえ。
僕はこれを読んで、「ああ、羨ましいけど、これは僕には無理だったな……」なんて、少しだけ安心したのです。
すごく楽しそうだけれど、プライベートな時間がほとんどなく、一年中文化祭の準備が続くことには、「ただのゲーム好き」のレベルでは、耐えられそうもありませんから。


ところで、ちょっと気になったのが、限りなく「実録」っぽいのに、紹介文には「実録風」「ドキュメンタリー風」って書いてあることです。
すべてがフィクションだとは思えないのですが、どの程度がフィクションなのかは、ちょっと気にはなります。
「森下万里子さん」に関する記述は、おそらく「風」の一部なのでしょうけど。


1989年だから、もう24年も前になるんですね。
あの頃、「ゲームをつくってみたい!」あるいは「ゲーム雑誌でアルバイトしてみたい!」と思ったことがある、いまではすっかり社畜になってしまった(僕も病院畜ですからね……)、オールドゲーマー諸子に、ぜひ読んでみていただきたい一冊です。
田原さんは「自分の1989年」のことを書いているだけなのに、読んでいると「僕自身の1989年」が甦ってくる、そんな気がしてきます。

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