琥珀色の戯言

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【読書感想】ミケランジェロ ☆☆☆☆


ミケランジェロ (中公新書)

ミケランジェロ (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
ダヴィデ、システィーナ礼拝堂天井画、「最後の審判」などで知られるルネサンスの巨匠ミケランジェロ。彫刻や絵画のみならず、建築、素描、詩篇にいたる超人的な芸術活動の核心には何があるのか。八九年に及ぶ波瀾の生涯をたどりつつ、代表的な作品を精緻に読み解き、そこに秘められたメッセージを解明していく。レオナルドの対極に位置する「混沌」を生きる芸術家として再発見し、ミケランジェロ像を刷新する。


いま、国立西洋美術館で、『ミケランジェロ展』が開催されています(2013年9月6日から、同年11月17日まで)。
東京に用事があって行く際に、観てみようかな、と思っていたのですが、出展されている作品は知らないものばかりで、「うーん、どうしようかな……」と思っていたときに、書店でこの新書を見かけました。
こういう機会に、『最後の審判』『ダヴィデ像』以外のミケランジェロについても知りたいな、ということで購入。
僕自身は、レオナルド・ダ・ヴィンチに関しては、さまざまな逸話を知っているのですが、ミケランジェロの人物像は、ほとんど知りませんでした。
その名声に比べて「どんな人か?」ということが語られるのは、ダ・ヴィンチに比べて、はるかに少ないような気がするんですよ。


正直、この新書で著者が書いていることが、「ミケランジェロが本当に考えていたこと」だったのかは、わかりません。
というか、誰にもわかるわけがないんですよね。
でも、ミケランジェロの人生というか、作品の変遷を辿っていくと、たしかに「なぜ、この天才芸術家の作風は、こんなに変化していったのか?」という疑問がわいてきますし、そういう「89年も生きていながら、自分自身が完成してしまうことを認めない貪欲さ」こそが、「天才」たるゆえんなのかな、と考えさせられます。

 ミケランジェロを知ったのは、十代の半ばごろだった。岩波写真文庫の『ミケランジェロ−彫刻−』を買ってくれたのは、姉だったか、母だったか。その本に夢中になって、毎日みつめページを操り、ボロボロにしてしまった。
 上質とはいえないモノクロの図板だが、そのころのボクの心をつかんで離さなかった。
「ヴァチカンのピエタ」から「ピエタ ロンダニーニ」へ、同じピエタが、なぜこんなに変わっていくのか。最初は謎解きのようにそんなことを考えていたのかもしれないが、そのうちに、ここに「芸術」に携わる「人間」の秘密が隠されているような気がしてきた。

 ちなみに「ピエタ」というのは「美術の世界では、十字架から降ろされたイエスの遺骸に寄り添って嘆くマリアの絵や彫刻のこと」です。
(イタリア語では「哀れみ」「信仰深い心」「恭順」などの意味だそうです)


 この新書では、ミケランジェロが24歳の頃につくった「ヴァチカンのピエタ」と、最晩年の「ロンダニーニのピエタ」の写真が掲載されているのですが、イエスとマリアのディテールまできちんと作りこまれている精緻な「ヴァチカンのピエタ」と、巨神兵のようにドロンと溶けかかっているふたりが寄り添っている「ロンダニーニのピエタ」は、並べてみると、年齢が違っているとはいえ、同じ人の作品とは、にわかに信じがたいものがあります。


著者は、ミケランジェロの生涯を追いながら、その思想と作品の変遷を述べているのですが、僕も見たことがある『ダヴィデ像』について、は、こんな話が紹介されていました。

ダヴィデ」の絵葉書などで、真横からのアングルで撮った写真を見ると、頭が大きく、胴部からとくに脚とのバランスが悪い。これは、この4メートルもある巨像を下から見上げるとき、頭部がちょうどいい大きさに感じられるように大きめに彫ったからだ、というのも有名なエピソードである。


ミケランジェロは、「描きかた」の既成の概念を、ずっと打ち破ろうとしていたようです。

 ミケランジェロは、男の身体を表現するときは、そこに女性的な要素をみつけ強調したいと思い(「ケンタウロス」「磔刑」)、女性を表現するときは男性的な美しさをみつけだしたい(「階段の聖母」)と考えていたようだ。ここで「女性的」「男性的」といったのは、一般の人びとの通念が作り上げた概念として使っている。そういう通念としての概念を磨き上げることによって「美」を表現する方法に、ミケランジェロはこんなに若いときから疑問をもっていたのである。

これを読み、紹介されているミケランジェロの作品を見てみると、「なるほど」と頷かされます。
のちの『最後の審判』に関しても、著者はこう書いています。

 壁画全体は明るい青色を背景にしているが、画面上の人物は、だれ一人明るい表情をしていないのには驚くばかりである。天上の天使たちも、愛くるしさなどなく、翼を持たない裸の男の子たちが、笑顔一つ見せず鞭打ち用の柱や十字架といった受難具を抱えて地上へ降りてきている。イエスが被った受難の道具は、救いの象徴でもあると教義では説かれるが、天使たちの深刻な表情からは救いの希望は伝わってこない。その男の子たちは、筋肉も隆々としていて、男性の身体に女性的な美を見つけ強調してきたミケランジェロが、この「最後の審判」では天上(天国)の住者である男の子たちにそういう美質を描き出そうとしなかった。そしてその分、天使たちの住む世界が重苦しく見えるのは否定できない。

僕はこの「最後の審判」の実物を観たことがあるのですが、そのときにはほとんど予備知識がなく「ああ、なんだか真っ青な絵だな」という印象だけが残りました。
中世の宗教関連の絵で、こんなに青が強く目にとびこんでくる作品は、他に観たことがありません。
そして、たしかに「すごい迫力の絵なんだけど、天国の人たちも、あんまり幸せそうじゃないな」と思った記憶があります。
それは、僕自身のキリスト教への無知のためだけではなかったのだなあ。
ミケランジェロは、当時の政争や宗教的な対立に、何度も巻き込まれ、教皇の命令に振り回されてもいたそうです。
とはいえ、おおっぴらに「反キリスト者」になってしまっては、当時の世界で生きてはいけませんし、疑問と信仰のあいだで、ミケランジェロも揺れていたのでしょう。

 ミケランジェロは、「持続する芸術家」である。決して、自分の築き上げた世界(芸術的な成果)に安住せず、つねに新しい問い(可能性)を投げかけて新しい表現を求め、現状に失望しつつそこから立ち上がって新しい仕事に取り組んでいった。
 成し遂げた仕事に満足せず新しい可能性を求めたのだが、新奇さを振りかざして注目を集めるような冒険家ではなかった。納得のいく仕事をしようと思った結果、納得のいかないところが見つかって(失望し、絶望もし)、それを克服する仕事をしなければ、と次のしごとに取りかかった。
 つねに自分の能力の限界にまで挑戦し、そしていつもそんな自分の結果に満足していなかった様子は、彼の生涯にわたる仕事とその取り組みかたを眺めれば焙り出すように見えてくるだろう。

ミケランジェロ展』に足を運ぶ予定がある方は、事前に読んでおくと、展覧会が楽しめるのではないかと思います。
全く予備知識がないと、『最後の審判』も『ダヴィデ像』も無い「ミケランジェロ展」って、何が面白いの?って考えてしまいますしね。

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