琥珀色の戯言

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【読書感想】勝負心 ☆☆☆☆


勝負心 (文春新書 950)

勝負心 (文春新書 950)

内容(「BOOK」データベースより)
弱冠二十歳で棋界最高位「竜王」を獲得、五連覇で初代「永世竜王」、そして竜王戦九連覇を果たした著者が、「ゲンは担がない、将棋に運やツキは関係ない、すべて実力」という、徹底的にドライな勝負の極意を語る。

僕は『情熱大陸』で採り上げられた、2008年の竜王戦のことをよく覚えています。
渡辺明竜王羽生善治名人の対局となった、このタイトル戦。
もし羽生さんが勝てば、羽生さんは将棋界の主要7大タイトルすべての「永世号」を手にし、渡辺さんが勝てば、史上はじめての「永世竜王」となるという状況で行われていました。
蓋をあけてみれば、なんと羽生さんが3連勝。しかし、そこから渡辺さんが4連勝し、大逆転で竜王の座を死守したのです。


この新書のなかで、渡辺さんは、何度も羽生善治さんの名前を挙げておられます。
渡辺さんは1984年生まれで、羽生さんは1970年生まれ。ちょうど干支ひとまわりくらい違うのですが、現在(2013年)の時点では、「羽生世代」がまだまだ将棋界の中軸に座っていて、若手でタイトルを保持し、羽生世代に対抗しているのは、渡辺さんくらい、という状況が続いています。

「私にとって、羽生さんは『生きる教材』」
 NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組に出演し、競馬の福永祐一騎手と対談させていただいた。福永騎手に「渡辺さんにとって羽生さんはどんな人ですか」と聞かれ、私はこう答えたのである。
 羽生さんについては、過去の取材でもよく聞かれたのだが、「生きる教材」と答えたのは初めてかもしれない。

 羽生将棋の特徴について尋ねられることがあるが、いつも返答に困ってしまう。なぜならこれといった特徴がないからだ。
 特徴と言えば、「強い」ということだが、それでは将棋を分析したことにはならない。
「特徴がない」というのは、「個性がない」ということではない。「弱点がない」ということだ。

 この新書を読んでいると、渡辺さんは、本当に羽生さんのことを、というか、羽生さんのことだけを強く意識しているのではないか、と思えてくるのです。
 すべてにおいて合理的かつ客観的に自分も周囲も評価しようとしている渡辺さんにとって、現時点では、羽生さんが唯一の「目標」であり「ライバル」なのでしょう。
 その渡辺さんの趣味が、不確定要素満載の競馬で、土日は仕事がなければ一日中家で馬券を買っている(年間2000レースは買っている、と仰っています)というのも、すごく興味深い話ではあります。
 フランスにタイトル戦の対局で行ったときにも、対局前日にフランスの競馬場に「出撃」されたそうですし。
 渡辺さんなら、ものすごく馬券当たってそうだけど、実際はどうなのだろうか……

 調子の良し悪しを聞かれることも、私は好きではない。
 タイトル戦が開幕する直前には、主催紙や専門紙からインタビューの依頼を受ける。すると必ずといっていいほど「最近の調子はいかがですか?」と聞かれるのだが、いつも返答に困ってしまう。
 以前は、何とか繕って形になるようにコメントしていたが、最近は面倒なので、「『調子』という概念は、私にはありません。すべて実力です」と答えるようにしている。
「そもそも調子って何ですか?」と逆に質問してみたくもなる。
 単に勝ち星が集まれば、「調子が良い」で、負け続ければ、「調子が悪い」ということであれば、「調子」という言葉をわざわざ使う必要もないだろう。

 私は、理にかなっていないことが好きではない。


(中略)


 将棋界には「米長哲学」なる一種の教えがある。
 たとえば「自分にとっては消化試合でも、相手にとって重要な勝負こそ全力を尽くすべき」というのが米長永世棋聖の持論だ。そういう勝負で頑張った棋士にこそ、勝利の女神は微笑むのだ、と。
 米長哲学は、将棋の美学を示すものとして、将棋界で長きにわたって大きな影響を及ぼしてきた。実際に多くの棋士がその教えを信じていると聞く。
 しかし、私は以前から、米長哲学には素直にうなづけなかった。なぜなら、あまりにも非論理的な内容だからである。
 確かに、何となく格好良くは聞こえる。しかし、理論に基づいた考えかたを好む私には、抽象的な表現に思えてならないのだ。
 先の話にしても、「大事な将棋だけでなく、消化試合のような自分にとってあまり重要でない将棋であっても頑張れ」というのなら理解できる。しかし、自分にとってあまり重要でない将棋「こそ」頑張れ、というのである。
 私自身は、どう考えても、自分にとって大事な対局こそ頑張るべきだとしか思えない。

 ああ、渡辺さんというのは、本当に「ウソがつけない人」なんだなあ、と、この部分を読みながら思いました。
 大先輩の「金言」に、こうして文春新書で反論するというのは、諸先輩方から反感を買う可能性もあるでしょうし、勇気がいるはずです。
 そもそも、「米長哲学」を信奉している人だって、大部分は「消化試合でも気を抜かないようにしよう」という程度に運用しているはずではないかと。
 それでも、渡辺さんは、その「非論理性」「建前論的なところ」が許せない。
 それは「現代的」でもあり、「身も蓋もない感じ」でもあり。 


 この新書を読んでいると、「将棋の指しかた、勝負を決める時期の変化」について、考えずにはいられません。

 私の勝率は、ここ数年、6〜7割を推移している。だからといって、次の将棋も、6〜7割で勝てるという保証はない。どんなに強い棋士でも3割は負ける。それがトッププロ同士の勝負の世界だ。
 対局は、盤の前に座ってから相手との戦いが始まるわけだが、本当の勝負は、実は、対局前からすでに始まっている。先にも述べたように、対局前の事前準備が極めて重要なのである。
 対戦相手が最近指した将棋を調べて戦型を予想し、それにどう対応するかを考える。
 もし、事前準備を入念にやって、それで負けたら、どうしようもない。それが、ベストを尽くして臨んだ結果であれば、後悔もしない。
 しかし、事前準備を疎かにしたために、勝てる将棋を落とすことは、私には耐えがたい。たとえ負けたとしても、後悔だけはしたくない。
 とはいえ、準備段階で失敗することもある。
 近年の将棋は、研究が進み、序盤、中盤どころか、終盤の入口まで同一の手で進むことも珍しくはない。それだけ、事前準備、戦型選択が重要になっている。
 最近の私も、見せ場すらつくれずに負けるときがあるが、そういう場合は、研究段階ですでに敗れていたということである。

 僕が子どもの頃、NHKの番組などで観ていたプロの将棋は、序盤はある程度決まった型どおりにお互いが指していき、中盤くらいから「勝負」がはじまる、という感じでした。
 ところが、現在は、終盤の「読み」が進化してきたため(とくにコンピュータ将棋の場合は、ほとんど終盤でミスをすることがありません)、いかに序盤から中盤で、リードしておくかが大事になってきてるんですよね。
 勝負のポイントとなる時期が、どんどん前倒しになってきているのです。
 ある意味「実際の対局がはじまる前に、勝負がついている」ことさえある。
 まあ、人間同士の対局の場合には「先が見えているつもりでも、思わぬミスをして負けてしまうことがある」のも事実なのですが。


 渡辺さんの場合、「将棋は常に実力で勝敗が決まるのだ」という信念を持って対局に臨んでおられるのです。
 それは、結果の責任は、すべて自分で取る、ということなんですよね。
 対局前日に競馬場に行けば「そんなことやってるからだ」と叩かれる可能性はあります。
 家でじっとしていれば、それは、避けられるリスクなのです。
 それでも、渡辺さんは「言い訳をするために、外見をとりつくろっておくこと」を潔しとしない。
 やりたいことをやるし、結果には責任を取る。負けたのは不真面目だったからではなく、弱いから。
 ある意味、ものすごく勝負に対して真摯であるとも言えますよね。
 
 
 この新書で、渡辺さんは「将棋のことと、競馬のこと」だけを書いておられます。
 「これをビジネスにあてはめると……」みたいな話をしないのは、渡辺さんの誠実さでもあり、商売下手なところでもあるのでしょう。
 将棋界の第一人者として、スポークスマンの役割も果たさざるをえない羽生さんの本は、「将棋の話を、一般論に広げている」ことが多いのです。
 逆にいえば、羽生さんという「外部に向けて発信し続けている棋士」がいるからこそ、渡辺さんは、将棋に専念できてもいるのです。
 そういう意味では、渡辺さんと羽生さんのあいだの「壁」は、将棋以外の点においては、まだまだ分厚いのではないか、とも感じました。
 

 ちなみに、渡辺さん、森内名人に敗れ、竜王位はひとまず失ってしまったみたいです。
参考:将棋竜王戦、森内名人が奪還 渡辺の10連覇阻む(朝日新聞デジタル)


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