琥珀色の戯言

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【読書感想】「ストーカー」は何を考えているか


「ストーカー」は何を考えているか (新潮新書)

「ストーカー」は何を考えているか (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
五百人ものストーキング加害者と向き合い、カウンセリングなどを行ってきた著者が、彼らの思考パターンと危険度、実践的対応を多くの事例とともに解き明かす。今や「ストーカー」をめぐるトラブルは年間二万件。なぜ彼らは常識を踏み外すのか、警察は後手に回るのか、その時どう対処すればいいのか―老若男女を問わず、誰もが当事者となりうる時代の必読書。


 2000年に「ストーカー規制法」が施行されて以来、警察によるストーカーの認知件数は年々増え続け、今や年間2万件(一日あたり57件)にものぼっています。
 これはあくまでも「警察による認知件数」ですから、警察に認知されていない、届け出をためらっているものや比較的程度が軽いものまで含めれば、実数はさらに多いことになります。
 著者は、1999年からストーキング被害からの救出活動を始め、カウンセラーとして、これまで1500例をこえる案件に関わってきたそうです。
 その経験と、さまざまなデータに基づき、この新書は書かれています。

 私が現在の活動を始めたきっかけは、自分自身が被害にあったことでした。当時、私は相手の心に巣くう「何か」を刺激した。でも、それが何か分からない。いくら言葉で「お前は俺を傷つけた」と指摘されても、なぜそれがそんなに大事なことなのか、文句をつけられることを改めても、謝罪しても離れてはくれない。ひたすら困惑し、怯え、脱出の活路を見出そうと頭がしびれるほど考え続けました。
 社会通念を考えて、本文では便宜上「ストーキングの加害者」を「ストーカー」と呼びますが、五年に及ぶ相手との格闘は、「彼は『ストーカー』だったから」というだけではすまされないものがあるのです。
 私が考えるストーカー問題の真の解決とは、「加害者が加害行為を止め、相手との問題から離れ、自らの持つ根源的な動機(孤独と弱さ)や病態(依存症)に気づき、それらから解放され、新たな方向に歩き出すこと」です。
 本書はストーカー対処法のようなマニュアル本ではありません。そもそも、私のしてきたことが正しいのかどうかも分からないのです。それでも、取り組みに効果があったのは事実です。


 「はじめに」で著者はこう仰っているのですが、たしかにこれは「いま、ストーカー被害にあって困っている人」のための本というよりは、「ストーカー問題について、いま、他人事だと思っている人たちに現状を知ってもらうための本」なんですよね。
 実際に困っている人は、著者のようなカウンセラーや、警察に相談するべきでしょう。
 ちなみに、「どういう状況になったら、自分の力だけでの解決を諦めて、カウンセラーや警察に相談すべきか」については、この新書のなかに著者の考えが示されています。


 これまで僕が読んできたストーカーに関する本(そんなにたくさんではありませんが)というのは、被害者からみた、何を言っても話が通じない、わかってくれない異常人格者としてのストーカーが描かれているものがほとんどでした。
 しかしながら、著者は、被害者のみならず、加害者(ストーカー)に対してもカウンセリングを行うことによって、救おうとしているのです。

 そもそも生きるということは生命を維持するだけでなく、その人らしい人生を生きることです。
 私の会った被害者も、そして加害者も、「こんな自分は本当の自分ではない」と悩んでいました。特に加害者は、「世間並みに成功していない自分など、本来の自分ではない」と考えます。「成功しそうにない」という焦り、「成功しているのに」という不満や疑念が抑えられなくなると自暴自棄になるのです。
 自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない。「成功」への露骨なこだわりがあるだけで、しかもその成功とは非常に個人的なもので、仕事やお金、恋愛や結婚はあくまで「自分が世間並みになる」、「ほめられる」ための手段としてしか考えられません。
 それが得られないと、「自分も他人も信じられない、誰も自分を分かってくれない」という被害者意識を持つ。ストーキングの心理的背景には、必ず被害者意識があります。
 最近は「安心・安全」優先という人が多くなりました。加えて、快適でないと生きられないという人も増えています。しかし本来、人生は不安と不快に満ちたものです。
 私はこれまで大手企業の社員、教員や公務員のストーカーにはたくさん会いましたが、自然相手の職業(農業者など)に就いているストーカーは不思議といない。安心や快適にとらわれずに生きる人は、ストーキングには縁遠いのかもしれません。


 ストーカーもまた、被害者である。
 少なくとも「被害者意識」を持っているのです。
 この引用部の最後の「ストーカーと職種の関連」というのは、わかるようでもあり、本当にそうなのだろうか?著者が活動している場所の「地域性」もあるのではないか、などとも思うのですけど。
(ただし、著者の活動範囲は、都心だけ、というわけではないようです。この本にもさまざまな地域の話が出てくるので)


 この本では、さまざまな事例が紹介されているのですが、「ストーカー」という概念が一般化してくるにともなって、著者のところには、さまざまな相談が寄せられるようになってきたそうです。

 当人に明確な意思と闘う決意が感じられない。他人任せの対応ではかえって事態がややこしくなりかねません。次のような相談には頭を抱えてしまいます。以下は、ある女性の依頼メールと私の返信です。
「先生から話して下されば、彼も諦めるかもしれません。これ以上、恨みを買いたくないので、彼が受け入れやすいように伝えてください。私に近づいたら悪いことが起こる、とわからせてください。それでもラインを踏み越えて来た場合には、容赦なく徹底的な対応をお願いします。私の人生から彼を去らせてください。おまかせいたします」
「あなたは甘えています。誰も他人の行動の制限などできないし、人生から去らせることもできない。彼の手足を縛ることも、意思を操作することもできません。あなたのできることは、あなたの意思を示すことで、相手に影響を与えることだけです。法律があるから自然に守られるのではなく、法律は、法律上の権利を主張する人を守ってくれるのです」
 

 身勝手としか言いようのない相談もあります。
「彼の嫌な部分が見えてきたので別れたいんです」
「なら、別れたらいいでしょう」
「でも、彼は大手の広告代理店に勤めていて、色々なイベントに参加できるメリットがあるの。それを失いたくない」
「じゃあ、嫌でも付き合えばどうですか?」
「私、イベントには参加しても普段のお茶の誘いは断っていました。メールはともかく、電話は「忙しいから止めて」と言ったらメールも来なくなって困っていて……」
 私は「お力になれません」と電話を切りました。
 出会う、愛する、愛されること、または得することに関する情報は昨今巷にあふれ返っているのに、嫌いになったら、嫌われたら、別れたいと言われたら、については圧倒的な情報不足だと私は思います。


 恋愛の終わりに、激しい感情のやりとりがみられることは、珍しくありません。
 でも、相手を傷つけたくない、というよりはむしろ、自分を傷つけたくない、という理由で、「簡単に別れようとする人」がいることに、著者は疑問を呈しています。
 「別れさせ屋」としてみているような依頼もあるし、引用部の後者のような「そんなこと、相談されてもね……」と言いたくなるような事例も少なからずあるようです。
 このエピソードのなかに出てくる「法律があるから自然に守られるのではなく、法律は、法律上の権利を主張する人を守ってくれるのです」という言葉は、すごく印象的でした。
 法治国家とはいっても、「泣き寝入りしている人を、探し当てて助けてくれるスーパーヒーロー」なんて、いないんですよね。
 民事に関していえば、法律は、権利を主張する人がいることによって、はじめて機能する場合がほとんどです。
 そして、「権利を主張する方法」を知らないために、守られることができる立場なのに自分を放置し、「誰も助けてくれない」と嘆いている人が少なからずいるのです。
 最終的には、自分で「助けて」と声をあげるしかないんですよね。
 今の日本の場合、「助けて」とアピールすれば、ほとんどの場合「(一時的にでも)その人を助けるための方法」があります。
 ところが、声をあげる勇気を持てなかったり、「助けてもらえるという知識」を持っていなかったりする人が、あまりにも多い。


 最後に、この新書のなかで紹介されていた、「感情」のコントロールについての話の一部をご紹介しておきます。

 感情を扱うことは、ストーキングから離れる前提、基礎体力のようなもので、トレーニングすればできるようになります。「彼(彼女)が悪い」を「私は彼(彼女)が悪いと考えます」と言い換えさせます。言葉が変わると、心境も変わります。「私は空腹だ」と「私は空腹を感じている」に、「私はあいつが憎い」は「私はあいつを憎いと感じています」に言い換えてみる。相手の目の前で手首に刃物を当てて、「分かってくれないなら、死ぬ」と言ったり、「死んでほしい」「仕事をやめろ」というメールを送ったりするのではなく、「私は悲しいです」「私は××してほしいのです」と、自分の感情を感情的にならずに伝える。それが第一歩です。するとその感情の所有者はまさに自分自身であることに気づくのです。
 自分の感情は、誰かにぶつけるのではなく、自分が責任を持って処理するものです。相手を攻撃するストーキングという手段の代わりに、正々堂々とした方法で自己主張できるようになります。

 
 これって、文章を書くときにも、あてはまる考え方ですよね。
 自分の感情を感情的にならずに伝えるということ。
 それは「常識」でも「正義」でもなく、「自分の感情」でしかないことを、自覚すること。


 誰でも、ストーキングの被害者にも、加害者にもなりうる世の中なのではないか、と僕は思うのです。
 だからこそ、この「新書一冊分の知識」を、ストーキングが他人事であるうちに得ておいて、損はないかと。
 自分が溺れているときに、泳ぎ方の本を投げ込まれても、どうしようもないのですから。

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