琥珀色の戯言

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【読書感想】『風立ちぬ』を語る〜宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来〜 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
長編映画からの引退を宣言した、宮崎駿最後の作品『風立ちぬ』。初めて作られた大人向けアニメをめぐり、賛否両論巻き起こっている。アニメ会社ガイナックス創設者、オタク評論家で知られる岡田斗司夫は、本作品をどう読み解いたか――。その他ジブリ作品も交え、宮崎駿という人間、アニメ作家としての巧みな技術力、今後のジブリの展望に迫る。


岡田斗司夫さんが語る『風立ちぬ』の観かた。
岡田さんは、これまでのジブリ作品と比較して、『風立ちぬ』が異質である点を、このように仰っています。

 特に最新作『風立ちぬ』において、人間「宮崎駿」という視点は強力です。というのも『風立ちぬ』は、宮崎駿が初めて自分の作りたいテーマに真正面から向き合い、作った作品だからです。ある種、私小説的な要素を持った作品ともいえるでしょう。
 一度、宮崎駿像を交えた視点で作品を見てしまうと、もうどうしても、そういう見方でしか楽しめなくなるほどです。


 岡田さんの『風立ちぬ』への評価は、以下のとおりです。

風立ちぬ』は、宮崎駿監督の最高傑作です。正直、ここまでの作品に仕上げてきたのは、僕にとってまったく予想外でした。
 しかし、
「音も映像もすばらしい! 主人公たちの愛に涙しました!」
 ……なんてことが理由ではありません。
 いや、確かに音も映像もすばらしいです。けれども僕が感動したのは、主人公たちのいびつな愛情だったのです。
 この映画は、薄情者の恋愛の話です。

 岡田さんは、このあと、この映画の主人公・堀越二郎の「薄情っぷり」を、徹底的に検証していきます。読んでいて、イヤになってしまうくらいに。
宮崎駿ほどの監督が、作中に意味のないシーンを入れるはずがない」という岡田さんの言葉は、岡田さん自身もガイナックスで数々の作品をつくってきているだけに、説得力があるんですよね。


 しかもその堀越二郎という天才技術者と、天才アニメ監督、宮崎駿の「薄情っぷり」をシンクロさせていくのです。
 「美しい飛行機をつくること」にしか興味がない技術者と「美しいアニメ映画をつくること」にしか興味がないアニメ監督。
 岡田さんの立場、人脈なら、ジブリの「内情」についてもかなり知っているはずです。
 その岡田さんが、こんなふうに仰っています。

 宮崎駿宮崎吾朗の親子関係は並ではありません。
 宮崎吾朗は母親、つまり宮崎駿監督の奥さんから、
「あなたはお父さんのようになってはいけない、あの人は何ひとつ人間らしいこと、父親らしいことをあなたにしてくれなかった。あなたはそんな人間、アニメ屋になってはいけない」
 と言われ続けて育ちました。
 だから、宮崎吾朗も、
「僕は子どもの頃から何ひとつ親らしいことを、宮崎駿さんにしてもらったことはないです」
 とブログに書いています。
 宮崎駿監督は、ずっと家に帰らずにアニメを作り続けていた人間です。だから、彼が家族から赦されることはないかもしれません。でも、映画の中で、本来ならありえない赦しが主人公に与えられると、僕らはなぜか感動してしまいます。
 何も僕は、「宮崎駿はこんなにひどい人間だ」と言いたいわけではありません。僕らだって何かを成し遂げようとしたとき、絶対に犠牲を払っているはずです。「夢を追いかけよう」「家族を食わせよう」、そんな当たり前の望みを叶えるために誰かを犠牲にしなければならないのが、この世界のあり方なんです。
 あらゆる人の営みは、犠牲の上に成立しています。だからこそ、せめて綺麗な夢を見せたい。それが、『風立ちぬ』のラストシーンで宮崎駿監督が伝えようとしていることではないでしょうか。

 この宮崎駿さん、吾朗さんの親子関係については、この新書のなかの別項で、『ゲド戦記』の顛末を絡めて書かれているのですが、読んでいて、これまで「才能もあんまりなさそうなのに、宮崎駿の息子だからジブリで監督をやれているだけ」だと思っていた宮崎吾朗という人に、なんだかすごく親しみがわいてきたんですよね。
 これ、吾朗さんのほうが、よっぽど「まともな人間」だなあ、って。
 でも、常識的な人間だからこそ、破ることができない壁みたいなのもある。
 そして、「宮崎駿の呪縛」もある。
「お父さんのようになってはいけない」と、お母さんに言われながら育った息子。
 でも、その父親は、世間的には「偉人」なのです。
 しかも、引退作では、こんなふうに「自己の救済のセルフプロデュース」までやってしまった。
 世間からすれば「すばらしい作品をつくるためなら、犠牲もしょうがない」のだけれども、家族からすれば、たまったものじゃなかったはずです。
 ブログで、父親のことを「宮崎駿さん」って呼んでいるだけでも、吾朗さんの複雑な心境がうかがえます。
 ただ、宮崎駿監督も、家族に対しては「罪悪感」も抱えていたんじゃないかな、とは思うんですよ。
 それでも、目の前に「つくるべき作品」があると、それに全力で立ち向かわずにはいられなかった。
 比較対象が矮小で申し訳ないのですが「明日はもう飲みに行かない」と毎晩言っていたのに、翌日になると「つい」飲みに出かけていた父親のことを、僕は思い出してしまいました。

「悪いな」と思っているつもりでも、自分のスタイルみたいなものを変えるのは、けっこう難しいものではあるのでしょう。


 『コクリコ坂から』は、なかなかの佳作だと思いますので、宮崎吾朗さんには、これからも頑張ってもらいたいなあ。


 このほかにも名作『ルパン三世 カリオストロの城』の冒頭のシーンの技術的な解説(これはまさに岡田さんならではのすごい内容だと思います)や、『借りぐらしのアリエッティ』に込められた、ジブリの若手たちの宮崎駿監督への「複雑な想い」など、読みどころ満載です。
 そんなに暑くない新書なのですが、「アニメの観かたが、ちょっと変わる解説」が読めます。


カリオストロの城』の解説の一部。

 オープニングでは、本当にいろいろな天候が描かれています。朝焼け、夕焼け、夜、夏の暑い日、そして雨。
 何のためにこれほど天候を変えているのかというと、ルパンたちの旅が実は何年も何年も続いていて、そしてこれからもずっと続くであろうということを見せるためです、でも、それをセリフで言いたくはない。
 下手なアニメ監督だったら、「俺たちもどれくらい旅してきた? 次元」といったセリフを絶対に入れているところでしょう。それを宮崎駿監督は、手抜きカットの連続で見せているのです。これがすごい、このカットで車の動きは凝っていますが、雨を表す線はたんなる繰り返しで、上手に手抜きしています。
 雨の描写を入れることで、2人の旅が決して順調なものでもないし、楽しいことばかりでもない。寂しいときもあれば、寒いときもあるということが暗示されています。
 そして、バックには情感たっぷりの歌が流れる。これによって、僕らは理屈ではなくて、だんだんと心の深層で、この2人の旅がどういうものかもわかってくるのです。

 実際にあの場面を観た人は、こういうふうな分析などしなくても、「2人の旅がどういうものか」を察することができたはずです。
「背景の説明」であることを、とくに意識することもなく。 
 それって、あらためて考えてみると、けっこうすごいことですよね。
 
 ちなみに、岡田さんが少し前に上梓された『遺言』という本では、もっと詳しい「アニメの技術論」が書かれているので、この本で興味を持たれた方はぜひ。


 本当に「面白い」し、内容にも説得力がある新書なんですよ。
 ただ、個人的には「これって、どこまでが事実で、どこまでが岡田さんの想像なのだろう?」って、不安になるところもありました。
 あまりにも岡田さんの解説のキレが良すぎて、かえって「そこまで決めつけていいのだろうか……」とか、考えてしまったりもして。
 宮崎監督父子の関係についても、そういうのって、結局、当事者にしか(あるいは、当事者にさえも)わからないものなのでは、という気もしますし。

 宮崎吾朗宮崎駿という天才の親を持つことで苦悩していますが、その悩みには僕らにも無関係ではありません。僕自身はあまりそう思わないのですが、「面白いことは、もう全部上の世代にやられてしまった気がします」と、若い人によく言われます。
 宮崎駿のようにアニメで一時代を築くような、そんなワクワクする遊び場ははたして自分たちに残されているのだろうか。
 自分たちには、頭のいい人がすでにインターネット上に立ち上げたサービスの上で遊ぶことしか残されていないのではないだろうか。僕らの頭の上には、宮崎駿みたいなすごい奴がいて、自分たちが何をやってもしょせんパクリになってしまう。一からものを作り上げるようなことはもう無理で、今後のものづくりは結局何かと何かを組み合わせるか、どこかからうまくパクってくるしかないんじゃないか――。
 それが、若いクリエイターが感じている閉塞感なのかもしれません。
「俺たちはみんな、宮崎吾朗なんじゃないか」と。

宮崎吾朗には才能がない」と切り捨ててしまえるのは「傍観者の特権」なのです。
 実際に何かをつくろうとしている人は、宮崎駿監督という壁のあまりの高さと、宮崎吾朗さんの苦悩を考えずにはいられないのだろうなあ。


遺言

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僕の映画『風立ちぬ』の感想はこちらです。

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