琥珀色の戯言

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【読書感想】蔵書の苦しみ ☆☆☆☆


蔵書の苦しみ (光文社新書)

蔵書の苦しみ (光文社新書)


Kindle版もあります。著者のポリシーからすれば、Kindleで読むのはあまり好ましくないのかもしれませんが、僕はこちらで読みました。

蔵書の苦しみ (光文社新書)

蔵書の苦しみ (光文社新書)

内容紹介
著者は2万冊を超える蔵書の持ち主。時々まとめて古本屋に引き取ってもらうが、売ったはしから買ってしまうので、一向に減ることはない。そんな、つねに蔵書の山と闘い続けている著者が、煩悶の末に至った蔵書の理想とは?――「本棚は書斎を堕落させる」「血肉化した500冊があればいい」「自分の中で鮮度を失った本は一度手放す」「トランクルームを借りても安心するべからず」など、本といかに付き合う知恵が満載。


僕にとっても「どんどん増えていく本を、どう処分していくか?」というのは悩みの種なんですよね。
一冊一冊はそんなにかさばらないはずなのに、いつのまにか増えていってしまう。
そして、僕にとっては「愛着があって、捨て難い」本でも、家族にとっては、「家を狭くする物理的な障害物」でしかないわけで。
最近は、買う本の半分くらいは電子書籍になったので、少しは(見かけ上の)本の量が減ったのではないか、と思うのですが……
電子書籍だとついセールで衝動買いしてしまう事も多いので、使っている金額は、変わらないか、むしろ増えているのですけど。


そんな僕でも、この本の著者の「蔵書へのこだわり」には圧倒されてしまいます。

 本が増え過ぎてしまったのだ。 
 本棚におさまったのとほぼ同量の本が、階段から廊下、本棚の前、仕事机の周辺などにはみ出し、積み重なっている。おかげでちょっと移動するのも一苦労。床に散らばった本と本との間の、わずかな空間に片足を踏み入れないと前に進めない。そして前に進むと、積み重なった本の塔がばたばたと崩れ落ちる。
 それでも空間を見つけられたら、まだいいほうだ。見つけられないと、本を踏み越えて移動することになる。本を踏むなんて、書評を生業をする者にとってあるまじき行為にちがいない。それが、いつの間にか平気で踏んでしまっている。罰があたったのか、足が滑り、踏みつけた本のカバーが敗れて「ああっ!」、本体を取り出した後の函を踏み壊し「ああっ!」、開いたページがぐしゃりと折れ曲がり「ああっ!」と、それは大変な騒ぎとなる。

著者は「最近では探している本が見つからなくなってきたので、あるはずの本を図書館で借りたり、書店で『二度買い』することも増えてきた」そうです。
自宅に自分用の書庫を持ち、蔵書2万冊!(著者推計)ともなると、もう、家なんだか図書館なんだか、という感じです。
これは僕など、足元にも及びません。


この本を読んでいると、著者のような「本を身近なところにたくさん置いておくことに執念を燃やす人々」が、けっこう存在していることに驚かされます。
著者のような書評家や学者などは「商売道具」という面もあるのでしょうけど、「とにかく本という物質が好き」な人って、けっこうたくさんいるのです。
鉄道マニアに、電車に乗るのが好きな「乗り鉄」、写真を撮るのが好きな「撮り鉄」など、内部でさまざまな分派があるのと同様に、「本好き」にも、「とにかく読むのが好き」な人もいれば、特定のジャンルや作家にこだわる人、「読むよりも、本を集めたい」という人など、けっこういろんな人種がいるのです。
「古本を収集するのに忙しくて、本をあまり読まなくなってしまった」なんていう収集家の言葉を読むと、「それでいいのか?」と、「どちらかというと、読むのが好き派」の僕などは思ってしまうのですが……
これだけ電子書籍が話題になり、Amazonで多くの本が買えるようになっても、「紙の本好き」は、そう簡単には絶滅しないみたいです。
いや、むしろ、だからこそ紙の本を集めたい、という人は、増えてきているようにすら思われます。


それにしても、「蔵書家」というのはすごい人たちだな、と。

 日本の文学史上で、圧倒的な蔵書量を誇るのが、2011年に逝去した作家の井上ひさし。生前、彼の蔵書が故郷の山形県川西町に寄贈され、「遅筆堂文庫」という図書館まで建てられた。
 寄贈するにあたり、家から運び出した段階で「13万冊あった」というのもすごい話。全編、本とのつきあい、そして格闘を語る『本の運命』(文春文庫)は、無類のおもしろさだが、なかでも蔵書について、「全部でいったい何冊あるのか、僕にもわからない。まあ、三万冊ぐらいかなあと思ってたんですね。それがあるきっかけで、なんと十三万冊あったということが判明する悲劇が起こる(笑)」とある。そのきっかけとは、前夫人との離婚なのだが、その話は措いておく。

13万冊!……って、誰が数えたんだろうか……
井上さんの場合は、実在の人物をモデルにした小説や戯曲の資料として、たくさんの本を所蔵していたのも一因だそうなのですが、それにしても、奥様もよく13万冊まで耐えたものだ……とか、ちょっと思ってしまいました。
ほんと、上には上がいるものです。


また、2008年に逝去された評論家の草森紳一さんの、こんなエピソードも紹介されています。

 草森宅で、唯一、本がないのが浴槽で、浴室の脱衣場にも本は置かれていた。ある日、風呂に入ろうとしたところ、浴室のドア前に積んであった本が崩れ、そのまま閉じ込められた悲喜劇を描いたのが『随筆 本が崩れる』だ。同著は、脛に傷持つ蔵書家の間で、大いに話題になった。ベッドに寝ているだけで、本が顔面を直撃し、風呂に入ろうとするだけで浴室に閉じ込められる(密室殺人?)ぐらいだから、3・11にまだ生きていたら、いったいどんなことになっていたか。いや、草森のことだから、もし地震で崩れた本に圧殺されても本望だったかもしれない。

この『随筆 本が崩れる』って、すごいタイトルですよね。僕も読んでみたくなりました。
浴室に閉じ込められたということは、素っ裸だったのでしょうし、草森さんは、どうやって、その密室から脱出したのだろう?
本もあまりに多すぎると、凶器になりえるのです。
しかし、いくらなんでも、浴室の脱衣場にまで本を積むとは……


この新書を読んでいると、「蔵書家」というのは、「本に埋もれて死ぬこと」を心のうちで期待している人なのではないか、と思えてもくるのです。
あるいは「本が多すぎて起こるトラブルを、嬉々として語らずにはいられない人々」なのかもしれません。
そんなに邪魔なら、捨てればいいだろ、って思われるかもしれないけれど、「捨てられない葛藤を楽しんでいる」ようでもあります。


僕はこの本に「積み上がる蔵書への対処法・整理術」を期待していたのですが、書かれているのは「蔵書が崩れてくるようになって、ようやく『一人前の蔵書家』なんだからな」という、まさに「蔵書の苦しみ」でした。
著者は、「ひとり古書市」まで決行し、蔵書を減らそうと試みるのですが、「数千冊くらい売ったはずなのに、あまり前と変わらないような気がする」という結果に。
ある意味「僕はこの域に達することはできないから、まだ安心だ……」とか、ちょっと思ってしまうところもあるんですけどね。
もちろん、家人には、別の見解があるでしょうが。


ちなみに、著者は「電子書籍」について、こんなふうに述べています。

「本」は、中身だけで成り立っているものではない。紙質から造本、装丁、持ったときの手になじむ触感、あるいは函入りであったり、変型本だったり、それぞれの姿かたち。これらを総合して初めて「本」と呼びたい。


「物質としての本」への愛着はあるつもりけれど、現実的には電子書籍の便利さに魅了されてしまっている僕としては、「紙の本もそう簡単には無くならないだろうな」と、ホッとする本でもありました。


本というのは、魔物ですよ、たしかに。

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