琥珀色の戯言

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【読書感想】聖書を読む ☆☆☆☆


聖書を読む

聖書を読む

内容紹介
裁きの神か、赦しのイエスか。異色の対談集


アダムとエバの創世記、イエスの弟子たちを描く使徒言行録、終末を預言する黙示録。キリスト教徒の二人が聖書を精読し、語り合った!


中村うさぎさんの入院、ICUでの治療などが伝えられていた時期に、書店でみかけて購入。
(いまは回復し、ついに退院されたみたいです。とりあえずよかった)


中村うさぎさんと佐藤優さんって、ともに同志社大学の卒業生なんですね。
中村さんは1958年生まれで、文学部英文学科卒業。
佐藤さんは1960年生まれで、大学院神学研究科修了。


ともにキリスト教徒であるこのふたりが(ただし、佐藤さんはカルヴァン派で、中村さんはバプテスト派だそうです)、聖書を読みながら、その内容について語り合うという内容なのですが、読み始めるまでは、神学に対して造詣の深い佐藤さんが解説役で、中村さんがそれを「ふむふむ」と頷きながら聴いていく、という感じだと思っていたんですよ。
でも、実際に読み始めてみると、中村さんは率直に聖書の記述への違和感を語っているし、それに対して、佐藤さんは、「神学を学びながら、科学文明と政治とも付き合ってきた人間」としての立場を表明して、中村さんに気圧されながらも誠実に語っている、という印象です。


この本を読みながら「ふたりの議論はすごく面白いのだけれども、読者に最低限の『(旧約)聖書への予備知識』があることを前提になっているな」と感じていたのです。
後半に収録されている「ヨハネの黙示録を読む」の項などでは、聖書の物語を紹介しながらの対談なのですが、半分以上を占めている「創世記を読む」では、「アダムとエバ」とか「バベルの塔」とか「カインとアベル」「ノアの方舟」などの物語を読者が「知っている」ことが大前提です。
もちろん、研究者レベルで理解している必要はないのですが、「1から聖書の内容を解説している本」ではないのです。
「ある程度、予備知識は持っているのだけれど、この非科学的な物語が、なぜ人類の歴史にここまで大きな影響を与え続けているのか?」に興味がある人にとっては、かなり興味深い内容ではあります。


読み終わったあとに気付いたのですが、このおふたりの「聖書」シリーズって、第一弾の『聖書を語る』というのが、2011年に出ているんですよね。
こちらは未読で内容も確認していないのですが、本来はそちらを先に読んだほうがよかったのかもしれません。


僕がこの本を読みながら考えたのは「信仰とは何か」ということでした。

中村うさぎそれにしても、男女が創造されたあと、あらためてアダムが造られエバが造られたら、どこかヘンだなと編纂した人は思わなかったわけ?


佐藤優「創世記」を編集した編集者は、その双方が真実だと思ったから編集したわけですよ。矛盾には気づいているけれども、それでも両方の文書を一緒にしてまとめることに意味を見出した。というのは、人間の理性には限界があるものであって、理性に反しているからこそ、まさに神の啓示なんだと。


中村:詭弁に聞こえるけどな。


佐藤:でも、「不合理ゆえに我信ず」ですよ。合理的なものならば信ずるまでもない。信じるのは不合理だからこそなんだという考え方。


中村:それは結局、他の宗教はともかくキリスト教において、信仰とはどんだけ不合理を信じるかということにもなるわけか。イエスの復活だってそうだもんね。


佐藤:そう。不合理であるから信仰であるというのが、キリスト教の中に根強く流れている考え方なんです。なのに、キリスト教は日本で大いなる勘違いをされている。十六世紀にカトリシズムが入ってきたけれど、一世紀もたたないうちに弾圧されれてしまった。だから、本格的にキリスト教が入ってきたのは明治以降でしょ。このとき文明開化と一緒に入ってきて布教や啓蒙活動が行われたために、キリスト教はいろんな合理的な知識を植えつけていくものであると誤解されました。でもね、そういうのはキリスト教のごく一部のグループでしかなかった。大勢は反知性主義で非合理なことを信じさせるというものだったんですよ。


中村:なんでそんなものがいまだに長持ちしてるんだろう。


佐藤:それは人間が究極的には非合理な存在だからでしょう。人間の本質を非合理性に置くキリスト教は、宗教としてはいいポイントを突いているわけですよ。むしろ、合理性にポイントを置いて説得するのは新興宗教であり、魔術の発想なんです。


アメリカでは、「キリスト教に反する」として進化論を教えない、という学校があります。
そういう話を耳にすると「合理的な発想ができなくなってしまった、狂信的な人々」をイメージしがちなのですが、「信仰というのは合理的とか非合理的とかで決まるのではなく、とにかく神というものを信じ、従うこと」なのだということなんですね。
「なぜ、そんなに非合理的なことを信じるのか?」という問いそのものが、意味をなさないのです。
むしろ、「非合理的だからこそ、信じるしかない」。
まあ、それはそれで、ひとつの理屈ではあるんですよね。
だから「彼らは愚かだから、そんなに宗教に振り回されるのだ」という偏見を持つばかりでは、問題は解決されないのでしょう。


それにしても、この本を読んでいると、「神」っていうのは、なんと不公平で理不尽な存在なんだろう……と驚かされてしまいます。
現代の典型的無宗教日本人である僕からすれば、男女差別はする、兄弟の片方を贔屓して、殺し合いの原因をつくる、信者をわざとひどい目にあわせて、自分への信仰心を試そうとする、気に入らない人間たちは、洪水で根絶やしに……
なんかもう、DV男みたいなんですよ本当に。
「人間のために犠牲になった、イエス=キリスト」の美しい物語の一方で、旧約聖書の神というのは、「なんなんだこれは……」という存在です。
でも、そういう相手だからこそ、「信仰を貫く」ことが試される、という面もあるのです。


この本のなかで、佐藤さんがこんな話を披露しています。

中村:中世の異端審問官は魔女狩りで、悪魔に憑かれた人を処刑してますよね。


佐藤:確かに中世でも魔女狩りはときどき起きました。現代でもメディアバッシングがときどき起きるのを同じようなものです。ただし、異端審問官が大活躍するのは十六世紀以降、ほとんどが近世になってからです。カトリックプロテスタントの対立の中で魔女狩りも激しくなる。審問をするときにも、中世においては魔女には弁護人が付いた。それも信徒が弁護人として付いて十分な弁護を尽くすから、中世は魔女裁判でも相当数、無罪になっているんです。


中村:そうなんだ。公平じゃないですか。


佐藤:公平ですよ。当時は訴訟を提起した場合、もし負けたら自分が同じ罰を食らいますからね。それに、基本的に魔女裁判は魔女か魔女じゃないかを判断するだけ、魔女だとなったら世俗裁判所に引き渡す。


中村:宗教裁判ではなく、普通の裁判所に。


佐藤:そこで刑を決めるわけですが、魔女というのは死刑ではなく、だいたい追放だった。


中村:それで森とかに追いやられて、「森の魔女」という概念が生まれるわけですね。


佐藤:そうそう。だから森に追放というかんじ。その代わり、自力において、あるいは魔女たち同士が協力して土地を開墾し、自給自足の生活をする分には、誰も妨害しない。火あぶりなんて激しい刑を科したのは、ほんとに中世末期からのことなんですよね。


ニンテンドー3DSの『レイトン教授 VS 逆転裁判』は、荒唐無稽な話じゃなかったんだな!などと、これを読んで感心してしまいました。
キリスト教の歴史がずっと「激しい時代」というわけでもなかったのです。
むしろ、宗教改革絶対王政による国家間の競り合いなどの影響で、いま多くの人がイメージするような「魔女裁判」が行われるようになっていったんですね。


そして、「宗教」というのは、現代にも大きな影響を与え続けています。

佐藤:第二次世界大戦中にB29で日本は爆撃されたでしょう。あれは無差別爆撃ですから国際法違反です。したがって、無差別爆撃によって無辜の住民を殺した人間は、軍法会議にかけて処刑することも国際法上、合法なんですね。ところが、無差別爆撃をした米兵を処刑した日本人で、戦後、戦犯にされた人がたくさんいる。銃殺刑や絞首刑にした人は戦犯に問われなかったけれども、斬首刑にした日本の軍人は戦犯になった。


中村:へえ。クビを切っちゃいけないんだね。


佐藤:斬首は捕虜虐待になるんですね。この違いが日本人の皮膚感覚では理解しづらい。ユダヤ・キリスト教の世界やイスラムの世界では、首を切られ落っこちちゃうと、最後の日に復活したときに首がつながらないのでは、という恐怖があるからですよ。ちなみに、ヨーロッパやユダヤ世界でアウシュビッツが恐ろしいイメージをもって迎えられることには特別の理由があります。


中村:そりゃあ殺されることへの恐怖でしょ?


佐藤:単に殺されるからでなく、焼却炉の入れられて灰にされてしまうと復活できなくなる、という恐れなんです。ことほど左様に、刷り込みというのは強烈に作用する。


中村:じゃ、火葬も嫌がられるの?


佐藤:火葬もダメ。とくに火葬に厳しいのがイスラムです。イスラム教では、ゲヘナ(地獄)の火に送られるということで、考えられ得る中でもっとも恐ろしいのが火葬なんですよ。日本女性の場合、改宗しないでもムスリムの男性と結婚できますけど、何も知らずに亡くなったご主人を火葬にしようとして、ご主人の周囲のムスリムたちと一悶着となることも少なくありません。

「死んでしまえば、同じこと」だと、自分や身の周りの人の死を想像しがたい状況のときには考えてしまうことも多いけれど、特定の信教を持たない人が多いはずの日本でも、東日本大震災の際には「遺体」を探し、きちんと火葬することを多くの遺族が希望しました。
宗教がより日常と密接に関連している国では、よりいっそうの「厳密さ」が求められているのです。


それにしても、おふたりの独自の「言葉」による聖書の読解には、なかなか強烈なものがあります。

佐藤:そういえば、パウロというのは、現代に引きつけて言うと池田大作名誉会長に似ていますよね。日蓮正宗パリサイ派と見れば、その一派に属していたのに、ある段階において、そこと喧嘩した。徹底した自己批判を要求されたけれど、「けっ、何が大石寺だ、何が宗門だ」と言って飛び出してきて、いまは在家集団で別の団体になった。これからは大衆を惹きつけたほうが勝ちだと、圧倒的な大衆を味方につけて日本中あちこちぐるぐる回り、世界的な規模で拡大することによって、元の寺の連中を孤立させていく。


中村:池田大作だったのか!


佐藤:信じている人たちの中ではカリスマ的な力があるんだけど、外から見ていると「何、このおっさん」というかんじになる。それでユダヤ教キリスト教の対立は、日蓮正宗創価学会の対立と同じ。こういうふうに見ると、非常に似ていますね。

「歴史は繰り返す」というか、人間のやることは、聖書の時代も現代も、基本的には変わらないのだな、と考えさせられる話です。
まあ、僕もあれこれ語れるほど、創価学会に詳しいわけでもないんですけどね。


この本を読むと、「聖書」というある意味、隙だらけの本が、隙だらけだからこそ、多くの人にさまざまに解釈され、人類に影響を与えてきたのだということがわかるような気がします。
聖書って、さまざまな物語のルーツになってもいますし、一度読んでみても損はしないと思いますよ。


聖書を語る―宗教は震災後の日本を救えるか

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