琥珀色の戯言

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【読書感想】ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡 ☆☆☆☆


ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡 (光文社新書)

ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡 (光文社新書)


Kindle版もあります。僕はKindle版で読みました。

ウォーホルの芸術?20世紀を映した鏡? (光文社新書)

ウォーホルの芸術?20世紀を映した鏡? (光文社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
20世紀を代表する美術家であるアンディ・ウォーホル(1928‐1987)は、生前における多方面にわたる活躍やメディアへの頻繁な露出から、これまで様々な流言飛語に曇らされ、毀誉褒貶に包まれていた。しかし、1989年にニューヨーク近代美術館で大規模な個展が開催され、94年にはアメリカにある個人美術館としては最大のアンディ・ウォーホル美術館が開館するなど、その多面的な芸術は正確に評価されつつある。「孤独なトリックスター」の実像とは―。本書は、日本での大規模なウォーホル回顧展にも関わった美術史家が、ウォーホル芸術の意味と本質に迫り、それを広く美術史の中に位置づける画期的論考である。


参考リンク:アンディ・ウォーホル展:永遠の15分(森美術館)


 いま、東京の森美術館で大規模なウォーホル展が行われているんですね(2014年5月6日まで)。
 この新書は2010年に出版されたものなのですが、2014年の1月になって、Kindle版が発売されています。
 これは、今回ウォーホル展に行く人、行った人、新たに興味を持った人をターゲットに、ということなのでしょう。

 アンディ・ウォーホル(1928ー1987)は、日本でもよく知られたアメリカのアーティストである。美術の世界ではすでに巨匠として殿堂入りした感があり、美術に疎い若者にも人気がある。キャンベル・スープ缶やマリリン・モンローといった彼の作品は、誰でもどこかで見たことがあるだろう。美術館の展示室から街のポスター屋さんまで、ウォーホルの絵は日本中にあふれているといってよい。ウォーホルの名前を知らなくても、マリリン・モンローのカラフルな顔の版画を目にしたことがある人は圧倒的に多いはずだ。
 美術作品だけでなく、サブカルチャーに少し詳しい人なら、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」をプロデュースしたことや、文庫にもなった『ウォーホル日記』のことも知っているだろう。近年の映画『アンディ・ウォーホルを撃った女』や『バスキア』『ファクトリー・ガール』によってウォーホルに詳しくなった人もいるかもしれない。

 
 僕はアンディ・ウォーホルの名前と、彼の有名な作品「キャンベル・スープ缶」「マリリン・モンロー」くらいは知っている、というくらいの知識しかありませんでした。
 ポップ・アートで、「アメリカの時代」の象徴となった、有名なアーティスト。
 この新書のなかでも何度か紹介されていて、著者も関わっていたという、1996年に東京・神戸・福岡で行われた『ウォーホル展』には行ったんですけどね。
 名前は知っている人だし、なんだかカッコよさそう、ということで。
 ウォーホルは1987年まで生きていましたから、僕がちょっとアートに興味を持った時期には、まだ存命で、マイコン雑誌などにも時々名前が出ていた記憶があります。
 思い返してみると、1996年の回顧展のときには、ウォーホルが亡くなってから、まだ10年も経っていなかったのです。
 あのときは、ほとんど予備知識もないまま、「なんか銀色の風船みたいなものがフワフワ浮かんでいる部屋」で、「なんなんだこれは……子どもの遊び場、なのか……? アートって、こんなもの、なのか?」と内心困惑していたことを思い出します。
 現代アートというのは、それなりに「予備知識」を持っていないと、観かたがわからないものです。
 その一方で、あまりに予備知識や先入観を持ち過ぎていると、作品を自分の目で見る楽しみが失われてしまいますし……そのあたりの匙加減が、すごく難しい。

 
 この新書を読んで、僕はようやく、ウォーホルの生涯と作品の「流れ」がわかったような気がしました。
 あのとき、1996年のウォーホル展に行く前の僕に、この新書を読ませておきたかった……
 

 著者は、「ウォーホルの基本理念」として、1963年にジーン・スウェンソンによって行われたインタビューを紹介しています。

 ぼくは誰もが機械になるべきだと思う。誰もが誰もを好きになるべきだと思う。
 ……誰もがいつもクリエイティヴなんだ。……実際のところみんなもう上手すぎるんだ。
 ……どうしてあるスタイルが他のスタイルよりよいなんて言えるのかな。……誰かが、ぼくの代わりにぼくの絵を全部できるようになるべきだと思う。今までぼくは、一枚目と同じようにきれいで単純なものを作れたためしがないんだ。
 ……もしアーティストがもうできないと思ったらやめちゃえばいいだけなんだ。アーティストは後ろめたい思いなんかしなくてもスタイルを変えられるべきなんだ。……リキテンスタインは、あと1、2年もしたら漫画の絵はやっていないかもしれないって言ってたそうだけど、スタイルを変えるっていうのはとってもすばらしいことだと思う。今起こりつつあるのはそういうことで、まったく新しい世界になるんだ。それがぼくがシルクスクリーンを使う理由のひとつだろうな。もっと多くの人がシルクスクリーンをやるようになって、ぼくの絵が自分のものなのか誰かのものなのかわからなくなったら、とってもすてきだと思う。……ぼくがこんなやり方で描いているのは、機械になりたいからで、何でも機械みたいにやることが、ぼくがやりたいことだって感じてるんだ。

 ウォーホル自身は、作品の「テーマ」「暗喩しているもの」などの質問に対して、常に「煙に巻くような答え」を繰り返していた人でしたが、このインタビューは、デビュー直後に行われたもので、ウォーホルの助手によると「テープに録音されているのを知らずに、珍しく非常に正直な意見を述べていた」そうです。


「機械になりたい」か……
このインタビューを読んでいて、僕は『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」を思いだしてしまいました。
ウォーホルは、敬虔な東方カトリックの信者だったそうなのですが、モダン・アートの旗手の思想の底には、宗教的な「人と人の垣根を取り払う」という考えがあったのかもしれません。


 この新書は、ウォーホルの生涯と作品について書かれているのですが、主に「時代による作品の変遷」を追いかけていて、ウォーホル自身に関するスキャンダルなどは、さらりと触れられている程度です。
 ウォーホルの人となりについては、読んでもあんまり伝わってこないのです。
 でも、そういう「機械的な存在として、作品を生み出していくこと」がウォーホルのポリシーでもあり、それにのっとって、著者もこういう「作品は分析しても、作者を解釈しない」という書きかたをしたようにも思われます。

 
 著者は、ウォーホルの「キャンベル・スープ缶」について、このように書いています。

 どこでも入手でき、いつ誰が食べても同じ味の食物というのは、20世紀になったはじめて登場したものだった。現在では、缶詰や加工食品をたたえる人は少ないが、20世紀半ばには、それらはもっと輝いていた。大量消費社会では人種も貴賤も区別なく、人々は同じ大量生産の食品をスーパーで買い、同じように調理して食べている。ウォーホルの絵はこうした食品の画一性をこの上なく明瞭に表現しているが、決して批判的な視点ではない。
 なぜキャンベル・スープ缶を描いたのかと質問されたウォーホルは、「毎日食べてたからさ」と答えたが、日常繰り返す生活が単調でつまらないと感じるのではなく、同じ生活がもたらす安定感がウォーホルは好きだったのだ。スーパーで買ってくる保存食品はいつでも食べられるし、毎日同じ味がするから安心できるのである。実際、ウォーホルの母はこの缶詰を買い置きしており、ウォーホルは幼少のころからこれになじんでいた。いわば”おふくろの味”であったのだ。売れるようになってからも、彼の昼食はこのスープとパンだけのことが多かったという証言もある。
 また、彼は後に著書『ぼくの哲学(The Philosophy of Andy Warhol)』の中で、「この国の素晴らしいところは、大金持ちでも極貧民でも同じものを消費するってこと。テレビを見ればコカ・コーラが映るけど、大統領もコークを飲む、で、考えたらキミもコークを飲めるんだ。コークはコークだし、どんなにお金を出したって街角の浮浪者が飲んでるのよりおいしいコークなんて買えない。コークはすべて同じだし、すべてのコークはおいしい」と書き、さらに、似たような例として、アメリカに来たイギリス女王の食べたホットドックの例もあげている。平等への理想は、社会主義的にも聞こえるが、アメリカの資本主義社会のもたらした食品の大量生産と安価な供給にもっともよく表れているのである。
 そして、そのすばらしい食品を芸術家の天才が独特のタッチで描いてものものしい芸術にするのではなく、ロゴマークのようなすっきりとしたシンプルな姿で提示する。誰が描いても似たり寄ったりのように思える、こうしたシンプルでクリーンな様式も、コークや缶詰の味と同じく、大量消費社会にふさわしいものであった。
 その意味で、キャンベル・スープ缶は、ウォーホル芸術の代名詞となっただけでなく、20世紀後半の資本主義社会を反映した新たな芸術を象徴するものとなったのである。

 なるほど……
 僕はウォーホルの「キャンベル・スープ缶」に対して、「画一的な商品をみんなが食べている」という、没個性な消費の時代への批判だと、思いこんでいたのです。
 しかしながら、ウォーホルが生きてきた時代、そして、その「食品の大量生産と安定供給」が行わるようになったのは、人類史では、ごく最近のことであるということを考えると、ウォーホルは、「みんなが同じものを食べている」ということを、ネガティブにはとらえていなかったのか……
 もちろん、アートというのは、観る人それぞれの解釈があって良いのでしょうけど、こういうことを知っていて観ると、また違ったイメージがわいてきます。
 

 その一方で、ウォーホルは、「死」それも多くは「無名の人の突然の死」をテーマとした「死と惨禍」をテーマとして採り上げていくようになるのです。
 飛行機事故、自動車事故、飛び降り自殺、食中毒死……
 この新書を読んでいて、新聞記事のように描かれた一連の作品を、1996年に観た記憶が甦ってきました。
 『キャンベル・スープ缶』『マリリン・モンロー』のウォーホルが「死」をモチーフにした作品をこんなにたくさん発表していたことも知らなくて。
 そのときは、「なんか『悪趣味』だなあ……これって『アート』なのか?」と思いつつも、なんとなく作品から目が離せなかったのですよね。

 
 ウォーホルは1967年に「将来は誰でも15分間だけ有名人になれるだろう」と述べています。

 しかし、誰でも有名人になれるというのは、ウォーホルに肖像画を描いてもらえるということではなく、実はもっと恐ろしい意味があった。つまり、事故や自殺で死亡すればマスメディアが一定時間とりあげてくれるという意味でもあった。ウォーホルはこうして亡くなった一般人を作品の題材として選ぶようになる。

 ある意味、ウォーホルが作品にすることによって、彼らは「15分間だけの有名人」ではなく、ずっと遺り続ける存在になった、とも言えるんですよね。
 「機械になりたい」とウォーホルは言っていたし、それは本音だったのでしょう。
 でも、「人の死があまりにも淡々と消費され、忘れられていくこと」への反発というか、寂しさみたいなものも、抱えていたのではないかなあ。


 この新書、諸事情で、本のなかの作品の図版が減らされたり、小さくなったりしたそうです。
 モノクロの小さな図版ばかりで、「作品を見る」ために買う本ではありません。
 それでも、「ウォーホルの生涯と作品が概観できる本」としては、手頃で、モダンアート初心者にもわかりやすいもののひとつではないかと思うのです。
 著者があまり「決めつけていない」ことにも、好感が持てますし。


 ウォーホル展に行ってみたいけれど、実はウォーホルのことをよく知らないという方、あるいは「現代アート」って、どういうふうに観たらいいのか、よくわからない、という方は、ぜひ読んでみてください。
 

 

芸術闘争論

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