琥珀色の戯言

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【読書感想】一〇年代文化論 ☆☆☆


一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

内容紹介
『僕たちのゲーム史』著者による、希望のポップカルチャー論!
本書は、二〇一〇年代の若者文化について語った本です。果たして、「二〇一〇年代の若者文化とは」という大きな設問に、まだ二〇一四年の現時点で、答えることはできるのでしょうか? それに、そもそも「若者文化など、なくなってしまった」という意見すらあります。しかし、それは誤りです。本書では、〇七年頃に「残念」という言葉の意味がポジティブに変化したことを手がかりに、一〇年代の文化と社会を読み解いていきます。若者文化は明確に存在し、これまでと違う、新しく自由な時代を築こうとしています。さあ、「現代社会は閉塞している」といったありきたりの社会論を超えて、「今」を肯定的に捉えなおしましょう!


僕はこの本のタイトルをはじめて見たとき、思ったんですよね。
「えっ、これって、『00年代文化論』の誤植じゃないの?」って。
しかしながら、著者は、過去の事例(たとえば、ヒッピームーブメントなど)を挙げて、「前年代の後半には、もう、次年代の文化の萌芽はみられているのだ」と述べているのです。
だから、10年代を語るためには、00年後半をつぶさに眺めるべきなのだ、と。

 では、僕はこの本で「2010年代の若者文化」をどのようなものだと語ろうとしているのか?
 これについては最初に結論を書いてしまおう。それは「<残念>という思想」に基づいた文化だと思っている。
 最近、僕は「残念」という言葉が目についてしかたがない。言葉自体がというより、その言葉の使われ方が、ちょっと変わっている場合が多いと思うのだ。


 『残念』という言葉の検索数が2004年から2013年までで最大となったのは、2010年の8月、山崎将志さんの『残念な人の思考法』がベストセラーになった時期だったそうです。
 この本では『残念』は文字通りのネガティブな意味で使われています。
 また、これに先立つ2009年6月には、梅田望夫さんがニュースサイトのインタビューで、「日本のWebは『残念』」と語ったことが話題になっています。


 著者は「残念」という言葉にポジティブというか、対象への愛情のニュアンスが含まれるようになった時期として、2007年を想定しており、このような具体例を挙げています。

 ではその2007年から、なぜ「残念」という言葉が伸び始めたのだろうか。
 Googleはウェブサイトにその言葉が登場した日付を指定した検索ができるので、検索範囲を2007年に絞って、当時どのような形で「残念」という言葉がネットに書かれたのかを調べてみた。
 それによると、やはり当時はまだ、ほぼすべての場合において「残念」という言葉はネガティブな意味合いで使われていたようだ。
 しかし、かろうじてネガティブとは言い切れない例としては、2007年の8月15日に掲載された、「千原ジュニアが、”残念な兄”千原せいじについてコメント拒否!?」というニュース記事が見つかった。
 これは、お笑い芸人の千原ジュニアが、同じく芸人の兄、千原せいじを「残念な兄がおりまして……」と呼んで、兄のちょっとダメで面白いエピソードを紹介するという、定番のネタにちなんだ記事だ。
 ここで千原ジュニアが言う「残念な兄」とは、「どうしようもない兄」というネガティブな意味合いだが、しかしそれは兄のことを面白おかしく語る笑いのネタでもある。しかもダメな兄のことを面白おかしく語るというのは、同じお笑いのネタでも、序章で紹介した波田陽区の「残念!!」とは少し違った、笑う対象に対する積極的な好意が感じられる。
 千原ジュニアの使った「残念」という言葉は、そういうニュアンスのものだった。


 この新書のキーワードである「残念」という言葉とその概念の推移をみていくと、たしかに、2010年代というのは「残念であること」がポジティブ化された時代だなあ、と感じます。
 ただしこの「残念」というのは「全然ダメ」なのではなくて、「いいところまでいっているのだけれども、欠点や、ちょっと足りないところがある」という意味での「残念」。
 そういう「ツッコミどころ」があるもののほうが、完璧で素っ気ないものよりも、親しみやすさや、語りやすさがあって、多くの人に愛される。
 僕はこれを読んでいて、AKB48指原莉乃さんのことを考えていたんですよね。
 指原さんが総選挙で1位になったのは、完璧なアイドルとしてふるまうのではなく、「残念なところ」を包み隠さず見せてきたからなのではないかと。
 ブログで話題になりやすいエントリも、叩かれることも含めて「言及しやすいもの」が多い印象がありますし。


 この新書では、初音ミクPerfumeについての、興味深い考察がなされています。
 著者は、「じん(自然の敵P)」というミュージシャンへのインタビューで、こんな話を引き出しています。

――(中略)ボーカロイドって最初期の頃は「これはソフトウェアなんだけれども、初音ミクみたいなキャラクターこそが重要なんだ、この娘が歌っているという体で曲を作るんだ」という人が多かった気がするんですけど、じんさんはもうIA(ボーカロイド)なり、ミクなりっていうキャラクターのことはほとんど重視していない。


じん:そうですね。全く関係ないです。もちろんそれぞれのキャラクターを見て「ああ、かわいいなあ」みたいな気持ちはありますけど、だからといってこれらのキャラクターがどんな感情で歌っているという作り方はしないですね。(中略)むしろ歌い手の感情を載せた歌にしたくないからボーカロイドを使っているわけで、だからボーカロイドを人間らしい感情を出すように使ったりもしない。


キャラクターがかわいいから、とか、人間の声の代用品として、ボーカロイドを使うわけじゃない。
むしろ、歌手という属人的な要素から解放されるために、あえて、ボーカロイドという選択をしているのです。


新しい「残念」の概念というのは、ある意味「人間らしさ」を求めることのように思われます。
その一方で、こういう「表現の属人性」という鎖を断ち切りたい、というのも「主流化」しているのです。


自分の作品を世に出したい、評価されたい、という気持ちと、そういう「承認欲求」みたいなものから(少なくとも表面上は)距離を置きたい、という立場。
この新書のなかでも紹介されている『黒子のバスケ』脅迫事件の容疑者の言葉、

 自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

というのをあらためて読んでみると、この人は自分自身を「キャラクター」にしてしまったのではないか、と思えてくるんですよね。
こんなに自分のことが理解できているのに、なぜ、あんなことをやってしまったのか?
それが自分の人生におよぼす結果を、考えなかったのか?
いや、もしかしたら、こんなふうに捕まって「自己言及」するところまでが、シナリオだったのではないか?


率直に言うと、僕はライトノベルにもボーカロイドにもPerfumeにも『ニコニコ動画』にも詳しくないので、この新書で紹介されている個別の事象について、理解できていないのです。
だから、この感想も、「これらの文化をちゃんと消化できている人たち」にとっては、的外れなんじゃないかと思います。

 僕がこの本を通して書きたかったのは、そういうことだった。「何とも言えない、微妙な気持ち」を呼び起こすものが、いま人を惹きつけるようになっている。僕はそれはすごく興味深いことだと思って、人が惹きつけられる理由を考えたいと思った。その結果として導き出されたのが、「残念」という言葉がその核となっているという、本書の主張だったのだ。


ここまでの感想文で、この新書に興味を持った人は、読んでみて損はしないと思います。
とくに「ものをつくる人」には、すごく参考になるんじゃないかな。
個人的には「なんだか、わかったような、わからないような……でも、参考にはなったかな」という印象です。

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