琥珀色の戯言

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【読書感想】にょろり旅・ザ・ファイナル ☆☆☆☆


にょろり旅・ザ・ファイナル 新種ウナギ発見へ、ロートル特殊部隊疾走す!

にょろり旅・ザ・ファイナル 新種ウナギ発見へ、ロートル特殊部隊疾走す!

内容紹介
人類が誰も見たことがなかったウナギの卵発見という生物科学史上に燦然と輝く偉業を成し遂げた東京大学大気海洋研究所の塚本勝巳教授。青山潤准教授は、そのスタッフの番頭格として、研究(探検?)の最前線で身体を張り続けてきた。彼が、世界中どの研究期間も成し得なかった「地球上に生息するウナギ全種(18種)採集」に挑戦&達成した、抱腹絶倒の記録『アフリカにょろり旅』は、発売直後から大きな話題を呼び、大手紙文化面のインタビュー、テレビの書評コーナーを総なめにして、講談社エッセイ賞を獲得。その続編ともいえる『うなドン』も重版を重ね、今年七月に文庫化。
そして、この『にょろり』シリーズの第三部は、青山氏が70年ぶりに19種目となるウナギの新種を発見した旅の記録で、文化人類学的にも非常に興味深い考察に満ちており、かつ腹筋がよじれるような面白さもパワーアップしています。
ウナギの産卵地特定のため、赤道に近い太平洋上でウナギの仔魚を採集し、遺伝子解析を繰り返す東大海洋研のスタッフ。そのひとりが、地球上に存在するどのウナギとも遺伝子が合致しないものを発見する。通常、突然変異として片づけられてしまうケースだが、青山準教授は、新種発見のわずかな可能性に賭けて、弟分の渡邊俊、冒険好きの老年作家・阿井渉介と共に勇躍、フィリピンへ向かう。
三人は、ルソン、ミンダナオ、レイテ……、フィリピン国内を北へ南へ駆けずり回り、泥まみれになって、強烈な暑さと湿気に耐え、そして幾度となく空振りを繰り返す。
そして、三年の試行錯誤を繰り返した末、文明を隔絶された山の民が暮らす山深い小川で、恋いこがれた新種と遭遇する!


「もう、僕たちはウナギをこれまでのように食べられなくなるのではないか?」
 そんな話が、ここ数年で、かなり現実味を帯びてきています。
 なんのかんのいっても、昨年までは、「土用の丑の日」になると、コンビニの弁当コーナーにもウナギが山積みにされていて、「本当に『危機』なんだろうか……」なんて、首をかしげたりもしていたのですけど。
 ウナギは、現在でも人工的に卵を産ませて育てる「完全養殖」ができず、養殖ウナギ の「原料」となる稚魚「シラスウナギ」の漁獲量が急激に減ってきているのです。


 ウナギというのは、これだけ日本人の好物であり続けているにもかかわらず、その生育史には、いまだ謎に包まれたところが多いのです。
 先日、池上彰さんのニュース解説番組を観ていたら、日本列島から南に約2000キロのマリアナ諸島沖で2011年にはじめて「天然のウナギの卵」が大量に採集されたことが紹介されていました。
 これは、ウナギの生態を解明し、今後の水産資源としてのウナギの完全養殖をすすめていくための大きな一歩だと言われています。
 僕がこの話をみて、最初に思ったのは、「ああ、『にょろり旅』の人たちの地道な、あまりにも地道すぎるようなフィールドワークが、こんなふうに僕の、そして日本人の生活とつながってきたんだなあ」ということだったのです。

 学生時代、ウナギの進化を研究テーマに選んだ私は、世界に生息するウナギ属魚類全種の標本採集に挑んだ。研究手法が最新の遺伝子解析によるものだったため、世界各地の大学や博物館に保存されている標本は使えなかったのだ。いや、たとえ使えたとしても、ド素人である私に貴重な標本を分けてくれるはずもなかった。
 現在、地球上に生息するウナギ属魚類のほとんどは赤道を中心とした熱帯域に生息している。このためウナギを求めて行く先は、低緯度のいわゆる開発途上国が中心となった。
 大学の研究者だから、どうせあちらに知り合いがいて、車とかガイドとか準備してくれて……と思うのは大間違いである。
 ひとり小汚いバックパックを背負って、いきなり現地の空港に降り立ち、ウナギウナギと叫びながら、ねっとりと絡みつく風に向かって走り出すのである。日本人がふらりと現れれば、何とかして金を巻き上げようと、チョイ悪からゲキ悪まで様々な男たちや女たちが襲いかかってくる。時には警察官すら襲いかかってくる。これら万難を吹っ飛ばし、ただただウナギだけを追い求める日々だった。
 アジア、アフリカを旅し、世界に生息するウナギのほぼ半数を採集した頃だった。私と同じくウナギの進化をテーマに選んだ俊が入学してきた。ただし、こちらは形態による研究だ。こうして私たちは塚本先生と一緒に、ウナギを求めて世界を放浪することになったのだ。


 著者が「東大の研究者」とは思えないような、ワイルドな世界の辺境でのフィールドワークの様子を描いた『アフリカにょろり旅』は、すごく面白いエッセイだったんですよね。
 「研究者」といえば、研究室で実験をしたり、インタビューやアンケートをとったり、というような姿を想像しがちなのだれど、著者たちは「バックパッカー+ウナギハンター」という感じで、ウナギを求めて、世界中を旅してきたのです。
 ああ、こういう「研究」の世界もあるのだなあ、って。


 著者の青山さんは、本当に「ウナギと、ウナギの研究が大好き」で、研究室のボスである塚本先生のことも大好きなのが伝わってきます。
 この本の潔いところは、「ウナギに興味があるから、ウナギの研究をしている」というスタンスを貫いていることであり、「日本のため」とか「みんなのため」みたいなことを、全く主張しないところなんですよね。
 「他の人には理解してもらえないだろうけど、自分はとにかくこの研究や、こういう研究生活が好きなんだ!」ただ、それだけ。
 でも、「研究者として生きていくためには、やはり、論文や研究発表などの、わかりやすい実績を残さなければならない」ということも、明記されています。
 「好きだから、研究さえできれば、結果なんてどうでもいい」わけじゃない。
 いやほんと、そこにシビれる、憧れるぅ、とか書いてしまいそう(書いちゃったけど)。


 今回の『ザ・ファイナル』では、青山さんに、過去最大の敵が忍び寄ってきます。
 それは「年齢」や「立場」。
 失敗を恐れず、がむしゃらにフィールドを突っ走っていればよかった『アフリカにょろり旅』の時代と違って、青山さんは大学の研究者として、講義をしたり、研究室を運営したり、というような仕事も任されています。


 そして、研究の世界そのものも、大きく変化してきました。

 俊と二人、ウナギを求めて世界を放浪していた頃、間違いなく地球は今よりもっと大きくて自由だった。研究者である私たちは、観光客に紛れてウナギを入手し、現地の官憲に袖を掴まれても、
「わしはウナギが好きなんじゃあ! 食いたいんじゃあ!」
 と大声を上げればそれで事は済んでいた。ところが、環境保全生物多様性の保護が声高に叫ばれるようになった近年、そうは問屋が卸さなくなってきている。持ち帰った標本を解析して発表する学術論文にも、調査許可の詳細について記載しなければならない場合が多い。
 自然保護の思想は古くから存在していた。しかし地球全体から見れば、それはやりたい放題に自然をぶち壊し、すでに便利で満ち足りた社会を作り上げた国々の妄想に過ぎなかったと思う。飢えの苦しみに晒されたとき、目の前をのうのうと歩く獣が家畜だろうと絶滅危惧種だろうと関係ない。人には、とにかくそれを狩り獲って、まず己の命を繋ぐ権利があると思っていた。だからこそ、南米のボリビアで大切にニジマスを育てていた湖に、インディオがダイナマイトを投げ込んで吹っ飛ばした時も文句は言えなかった。ニジマスの生産地を作りたいという遠い将来の夢は、私たち満たされた日本人だけが見ていたのであって、そこに住み暮らすインディオたちには、単なる今日の糧に過ぎなかったのである。「この湖を守ろうよ……将来のためにさ」というのが私に言える精一杯で、「魚を獲るな」とまでは言えなかった。
 それが今では、自然保護の思想がくまなく世界に浸透し、むしろ発展途上国のほうが生物多様性に敏感になっている。そこには欧米や日本など先進国と呼ばれる国々が、概して中・高緯度域に集中しているという理由もあろう。実は、このあたりの生物群の特徴は、同じ種類が大量に存在することといえる。海を例にとれば、北大西洋のタラやサケ、ペルー沖のカタクチイワシなどは世界的にも桁外れの漁獲量を誇っている。低い雲に覆われた灰色の海に浮かぶ漁船が、銀色に輝く大量の魚を網から吐き出す光景は、写真やテレビでもお馴染みと言えよう。一方、発展途上国の集中する熱帯域は、色とりどりの魚たちが乱舞する透き通った珊瑚礁の海だ。ここには赤、青、黄色の色鮮やかな異なる種類の魚たちが、小さな群れを作って暮らしている。
 すなわち自然が許容する命の総数を、中・高緯度域ではわずかな種類が占有しているのに対し、熱帯域ではたくさんの種が分け合って暮らしているのである。この原因については諸説あるものの、未だ決定的な答えは見つかっていない。しかし、この「たくさんの種」こそが、今、世界中の注目を浴びている生物多様性の実態なのだ。さらに、比較的単純な生態系といえる中・高緯度域は、先進国に近いこともあってかなり調べ尽くされている。そこにまだまだ面白い科学的なお宝が残されていることは間違いないが、熱帯域のそれとは比べるべくもない。
 生物学や生態学の分野で、熱帯が「ホットスポット」と呼ばれる理由がここにある。


 「自然保護の思想」の浸透や、「生物学・生態学の現在」と、「なぜ、研究者たちは熱帯の発展途上国に向かうのか?」について、とてもわかりやすく書かれている文章だと思います。
 いまや、発展途上国は、先進国の人々の多くが思いこんでいるほど「未開」でもなく、「産業の、生活の一部としての自然保護」についての理解も深まっているのです。
 それは、生物学・生態学の研究が成熟してきて、無茶なやりかたが許されなくなった、ということですし、研究者にとっては「フロンティア」がどんどん少なくなってきているということでもあります。
 とはいえ、まだまだ「わからないこと」はたくさんあるんですけどね。
 日本人にとって、あれほど馴染みの深い魚であるウナギの卵でさえ、見つかったのが数年前なのだから。


 この本のなかでは、青山さんたちの相変わらずの「フィールドワーク」が描かれています。
 洪水のなか、フィリピン南部に突入していったり、現地の人から「外国人には無理だ」と言われながらもフィリピン・ルソン島の奥地のネグリートという少数民族の村をウナギを探しに訪問したり。
 各地での現地の人とのふれあいも、この本の読みどころのひとつです。
 青山さんは、上から彼らを「品定め」するわけでもなく、過剰に「純粋なもの」として賛美するわけでもなく、見たこと、感じたことを書いておられます。

 カラオ洞窟からの帰り道、案内をしてくれた少年と話をしながらぶらぶらと歩いた。
「君は英語が上手だね。学校で習ったのかい?」
「世界中から来る観光客を相手にしているから、それでうまくなっただけ」
「君は小学生だろ、今日は平日だけど学校はないの?」
「ずーっとないよ、だって僕はカラオのガイドになるんだもん。世界中から来るお客さんにここの素晴らしさを教えてあげたいんだ。学校なんか行ってもしょうがないよ」
「君は他の町に行ったことあるの?」
「ないよ」
「だったら、カラオが本当に素晴らしいかどうかわからないじゃないか。他にももっと凄い場所はいっぱいあるんだぞ。ちゃんと学校へ行って、いろいろなことを勉強したり、違う場所を見たりしたほうがいいんじゃないの。そうすればカラオの本当の素晴らしさもわかってくると思うけどなぁ」
「他の場所なんてどうでもいいよ。だって僕はここが好きなんだ。僕が素晴らしいと思うここをみんなに見てほしいだけなんだ」
 よく陽に灼けた小さな顔に照れ隠しの笑みが爽やかだった。十歳に満たないような少年に、なんだかとってもシンプルだけど、とっても力強い生き方を見せつけられたような気がした。


 40歳を過ぎても、東大で「先生」になっても、この少年の生き方について、否定するわけでも、絶賛するわけでもなく、ただただ圧倒されてしまったことを告白している青山さん。
 僕も、これを読んで「自分のイメージする『正しい生き方』が、いかに偏見に満ちたものなのか?」について、すごく考えさせられました。

 つい数年前まで、フィリピンに生息する新種を捕まえることすら難しいのに、広大な太平洋のどこかにいるニホンウナギの卵や産卵親魚を見るなんて、夢のまた夢だと思っていた。事実、俊と交わしたこんな会話を今もはっきりと覚えている。
「新種を発見して、卵を採集して、そのうえ親ウナギの産卵シーンなんか見られたら、もう死んでも構わないんだけどな」
 洒落ではない。いわば、生還できないかもしれないが、誰も見たことがない宇宙の果てに行ってみるかという問いに、イエスと答えるような気持ちだった。
 遥か彼方におぼろげながら霞んで見えるウナギの三つのテーマを全てやっつけるなんて、己の寿命が尽きるまで努力したって絶対無理だと感じていた。せいぜい一つ叶えば御の字だと思っていた。しかし、現実は我々の考える可能性や将来が、いかにちっぽけで貧弱なものだったかをまざまざと見せつけた。


 もちろん、すべての研究者が、こんなに「うまくいく」わけではありません。
 青山さんは、ものすごく幸運な、ごく一握りのひと、だと思います。
 エッセイも面白くて、賞まで獲ってしまったのですから、「四冠」だものなあ。
 

 青山さんは、「エリートコース」を一直線に歩んできた人ではなくて、東海大学水産学部を卒業後に青年海外協力隊に参加、その後、東大の塚本先生の研究室で、ウナギの研究をはじめた人です。
 誰でも、最初は「何者でもない」ところから、はじまっている。


 このシリーズ、本当に面白いので、興味を持たれた方は、ぜひ、ご一読を。
 


アフリカにょろり旅 (講談社文庫)

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うなドン 南の楽園にょろり旅 (講談社文庫)

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