琥珀色の戯言

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【読書感想】フラニーとズーイ ☆☆☆☆


フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

内容紹介
アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー……ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。――村上春樹による新訳!


村上春樹さんによる新訳。
いきなり文庫での登場です。


この『フラニーとズーイ』、村上春樹さんの新訳が出ることを知って、僕はすごく楽しみにしていました。
というのも、つい最近文庫になった、中村うさぎさんと佐藤優さんの対談本『聖書を語る』のなかで、この『フラニーとズーイ』が、ものすごく熱く語られていたんですよ。


(以下は、少し『フラニーとズーイ』のネタバレが含まれています)

中村うさぎ神が「光あれ」と言う前の世界こそが悟りだ、というバディの言葉。そこでは男と女の違いもなく、善と悪の区別もなく、ただただ混沌としたごった煮のような闇の世界の中ですべてが融合してる。要するに、エヴァの「人類補完計画」状態ですよ。「個」が生まれる前の「大いなる全体」の世界。
 そこではもちろん、聖と俗の区別すらない。俗物の代表みたいな太ったおばちゃんが、聖なる存在の極みであるキリストその人なんだ。あの嫌味ったらしいレーンもまた、キリストに他ならない。そして、フラニー自身もキリストなんだよ。ああ、そうか、すごいすごい、と、フラニーは感動して立ちつくす。受話器を握りしめてね。読者もまた、突然差し込んだものすごい知の光の中で茫然とするんだよ。いきなり目が開いて、何もかもが見渡せたような、そんな感覚ね。この瞬間こそが、この饒舌な小説のクライマックスなんだ。フラニーと同時に、読者も悟りを開くの。震えが来るような瞬間を共有するんだよ。いやぁ、マジ、すげぇ小説だ。村上春樹なんぞ、足元にも及ばんわ。
 私、フラニーの気持ちがとってもよくわかる。あれを青春期独特の「懊悩と焦燥」とも思わないわけで、青春を通りすぎた人間だって、どうしても清濁併せ呑むことができない気持ちはあるんですよ。美しいものと醜いものとは分けてしまうしね。
 

佐藤優だけど、もし二つに分かれる前の世界に帰って清濁を分ける必要もないとなれば、すでに日本では実践しているじゃないか、というのが日本人の感覚ですよね。それをこういうふうに細かく分けて書いて、結論に上がるための梯子をかける作業をするというのは、サリンジャー自身が納得するために書いていったんですね。このサリンジャー・スタイルをいろんな人が真似るんだけども、みんなうまくいかない。それは真似るために書いているからで、自分のために書いているサリンジャーのようなわけにはいかないんですよ。


中村:こういうのって、自分のために書くものじゃないの?


佐藤: それだけ、自分のために書いている人が少ないってこと。


「推薦のことば」としては、このふたりのやりとりを読んでいただければ、もう何一つ付け加えるべきではないかもしれません。
読んでみたくなりますよ、これは。


その一方で、今回の訳者の村上春樹さんは、この作品について、「この作品の最大の魅力は『文体』だ」と仰っており、「内容に関しては、若いころ読んだときには、あまりにも宗教じみていて、ネガティブな印象だった」と告白しておられます。
(村上さんのこの作品についてのエッセイの全文は、こちら
<村上春樹 特別エッセイ>こんなに面白い話だったんだ!(全編)
をどうぞ。これだけでもサリンジャーの作品と人生について、あらためて考えさせられます)


この『フラニーとズーイ』は1961年にアメリカで出版され、野崎孝さん訳の日本語版(題は「フラニーとゾーイー」)は1968年に発売。日本でも累計で60万部を超えるロングセラーとなっているそうです。
けっこう売れているんですね。
それにしても、半世紀前はサリンジャーの作品でも、日本語訳が出るのに7年もかかっていたのか……


サリンジャーといえば、『ライ麦畑でつかまえてキャッチャー・イン・ザ・ライ)』と『ナイン・ストーリーズ』が知名度では双璧で、『フラニーとズーイ』は、この2作に比べると、それほど「一般的」ではないと思っていました。
サリンジャーの作品としては、おそらく「3番目の知名度の作品」なのですが、僕も昔読んで「うわー、なんかこれ、読んでいて居心地が悪くなる小説だなあ」としか思えず、挫折した経験があるのです。


今回、あらためて村上春樹さんの新訳版に挑戦してみたのですが、わりとスラスラと読むことができました。
とはいえ、ごく少数の登場人物が、のべつまくなしに喋りまくる、という小説であるにもかかわらず、途中で何度も読み返さなければならかったんですよね。
ズーイの話は、話し言葉で書かれていますから、リズムにのって、読んでいくことはできる。
でも、ちょっと先に進んだところで、「いや待て、何が書いてあったんだっけ?」と自分の理解不足に気づく、その繰り返し。
そして、あまりに登場人物に感情移入すると「いたたまれなくなる」小説でもあります。


『フラニー』の章を読んでいて、フラニーの気分はわからなくもないのだけれど、僕としては、久々に会った恋人が、いきなりこんなに不機嫌で攻撃的になっていて、振り回されっぱなしのレーンのほうに、少なからず共感してしまうんですよね。
ああ、こんなデート、つらいよなあ……って。
レーンは薄っぺらい男かもしれないけれど、それはおそらく、世間の人間の平均値というか、少なくとも正規分布内くらいの薄っぺらさであり、フラニーの刺々しい言葉をぶつけられて、サンドバッグにされるほどの悪党じゃない。


この『フラニーとズーイ』って、自分が10代くらいのときに読んでいれば、フラニーやズーイの側にいられたのではないかと思うのです。
でも、40をすぎて、いろんな経験をしてきた僕としては、「自分がめんどくさい若者だった頃のことを、良くも悪くも思い出させられる作品」なんですよね。


ここで描かれている思想的な面に関しては、佐藤優さんの「もし二つに分かれる前の世界に帰って清濁を分ける必要もないとなれば、すでに日本では実践しているじゃないか、というのが日本人の感覚ですよね」に同意です。
新鮮というよりは、法然上人の専修念仏とか、インドでのブラフマンアートマンとかを思い出してしまうだけで。
……そう思いながら読んで、若干優越感に浸っていると、作中にも日本での仏教インド哲学の話が出てきて、「ああ、サリンジャーは、そういう東洋思想も研究したうえで、これを書いているのだな」と苦笑してしまいました。
これは「議論小説」だと村上春樹さんは仰っていますが、サリンジャーは、知ったかぶりの読者とも「議論」しているのかもしれません。
それはもう、僕(サリンジャー)が通り過ぎてきたところだよ、と。


それにしても、読んでいて、面白いというか、「なんだこれは」と思う小説ではありますね。
僕のように「文体や細部の表現への愛着よりも、物語を読みたい」という読者にとっては、『フラニー』は「で、これから何がはじまるの?」というプロローグを読んでいるつもりが、プロローグの場面で終わってしまい、『ズーイ』は、「こいつ、長湯にもほどがあるだろ!」とか、言いたくなってしまう。
本当は、この作品って、グラス家の人々を描く大河小説の一部だったらしいのです。
もし完成していたら、『チボー家の人々』くらいの長さになっていたのでは……


予算も役者もきわめて少ない劇団のための脚本みたいな小説なんですよ。
でも、読み終えてみると「こんな『わかりやすいドラマ』不在の、神について議論しているだけの小説を300ページも一気に読ませるサリンジャーすげえ!」とも思う。


村上春樹さんが訳しているので当然なのかもしれませんが、会話がすごく「村上春樹っぽい」のですよね。
いや、「村上春樹さんが、サリンジャーっぽい」のか。


この作品、半世紀前に書かれたものです。
神と人間、人間と人間の「境界」について、思考のプロセスも明確に。
ところが、その後もベトナム戦争が起こり、日本ではオウム真理教の一連の事件が起こった。
それはもちろん、サリンジャーのせいではないけれども、これだけのテキストがあったのに、人は「境界」について、いまだに悩み続けているのです。
「文学の力」って、いったい何なのだろうなあ、とか、考えずにはいられませんでした。
(正直、この作品のフラニーに関しては、精神科か心療内科を一度受診すべきなんじゃないか、とも思ったんですけどね、ご飯食べられてないし)


文庫ということもあって、「ちょっと興味を持ったくらいの人」にも手に取りやすいと思います。
とりあえず「こういう小説があることを、知っておいて損はしない作品」です。
できれば、10代のうちに一度体験しておきたい作品ではありました。僕自身も挫折したわけですけれども。

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