琥珀色の戯言

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【読書感想】お宝発掘!ナンシー関 ☆☆☆☆


お宝発掘! ナンシー関

お宝発掘! ナンシー関


Kindle版もあります。僕はこちらで読みました。

お宝発掘!ナンシー関

お宝発掘!ナンシー関

内容紹介
今なおその早世を惜しむ声が多い伝説のコラムニスト・消しゴム版画家の単行本未収録原稿を多数発掘、ファン垂涎の新刊単行本。もちろん消しゴム版画も合わせて掲載。ナンシー関がいた20世紀末をもう一度振り返る。


内容(「BOOK」データベースより)
これが最後の単行本初収録コラム集。幻のデビュー連載「ナンシーの漢字一發!!」およびレアもの連載「コンビニ・ジュース」ほか、ナンシー関のお宝コラム、多数収録。


 単行本は2年前に発売され、書店でパラパラとめくってみたことは何度もあったのですが、結局、購入には至らず。
 今回、Kindle版が安売りされていたので購入して読んでみたのです(僕が買ったときは、Kindle版350円でした)。

 
 基本的に、作家やミュージシャンが亡くなったあとに出される「未公開作品」というのは、触れてみると「まあ、本当に自信が持てるようなものだったら、世に出しているよな……」という感想になってしまうものがほとんどです。
 この『お宝発掘!』にしても、率直に言うと、ナンシーさんの「良い仕事」とは言い難い内容なのですが、それでもやっぱり面白かった。
 いなくなってみて、あらためて、ナンシーさんの存在の大きさを思い知らされます。
 何かテレビ関連の話題が出てくるたびに、「ナンシーさんがいれば……」と、つい考えてしまうのです。
「ナンシーさんだったら、『笑っていいとも!』の『最終回狂想曲』を、どう書いただろうか?」なんて、思いますしね。


 ただ、この本を読んでいると、ナンシーさんは、若くして亡くなられたことによって、あまりにも「聖域化」されてしまっているのかな、とも感じたんですよ。


 1989年のコラムでは「紅白歌合戦が今年で終わる」という前提でのコラムが書かれていますし(「本当かどうかはわからないが
」と断りも入れておられますが)、明石家さんまさんについて、こんなふうにも書いておられます(1991年のコラム)。

 それでは「廃り」についてはどうなのか。よく「あきられたから」という理由づけがあるが、もうひとつ「嫌われたから」というのがあると思う。いつのまにか消える「あきられた」型に比べて「嫌われた」型は”今、この人は廃れつつある”ことがブームになるとでもいうか、衆人環視の中で廃れていくのだ。
 本当に廃れきるかちょっと不安だが、松田聖子がそうだと思う。まだ人気があるじゃないかと思うかもしれないが、それは「廃れていく松田聖子」人気である。あと明石家さんま。さんまの場合は先に述べた「ブーム」の発端→確認の構造がそのまま当てはまる「廃れ」方が見える気がする。
 私は発端は2年程前に「さんまのまんま」で山瀬まみを泣かせた事件にあると見ている。唐突だが、書道有段であるという山瀬まみの作品を見て「へたくそやな。段持っとるの嘘やろ」の一点張りで泣くまでつっこんだのだ。
「みんなから好かれる」こどがアイデンティティだったさんまが、明らかに「悪者」の顔を見せてしまった初めてのシーンだった。それ以降、現在でもさんまは「いやらしい」というつっこみの言葉を実に多用する。このつっこみは、たとえ関西弁のニュアンスでクッションを置いたにしてもえげつない。なんか人格否定みたいだもの。事実、これで笑いを取れてはいないのである。さんまが「いやらしい」という言葉を用いるごとに、さんまのえげつなさを確認する人が増えている気がする。


 これが書かれてから、20年以上が経っていますが、結局、さんまさんは「廃れて」はいません。
(全盛期に比べてどうか、と言われたら、多少は衰えはあるかもしれませんが)
 この本を読んでいると、当たり前のことなんですが、ナンシーさんはその時代時代をうまく切り取ってはいるけれども、「予言者」ではないのだよなあ、と思い知らされるのです。
 そして、そういう「ちょっと下世話で、その場しのぎのところ」も、ナンシーさんの魅力だったのだよなあ、と。
 だから、もっと気軽に、手軽に読まれて良いはずなのに、みんなに「不世出のコラムニスト」と持ち上げられて、敷居が上がってしまっているようなところもあるような気がするのです。


 そして、ナンシーさんは、テレビや芸能人に対する話題が多くて「時代をうつしている」ように思われがちなのですが、あらためて読んでみると、「ある時代について書く」というのは、けっして一時的なものではなくて、突き詰めると「普遍的」にもなりうるのではないかな、と感じました。

 自分は非凡であるという自意識に基づいて「私って変わっているヒトなの」とか「私ってヘンでしょう」などと自己申告する人がよくいるけど、そういう人がおもしろかったためしはない。たいてい普通のバカだ。
 そして、こうした人たちがよく使う論理に「ヘンだから好き」というのがある。ある年代の女のコが世の中のすべてを「かわいい」か「かわいくない」かで斬り捨てながら生きるのと同様に、この人たちは「ヘン」か「ヘンじゃない」かを基準にしている。「あんまりおもしろくないけどヘンだからいいの」じゃおもしろくないんじゃねえか、と再度問うてみても「でもヘンじゃん」で終わりである。「ヘンだ」をすべての免罪符にしてしまっているのだ。


(中略)


 だけど、やっぱりそれは大間違いだ。「つまんないけどヘンだから良い」なんて言い草はいいかげんやめるべきだ。
 ヘンなものの中にもおもしろいものとつまらないものはあるし、ヘンじゃないものにもおもしろいものとつまらないものがある。もちろん重要なのは、おもしろいかつまらないかに決まっている、と、こうして書いてみるとバカみたいに当たり前のことだが、実際にはおもしろくもなんともないヘンなものが、その「ヘン」ということにだけすがって存在しているケースは多い。


 こういう文章を読んでいると、なんだか、マツコ・デラックスさんを思いだすんですよね。
 (見た目の印象もあるのかもしれませんが)ナンシーさんの正当な後継者というか、こういう「みんなが曖昧にしている部分を、ちゃんと定義しないと気が済まないところ」は、ふたりの共通点ではないでしょうか。
 
 
 この本を読んでいると、1990年くらいの自分や、当時起こったことが、頭に浮かんできます。
 1991年には、こんな話も出てきます。

 最後に、この春またもや日本のジュース史に残る事件が起きた。それは「カルピスウォーター」の発売である。これまでも「カルピスソーダ」「カルピス・オ・レ」はあったが、ここに来てついに水で薄めた状態のカルピスの発売である。これには大きな意味が隠されている。このカルピスウォーターによって、我々日本人は「正しいカルピスの濃さ」を初めて体験したのである。カルピスウォーターのこの味が真のカルピスの味だったのだ。今までも「5倍の水で……」という指示はされていたが、我々はずっと「好き勝手な濃さ」にしか薄めてはこなかったのではないか。いわばカルピスは「絶対の味」を持たないきわめて特殊なジュースであった訳だ。発売後数十年を経た今、突如として降りたった「真のカルピス」。この世紀末にこの事件が起こったことの意味を考えてみるべきかもしれない。

 いまでこそ「コンビニに並んでいて当たり前」のカルピスウォーターなのですが、発売当時は「カルピスを水で薄めただけのものが、そんなに売れるわけないだろ!」とか「なんかこれ、ちょっと薄くない?」などと思っていたんですよ僕も。
 それがいまや、すっかり「定番商品」となりました。
 

 未来を予測するのは、本当に難しい。
 ナンシー関さんだって、万能の予言者ではなかったのです。
 ただ、ナンシーさんの文章には「その時代を生きた人の、ナマの感覚」みたいなものがすごく詰まっていて、今読むと、かえって新鮮な感じがするんですよね。


 ナンシーこの予想、外れてるじゃん!ってツッコミながら読むと、ナンシーさんは喜んでくれるのではないか、僕はそう思っています。

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