琥珀色の戯言

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【読書感想】辞書の仕事 ☆☆☆☆


辞書の仕事 (岩波新書)

辞書の仕事 (岩波新書)

内容紹介
いま、辞書に注がれる視線が熱い。数多あることばから何を項目として選び、有限のことばでどう説明するのか。地道な作業ながら、考えようによってはドラマチック。でも実際、どんなドラマがあるのか、ないのか? 辞書づくりにかかわるあれこれのエピソードを、『広辞苑』『岩波国語辞典』などその道30年の元編集者が楽しく語る。


 三浦しをんさんの『舟を編む』が『本屋大賞』を受賞し、映画化されたこともあり、「辞書編纂の裏側ブーム」が続いているようです。
 この本では、岩波書店で30年来『広辞苑』などの編集にあたってきた編集者が、「辞書編纂や言葉に関するさまざまなエピソード」を語っています。
 

 「無人島に一冊だけ本を持っていくとすれば、何を選ぶか?」という問いに対して「辞書」を選ぶ人が少なからずいる、という話題で、著者は「辞書の情報量」をこんなふうに説明しています。

 辞書を挙げる理由として、まずその情報量の多さが買われていることは間違いありません。読んでも読んでも、読み切るのは大変です。例えば『広辞苑』の文字数はざっと1500万字、通常の新書150冊分です。本文約3000ページの本ですが、思い立ってこれを1日1ページずつ日課のように読み進めようと始めると、最後の項目「んとす」の例文「終わりなんとす」に到達するのに8年間かかります。
 1ページの字数は5000字ですが、普通の小説や学術書と違って、その文には「です」「ます」も「ところで」も「ではないか」も使われていないのです。がちがちの中身だけの解説文や記号からなる1ページは非常に密度の大きなものです。長持ちする、読み応えがある点では、何より辞書が一番でしょう。

 僕はこれを読んで「新書150冊」というのは、案外たいした分量ではないのだな、と思ってしまいました。
 とはいえ、「です」とか「ます」も極限まで切り詰めての字数ですから、かなりの読みごたえがあるのは事実でしょうし、8年かけて読み終えたときには、最初のほうの項目はほとんど忘れていそうですから、読み飽きることはなさそうです。
 ちなみに、村上春樹さんには、この「無人島に持っていく一冊」を「辞書」としたエッセイがあるそうです。
「村上さんの場合は、英和辞典を念頭においての発言」だそうですが。


 この新書のなかでは、「辞書に載せる言葉の選びかた」や「解説の書きかた」など、さまざまな事例や、読者からの質問への対応などが紹介されています。
 言葉をうしろから引く「逆引き事典」なんていうのもあるんですね。
 たとえば「ことば」であれば「ばとこ」で引く、というような。何の役に立つの?と思ったのですが、どうしても言葉の頭の部分が思いだせないときとか、類語を集めるときに、けっこう役立つのだそうです。


 また、こんな事例もあったのだとか。

 ある日、辞典編集部に一通の封書が届きました。差出人は青森県の中学校の先生。先生は『岩波国語辞典』を信頼できる辞書として長年愛用され、生徒にも勧めてくださっているとのことです。ところが、「偶然、『くんだり』という項目を見たとき、何とも名状しがたい思いにとらわれた』とおっしゃるのです。そこには「青森くんだりまで来た」という用例が掲げられてありました。
「当地はたしかに「くんだり」と付けて呼ばれるのにふさわしい土地であろうかと存じます。しかし、もし教室の生徒の誰かがこの記述を目にしたならば、その者はどんな思いをするだろうと想像すると、胸が痛むのです」とありました。編集部の皆が胸のふさがる思いにとらわれました。「こんな無神経な用例を掲げてけしからん。即刻訂正しろ」というお叱りでもないことが、いっそうこたえたのです。
 どのような用例が適切であったのか、その場で議論が始まりました。ひとしきり話し合ったところで到りついた結論らしきものは、どのように書き換えても、それが具体的な地名である限り、その地の人を傷つけずにはおかないだろう、ということでした。いっそのこと、東京とか大阪とかの大都会や銀座のような繁華街を挙げたらどうだという者もありましたが、それはそのことばがわかっていないことの現れに他なりません。

 「用例」にだって、傷つく人はいるのです。
 いや、もし僕も青森出身だったら、やっぱりこんな感じで『広辞苑』に使われたら、やっぱり不快だろうな、とは思います。
 その一方で、「まあ、青森というのは、この用例としては、適切な土地ではあるかな……」と、他人事としては、考えてしまうのですが……
 ちなみに、

 「くんだり」はどんな地名に付けてもよいのではない、中心から「下って行った」土地というのが意味の中核です。今風に言えば「上から目線」のことばです。中心と思われている土地に「くんだり」を使うことはできません。

ということですから、架空の地名などでは、「用例」としては適切だとはいえないでしょう。
もともとちょっと「上から目線」のニュアンスの言葉だと、用例をつくるのも、なかなか難しいのですね。


 「辞書」と「差別」というのは、日本だけの問題ではないようです。

 個々の語の意味を解説する場面であれば、その言葉にひそむ社会的な偏向やそのよってきたる所以を説くこともできます。しかし、前に書きましたように、用例を挙げる段になると、とたんに自分でも気付かずにいたゆがみを露骨に表してしまうことがよくあるのです。アメリカのある辞典は、例文の中に現れる男性主語と女性主語の比率を均等にし、同時に、例えば「賢い」「のろまだ」「弱い」「勇敢だ」「勤勉だ」「潔い」「だらしない」「忍耐強い」などといった人の評価に結び付くことばの用例に「彼」と「彼女」とでプラス価値、マイナス価値の偏りがないよう気を配ったということです。そのことが、社会でのそのことばの使われ方を反映する上で適切な用例になるかどうか、必ずしも問題がないわけではないでしょう。端的に言って、辞典に女性蔑視の見方が表れているのは、辞典編集のスタッフ一人一人の女性観の問題である以前に、そもそも現在の日本語の女性への蔑視です。

 アメリカでは、ここまで「男女差別」にならないように、気を配っている辞書もあるのです。
 そこまで辞書が「政治的正しさ」をアピールするべきなのか?というのは僕も疑問ではあるのですが、社会に差別があるのなら、言葉からまず正していこう、という考え方はあるのでしょう。
 あれだけの膨大な分量のなかで、バランスをとるというのは、けっこう大変な作業ですよね……
 これまでは「権威」として、「書いてあることに、読者が従う」のが辞書だったのかもしれませんが、最近は、辞書をつくる側も、いろいろと大変なことが多いようです。
 もともとが差別用語、なんていう「ことば」もあるわけで、「悪いことばだから載せない」というわけにも、いかないだろうし。

 
 著者は、最後に「電子辞書」についても触れているのですが、「いまのところ、電子辞書も紙の辞書の編集者がつくっているのだから、仕事が無くなるとか、寂しいということはない」と述べておられます。
 また、電子辞書の優位な点について触れたあとで、「紙の辞書のメリット」について、こう書かれています。

 作り手でなく使う側の立場に立ったとき、紙の辞書と電子辞書との違いは何でしょう。電子辞書の便利な機能については既に触れましたが、その上でなお「紙の辞書がいいよ」と言いたくなることがあります。一つは、読みやすさです。一文字一文字の大きさやデザインのことではなく、紙の辞書のほうが項目全体の見通しがきくということです。改良はされて行くでしょうが、電子辞書の画面は狭いのです。もちろん、その時点で読んでいる箇所はよく見えるのですが、全体の記述の中で、どんな位置をしめている記述かが掴みにくく感じられます。そうした言わば一覧性とでもいう点で、電子辞書は劣っています。少し長めの項目で、自分が知りたい箇所を探しながら語義番号をたどるとき、目を動かすのではなく画面のほうをスクロールさせるというのは意外といらだたしい思いがするものです。
 次に、これこそ紙の事典ならではと思うのは、やはり目が届く範囲の広さと関係することですが、いま探しているのでない項目に目が行くということです。そんな直接必要でない周りの項目が見えてどうなるのだ、と言われても困るのですが、これはなかなかのもので、そこにはことばや辞書と付き合うときの喜びが隠れているのです。電子辞書は、いま直ちに読みたい項目を探し出し、切り取って届けてくれる機能にはすぐれていますが、当座どうでもいいや、またいつか付き合いましょうという項目を見せるほどには成熟していません。たまたま目に入ることでもなければ、またいつか読んでみようなどという項目と付き合う機会などありはしないのです。

 電子辞書は軽くて便利なんですよね、やっぱり。
 僕もスマートフォンにアプリを入れて、使っています。
 紙の辞書を引く機会は、本当に少なくなりました。
 ただ、「長い目でみれば、紙の辞書を引いてみるほうがプラスになる」あるいは「カッコいい」という時代になってきているような気もするんですよ。
 おそらく、これからは電子辞書でも「一覧性」や「他の項目まで見えるような辞書」が登場してくるのではないか、とも思うのですけど。

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