琥珀色の戯言

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【読書感想】半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義

内容(「BOOK」データベースより)
宮崎駿監督が「かねてからお目にかかりたかった」という昭和の語り部・半藤一利さん。「漱石好き」という共通点からふたりはたちまち意気投合。宮崎作品最新作『風立ちぬ』で描かれる昭和史をたどりつつ、持たざる国・日本の行く末を思料する―7時間余にわたってくり広げられた貴重な対談を完全収録した、オリジナル作品。


「腰抜け愛国談義」といいうタイトルからは、けっこうイデオロギーというか、両者の政治的な主張みたいなものが前面に出ている対談を想像したのですが、読んでみると、2人の「昭和を生き抜いてきた男」が、あの時代のことを、溌剌と語り合う、という、ほどよく力が抜けた対談でした。
おふたりともお互いを敬愛しており、夏目漱石好きで、昔の東京をよく知っているという共通点もあり、雰囲気の良さが伝わってくるのです。
まあ、僕は東京にはほとんど縁がないので、思い出を共有することはできず、「ふうん、そんな感じだったのか」と二人の話に聞き耳を立てるくらいしかできないんですけどね。


とはいえ、『風立ちぬ』を語るには、どうしても「あの戦争」の話は、避けて通れません。

半藤一利つくづく思うのですが、この国は守れない国なんです。明治以来日本人はこの国を守るためにはどうすればいいかということを考えた。だれもがすぐ気づいたのは、「守れない」ということだったと思います。なにしろ海岸線が長い。世界で六番目に長い。アメリカよりもオーストラリアよりも長いんです。しかも真ん中に高い山脈がダーッと背骨のゆに通っていて、国民のほとんどが海岸沿いの平地に暮らしている。ですから、敵からの攻撃にそなえて人間を守るためにはものすごい数の軍隊が必要となるんです。北海道に敵が上陸したとき、これと戦うために九州から飛んでいく、というのでは間に合いませんからね。要するに防御はできない。ならばこそ、この国を守るためには攻撃だ、ということになったんですね。
 この国では、「攻撃こそ最大の防御」という言葉がずいぶん長い間支配的でした。まあ、現在もそう思っている人はたくさんいますがね。ところが攻撃こそ最大の防御という考え方は、「自衛」という名の侵略主義に結びつくんですよ。近代日本の最大の悩みは、まずそれがあったと思います。
 もう一つは資源がないってことです。「持たざる国」なんです。だから補給が続かない。守るために外に出ていけば、おのずから補給しなくてはなりませんが、資源がないから補給は容易いことではない。矛盾する大問題を抱えたまま、近代日本はスタートし、「攻撃こそ最大の防御」で外へ外へと出て行った。軍人さんだろうが、インテリだろうが、日本の行く道は侵略主義に通じていると、これまただれもがほんとうは気づいていたはずなんです。ところが侵略とは思いたくないから「自衛である」という体裁をつくってそう思い込もうとした。ほんとのことをいうと、最初からお手上げだったんですよ。そして、戦争に負けてからこっち、何十年ものあいだにこの長い海岸線に沿って原発をどんどんおっ建てた。


宮崎駿なにしろ福島第一原発ふくめ五十四基もあるんですから、もうどうにもなりません。

原発の話に関しては、なかなか難しいところもあって、こんなに原発をつくらざるをえなかったのも、特定の集団の利権とともに、「日本の資源の少なさ」が理由でもあるのですけどね。
この「自衛」と「侵略」についての半藤さんの話は、読んでいて、なるほどなあ、と。
そもそも、核ミサイルで直接相手国を直接攻撃できる時代にあっては「先制攻撃を行わない自衛」というのが可能なのかどうか……
「自衛のためには、やられる前にやるしかない」というのも、ひとつの世界の現実ではあるのです。
太平洋戦争は「侵略戦争」だった。
しかしながら、当時の日本人にとっては「ああやって他国を侵略する以外に、生き延びる道を思いつかなかった」のかもしれません。
石油だけをとっても、アメリカに禁輸措置をとられれば、どこかから調達する以外は、飢え死にを待つしかなかったのだから。
アメリカに詫びを入れて、禁輸を解除してもらう、ということが、可能だったのでしょうか。


ああ、「戦争の話は、この本の『本筋』ではない」と言いながら、けっこう長々と書いてしまいました。


宮崎駿監督は、『風立ちぬ』の主人公、堀越二郎について、こんなふうに述べています

宮崎:主人公の堀越二郎は、時代の生臭さをニュースで聞いて知ってはいる。しかし、名古屋にいる一飛行機技師にとって、それは肉眼で見たものではない。彼は毎日設計事務所に行って、まじめに一生懸命仕事をしている、と。そういうふうに限定したんです。世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもってない日本人。つまりに、自分の親父です。あのミルクホールの給仕の娘がかわいいとか、今度封切りされた映画が面白いとかって言っていた人たちが生きていた世界。


半藤:当時日本人のほとんどは、そうでしたよ。それが、持たざる国、日本の昭和なんですよ。民草は食うのに一生懸命。


宮崎:まさにほとんどの人が刹那的でした。それで、そういうふうに描くしかないと思ったんです。ドキュメントをやってくださる方はいっぱいいますから、それはお任せしておいて、ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かなきゃいけないと思いました。


この対談では、半藤さん、宮〓監督の「父親」の話がたくさん出てきます。
この部分を読むと「戦争の時代として語られる『昭和』と、その時代を生きた自分の親世代」への宮〓監督の愛着がうかがわれるんですよね。
あれは、けっして「悪いことばかりの時代じゃなかったし、悪い人が大勢いたわけでもないのだ」と。
「昭和」の、そして「親父」の、実際の姿を、少しでも遺したい、というのが『風立ちぬ』での宮〓監督の願いだったのでしょう。
そして、多くの「ふつうの人」は、時代の流れのなかで、それぞれの目標や喜びを見いだしながら、日常を送っていくしかない。
それは、あの時代も、いまも変わりないのです。
堀越二郎は、あの時代に生まれたから、戦闘機を設計したけれど、いまの時代に生まれていれば、優秀な民間機を設計していたのかもしれません。


人間って、自分の力だけでは、どうしようもないことに影響されて生きていかざるをえない面があります。

宮崎:東京大空襲に十四歳で遭われたときに、ほんとに地獄のような惨憺たる景色を見てしまった。でも半藤さんの東京大空襲は、それだけではありませんでした。命からがら避難した中川で、小舟の上から落ちて、溺れ死ぬ寸前に別の舟に乗っていた人に助け上げられた。


半藤:なんとか浮き上がって水面に顔を出したとたん、襟首をつかまれて強く引かれました。つづいて太い腕がヨイショと私を軽々と舟に引きあげてくれました。みんなが自分の命を守ることだけで精一杯でしたから、あのときそういう親切に出会えたのは奇跡的でしたね。


宮崎:そして、その翌朝に、見ず知らずの人が半藤少年に靴を一足渡してくれたんですよね。


半藤:これまたよくごぞんじで(笑)。履いていたゴム長靴は、中川で溺れたときに両方脱げて失くしてしまったんです。焼け跡は瓦礫や針金、金属の破片といったものが散乱していてもう無茶苦茶な状態ですから、とても靴なしでは歩けません。もらったドタ靴のおかげで私は歩き出せたんです。


宮崎:あんな、想像もできないほどの酷い状況でも、舟の上に助け上げてくれた人がいた。ぼく、そのことが、半藤さんをつくっているんだと思います。


半藤:たしかにそれは一生忘れられませんよね。


宮崎:おなじ向島でも、堀辰雄関東大震災に遭って隅田川に飛び込んで、通りがかりの舟に泳ぎ寄ったけど舟も人がいっぱいで助けてもらえずに突き放された。そのあと「たっちゃん」という声がして、知人に助けられたそうです。彼のなかでは突き放されたことのほうが大きいのではないかなあ、と。

ああ、たしかに、こういう極限状態での体験って、大きかっただろうなあ、と思うのです。
半藤さんは「人の善意を信じられる」だろうし、堀辰雄さんは「ちょっと疑ってしまう」ようになったのかもしれません。
そもそも、関東大震災で、命を落としてしまった人もたくさんいたのです。
人間が自分の力でできることというのは、そんなにたくさんはないのですよね。
いや、もちろん、だからこそ、「できる範囲で、どれだけのことをやるか」が大事ではあるのだけれども。


「昭和の語り部」たちの、貴重な対談ですので、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。

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