琥珀色の戯言

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かぐや姫の物語 ☆☆☆☆☆



あらすじ: 今は昔、竹取の翁が見つけた光り輝く竹の中からかわいらしい女の子が現れ、翁は媼と共に大切に育てることに。女の子は瞬く間に美しい娘に成長しかぐや姫と名付けられ、うわさを聞き付けた男たちが求婚してくるようになる。彼らに無理難題を突き付け次々と振ったかぐや姫は、やがて月を見ては物思いにふけるようになり……。

参考リンク:映画『かぐや姫の物語』公式サイト


 2013年34本目。
 火曜日のレイトショーで鑑賞。
 観客は、僕も含めて10人くらい。男性ひとりで来ている人が意外に多かったです。
 しかし、公開4日目としては、けっこう空いているような。
 まあ、平日だし、子どもが来られない時間帯だから、そんなものなのかな。


 この映画、「日本最古の物語」と言われる『竹取物語』を原案にしたものなのですが、上映時間が137分もあるということで、いったいどんな話になっているんだろう?と思っていたんですよ。
 『竹取物語』って、『まんが日本むかしばなし』なら、15分、せいぜい30分(CM込み)くらいじゃないですか。100分くらいなら、あれこれディテールを入れまくって水増ししたんだろうな、と予想するところなのですが、137分ですからね……それだと、子どもには長いだろ、とも思いましたし。
 そんなことを考えながら、冒頭の場面で、また驚きました。
 おそらく、「この上映時間なら、竹取の翁が、光る竹を見つけ、姫と出会うまでのプロセスが、かなり詳細に描かれるはず……」とだったのですが、「アッサリしすぎじゃない?このペースだと、30分で終わるよこの映画……」というくらいの早送りっぷり。
 この映画、緩急が、僕が予想していたのと、真逆なんですよ。
 というか、日本人のほとんど大部分が知っているであろう『竹取物語』の本筋は、ダイジェスト版のようにサラッと流れていきます。
 それに対して、赤ん坊だった姫が、カエルを追いかけたり、ハイハイをしたり、子どもどうしで遊んだり、都の立派なお屋敷ではしゃぎまくるシーンは、たっぷり時間を使って、すごく丁寧に描かれているのです。
 とにかく、ディテールを描くことにこだわった映画、なのです。
 高畑監督は、姫が疾走するシーンや、赤ん坊の動きなどの「ディテールを描くこと」にしか興味がなく、メインストーリーはどうでもよかったのではないか、とか勘ぐってしまうくらいです。
 物語のクライマックスのはずの「月からの迎えのシーン」なんて、『ぽんぽこ』の「妖怪大作戦」のやる気のないバージョンみたいで、失笑してしまったものなあ。でも、もしかしたら、高畑監督としては、「怒りや憂い、悲しみなどの不浄な感情がない月の世界」っていうのは、ああいう安っぽいものなのだ、と言いたかったのかもしれませんね。


 この映画、素直に観れば「周囲の都合で翻弄され、自然のなかで成長することができなかった姫の悲しみ」を描いたもの、ということになるのでしょう。
 もっと自由に、自然を触れ合って生活していくことが「生きる」ということではないか?
 いかにもジブリ的な「自然への回帰」のメッセージ。


 でも、僕はこの映画をそんなに素直には観られませんでした。
 というか、最後のほうは、あまりにももどかしいというか、姫に嫌悪感すら抱いてしまったんですよ。


 姫は悪いことはしていない。
 少なくとも、2013年に生きている僕の感覚としては。
 にもかかわらず、僕は姫がどんどん嫌いになっていきました。


 「問題作」ですよこれ。
 きっと、「もっと自由に、自然と触れ合って生きていこう!」と決意を新たにして、映画館を出て行く人も多いのだろうし、それで良いのだろうと思うのですけど……
 アニメーションとしても、静止画でみると、一般的な「ジブリ絵」ではありません。
 キャラクターがかわいくないことに違和感があるかもしれませんが、僕は「ジブリってこんな表現もできるのか!やっぱりすごい技術者集団なんだな」と感心するばかりでした。


 さて、これから先はネタバレ感想です。
 未見の方は、ぜひ、作品を先に観てから読んでください。
 
 正直、どっちに転んでも観たら鬱々とした気分になる映画ではありますが、こんなにザラザラした映画をキャリアの晩年につくった高畑勲という人は、本当にすごいと思います。 
 いや、高畑勲監督が『竹取物語』をつくると聞いたときには、「アニメ監督としてのキャリアの『最後』に物語のルーツに『原点回帰』するつもりなのかな」と考えていたんですよ。


 僕は「かぐや姫」が象徴しているものについて、観ながらあれこれ想像していたのです。
 「姫」は高畑勲監督にとっての「アニメーション」ではないのか、それが僕の一つ目の答えです。
 「姫」はある日突然、平凡な生活をしてきた老夫婦の元にやってきます。
 老夫婦は「姫」の魅力に取りつかれ、すべてをなげうって、「姫」のために尽くします。
 翁と媼は「姫」に対して、正反対の養育方針を持っているように見えるのですが、ふたりとも「姫のことを最優先にしている」のは共通しています。
 「姫」はいつのまにか美しく成長し、周囲の人びとを魅了しながら、どんどん大きな存在になっていくのです。
 「姫」は、その一方で「関わった人たちを、不幸にしていく」のです。
 翁は、変わってしまった。
 姫の望む「宝物」を手に入れるために、名だたる貴族たちが苦労しますが、報われません。
 危険な目に遭う者、とんでもないウソをつく者も、出てきます。
 

 いやほんと、「姫」って、けっこう酷いんですよ。
 「みんなでお花見に行きましょう!」って誘っておきながら、満開の桜の下で、卑しい身分の親子に出会い、ペコペコされたら「疎外感」を抱いて機嫌を損ねます。
「もう帰る!」とようやく到着したばかりの媼や侍女に言い放って帰宅。


 求婚してきた貴族のひとりが、宝物を手に入れようとして事故で落命したら、「私は自由に生きようとしているだけなのに、周りをみんな不幸にしてしまう……」と一瞬思い悩むのですが、それでも、生きかたを変えるわけではありません。
 贅沢な生活を受け入れながら、「私は本当はこんな生活じゃなくて、自然のなかで生きていきたいのに」と嘆く姫。
 「森ガール」かよ!


 いやいやもうあなたには「そういう暮らし」はできないと思うよ。というか、捨丸さんを見ればわかると思うけど、あの時代に「自然のなかで暮らす」っていうのは、アウトドアかインドアか、なんてレベルの選択じゃなくて、「飢え死にすることと隣り合わせ」だろうよ。
 僕を最も苛立たせたのは、捨丸に最後に会いに行ったときの「あなたとだったら、もっとちゃんと生きることができたかもしれない」というセリフと思わせぶりな態度。
 そして、「このまま逃げよう!」と妻子がすぐそばにいるにもかかわらず「駆け落ち」を即座に提案する捨丸。鬼畜だなお前……


 ああ、こういう、やたらと思わせぶりなんだけど、男が本気になったとたんに保身に走って自分をしっかり守る女、どこかで観たことがある……
 そうか、『グレート・ギャッツビー』のヒロイン、デイジーだ……

 
 姫は「不幸な籠の中の鳥」であるのと同時に「その美しさで、本人にはその自覚もないままに、周囲を暴走させ、破滅させていく魔物」なんですよ。
 姫はあんまり、悪いことはしていない。
 その場にいるだけで、他者に積極的に働きかけることはほとんどない。
 生きたいように生きようとし、やりたくないことはやらない、ただそれだけなのに。
 悪いのは、その「あまりに美しすぎる存在」をうまく取り扱うことができない側のほうなのに。


 それが「危険」だとわかっていても、あまりに魅力的なので、逃げられなくなってしまうんですよね、きっと。
 そういう「姫と、姫にとり憑かれた人間たちの悲喜劇」を、さらにその外側にいる「観客」たちは「物語」として無責任に楽しんでいる。

 
「姫」とは何か、二つ目の僕の答え。
「姫」は、宮崎駿監督(あるいは、高畑勲監督)のことなのではないか。
「美しいもの」のために、あらゆる献身を要求し、多くの人を犠牲にしている天才。


押井守さんが、著書『立喰師、かく語りき。』のなかで、こんな辛辣な宮崎駿評を書いておられます。

押井:この間の『ハウルの動く城』だって、「CG使ってないんだ」って宮さん(宮崎監督)は言い張ってたけど、現場の人間は使いまくってるよ。あの人が知らないだけだよ。まるきり裸の王様じゃないか。それだったら、自分の手で(CGを)やったほうがよっぽどましだ。いや、わかりやすくて面白いから、つい、宮さんを例に出しちゃうんだけどさ(笑)。


 いかに中性洗剤使うのやめたって言ったところで、結局は同じことじゃない。宮さん、別荘に行くとペーパータオルを使ってるんだよ。そのペーパータオルを作るために、どれだけ石油燃やしてると思ってるんだ。やることなすこと、言ってることとやってることが違うだろう。そこは便利にできてるんだよね。自分の言ったことを信じられるってシステムになってるんだもん。

 僕は物語後半の「姫」の「自然派」っぷりに、この「便利にできてる宮崎駿」と似たものを感じたんですよ。
 「姫」は「都の貴族の世界のシステム」を嫌い抜いているけれども、外部からみれば、「姫」は、そのシステムに組み込まれてしまっているのです。
 「姫」は「自分らしく生きる」「やりたいことをやる」つもりなのだけれども、その惹きつける力があまりにも強すぎて、周囲の人は、影響を受けずにはいられない。
 世の中には、そんなふうに「他人の生気を吸収して燃えあがる、恒星のような人」がいるんですよね。
 ときには「多くの犠牲を強いていることに反省や後悔をしている」ような言葉を発するけれども、それは一時の「ガス抜き」みたいなもので、創作欲に抗えず、またすぐに大勢の人を巻き込んで「新作」をつくる。

 
 この『かぐや姫の物語』は、宮崎駿監督の『風立ちぬ』と対になっている映画なんですよ。
 堀越二郎の視点から、「美しいもの=飛行機」を見たのが『風立ちぬ』なら、「飛行機の側から、堀越二郎を見た映画」が『かぐや姫の物語』なのではないかと。


 高畑勲監督は、もしかしたら、そのキャリアの晩年に「物語をつくる『スタジオジブリ』という美しいシステム」の暗黒面を描き遺そうとしたのかもしれません。
 宮崎駿高畑勲時代のスタジオジブリが、時間の経過とともに、「美化」「純化」されることを見越して。
 この『かぐや姫の物語』という、とてつもなく美しく、そして残酷な「物語」をつくることができたのは、宮崎駿と並び立つことができた唯一の存在、高畑勲という人だけだったのではないかと思うのです。

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