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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】花森安治伝: 日本の暮しをかえた男 ☆☆☆☆


花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男


Kindle版もあります。
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内容紹介
戦後最大の国民雑誌『暮しの手帖』はなぜ、創刊されたのか!? 「これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく」―― 敗戦から三年後の一九四八年創刊。新しいライフスタイルの提案、徹底した商品テスト、圧倒的にモダンなデザインで、百万部にとどく国民雑誌となった『暮しの手帖』。花森安治が生涯語らなかった、創刊の真の理由とは? 希代の編集者の決定版評伝。


伝説の編集者・花森安治
彼がつくりあげた『暮しの手帖』は、戦後の日本の雑誌界で、独自のポジションを保ち続けてきました。
「そこまでやるのか?」と読者でさえ思ってしまうような「商品テスト」は、日本人の消費生活に、大きな影響を与えてきたのです。
そして、花森さん自身も「女装伝説」など、逸話の多い人物として知られていました。

 花森安治の時代をひとことでいえば「戦後」ということになるだろう。
 日中戦争にはじまる長い戦争で大日本帝国が完敗を喫した1945年(昭和20年)から、高度経済成長の60年代をへて、かれの生涯の一冊ともいうべき『一戔五厘(いっせんごりん)の旗』が刊行された1971年(昭和46年)あたりまで――。
 あるいは、戦後の焼跡のなかで半シロウトの手づくり雑誌として創刊された『美しい暮しの手帖』が、やがて『暮しの手帖』とタイトルを変え、「商品テスト」に代表されるヒット企画を連発して、実売部数で100万部をこえる「新しい国民雑誌」と呼ばれるまでの影響力をもつにいたった時代といってもいい。
 その間、いや、そののち1978年(昭和53年)に66歳で急逝するまで、花森安治は『暮しの手帖』というただ一つの砦に編集長としてたてこもりつづけた。


著者は、花森安治の人生をさまざまな資料と取材を通じて辿っていきます。
花森安治は、なぜ、『暮しの手帖』という雑誌にたどり着いたのか?


花森さんは、学生時代から「編集」という仕事に興味があり、「仕事」として学生新聞に関わったりもしていたそうです。
結婚を機に、広告の世界で仕事をはじめた花森さんですが、日中戦争で徴兵され、ソ連満州の国境地帯に派遣されました。
戦地で辛酸をなめた後に肺結核にて除隊となり、日本に戻ってきた花森さんは、太平洋戦争中、こんな「広告」をつくったのではないかと言われています。

 とうぜんハデな宣伝はできないし、やりようがない。そんな時期にあって花森が手がけた仕事がふたつある。そのひとつが「ぜいたくは敵だ!」という「七・七禁止令」にもとづく国策標語の作成である。そして、もうひとつが佐野とともに、発足してまもない生活社という出版社から「婦人の生活」という生活改善双書を刊行したこと――。
 まず前者についていうと、
 ――あの悪名高い「ぜいたくは敵だ!」の作者はどうやら花森安治らしい。
 そんなウワサが、戦後まもないころから知人たちのあいだに流布していた。いやちがうだろう、それどころか戦時中、花森がこの標語をもじって「ぜいたくは素敵だ」とからかっている現場にいあわせたことがあるぞと証言する者もいたし、作者であるのは事実だが、最初から意図して「敵」の語に「素敵」という逆説的ふくみを持たせたのだという説もあった。例によって花森自身がなにも語ろうとしないので、ひそひそ話だけがひとり歩きしていたのである。

著者は、この本のなかで、「花森安治が、『ぜいたくは敵だ』の作者であった可能性は高い」と推測しています。
そしてそれは、「素敵」の逆説的な含み、というような複雑なものではなくて、「広告で人びとにアピールする」という、そのとき課せられていた仕事に花森安治が誠実に応えようとした結果だったのではないか、と。


花森さんは、戦後、徹底した「反戦主義者」であり続けます。
「生活者の味方」であり続けようともするのです。
それは、戦時中に、戦争に対して反感を抱きつつも、「宣伝」という仕事の面白さに引きずられるように、「良い仕事」をしてしまった自分自身への嫌悪感からだったのかもしれません。
もちろん、「生き残るための、カモフラージュだった」という可能性もありますが。


戦後に花森安治が中心になって創刊した『暮しの手帖』は、特異的な雑誌でした。

 よく知られているように、『暮しの手帖』は広告をいっさい掲載せず、企業からのテスト用サンプルや商品の提供も頑固に拒みつづけた。

広告業界の発展に伴い、「広告収入重視の雑誌」が増えていったにもかかわらず、『暮しの手帖』は、そんな時代に背を向け続けたのです。


有名な「商品テスト」は、このように行われていたそうです。

 そこで、まず商品(日用品)テストについて。
 それまでの『暮しの手帖』にも、この種のテスト記事がしばしば掲載されていた。ただし、そのやり方までが最初からきちんと整っていたわけではない。このことを如実に示しているのが、雑誌の二十二号(1953年)と二十六号(1954年)に、まる一年の時間をへだてて掲載された以下の二つの報告のあいだに見られる質的なちがいである。


(1)「暖房 部屋を暖めるためになにが一番安上がりで便利か」(二十二号)
(2)「日用品のテスト報告1 ソックス」(二十六号)


 1950年にはじまる朝鮮戦争による特需によって、日本の社会が来るべき高度経済成長にむけて大股に歩きはじめた。その結果、さまざまな新商品が巷にあふれ、かれらの雑誌でも、戦後まもないころの「廃物利用のすすめ」に加えて、「かしこい商品えらび」ともいうべき記事がさまざまなしかたで試みられるようになった。その代表的なもののひとつが(1)の暖房具調査である。
 これまでは火鉢だけだった暖房具が、社会の変化につれて、練炭ストーブ、石炭ストーブ、石油ストーブ、ガス・ストーブ、電気ストーブと、多様化のきざしを見せている。
 その性能や使い勝手をユーザーの目で具体的に点検しておこうという意図は、のちの「商品(当初は日用品)テスト」と変わらない。ただしこの段階では、調査のレベルは三越高島屋などのデパートでの聞きとりやユーザーの体験談にとどまり、ユーザー自身による長期にわたる実地テストという手法はまだ確立されていない。記事そのものも写真より文字が幅をきかせ、衝撃力や説得力を欠く。うーん、このままではダメだな、と花森ならずとも、編集部のだれもがそう感じるようになっていたのではないだろうか。
 そして一年後、(2)のソックス。酒井寛の『花森安治の仕事』から引用しておく。
「最初のソックスのテストは、子ども用のウーリーナイロンの靴下と、ナイロンを補強した木綿の靴下、二十二種を買い集め、三ヵ月間、小学5年、中学1、3年の女生徒に毎日はかせ、洗濯の方法も回数も一定にして、試験したものだった。そして、『アナはあかない』『色はみなはげる』などと報告した」
 つまりはそういうことなのだ。
 花森たちが「暮しの手帖研究室」を開設したのが(1)とおなじ1953年。そして(2)はその一年後。その短いあいだに(1)とちがって(2)では、「商品テスト」の基本ルールが早くも確立しかけている。テストに企業からの提供品はつかわない。あくまでも部員たちがじぶんで買ってきたものでやるというのもそのひとつ。たとえばクーラーであれば、と唐澤平吉が書いている。
「かならず二台以上、暮しの手帖社が代金を払って購入しています。一台はデパートで、もう一台は町の電気店で買ってきます」「二台買う理由は、製品にバラツキがあったからです。(略)その差があまり激しい場合、どちらがその製品の性能と判断してよいのか、わかりません。三台めを買ってきてたしかめます」(『花森安治の編集室』)
 おなじ商品をいくつも買う(スチーム・アイロンを18台買ったことさえある)のは、テストにつかったものにたまたま欠陥があったので悪い結果がでたのだ、というメーカー側からのクレームに屈しないためだった。おなじ理由で、自社内で「最高の技術者」の派遣をメーカーにもとめ、製品の設置はすべてかれらにまかせるというようなこともやったらしい。

この「商品テスト」についてのエピソードには、本当に驚かされました。
「実験」として考えれば、これが「正しいやり方」だと思うのですが、ひとつの雑誌の記事のために、ここまでやっていたのか、と。
花森安治は「商品テストに失敗したら、『暮しの手帖』はつぶれる」と言っていたという証言も、著者は紹介しています。
花森さんは「商品テスト」こそが、『暮しの手帖』の顔だと考えていたのです。


花森安治という人、そして、『暮しの手帖』という雑誌は、確実に、日本人の生活と「消費者の自覚」に影響を与え続けてきました。
しかし、これだけ影響力が大きい「100万部の雑誌」を持ちながら、花森安治は、『暮しの手帖』以外には自分の文章をほとんど寄稿せず、その作品集も長年出版されることはありませんでした。


著者は、こう述べています。

 大小の差はあれ、ひとつの集団が共通の目的(宗教的、政治的、社会的、芸術的など)を実現するために行動する。それが運動である。しかし『暮しの手帖』の運動はついにそのような意味での集団にはなりえず、あるいは集団になることを拒み、けっきょくは花森個人の運動として終始した。よかれあしかれ、そのようにしかふるまえなかった人だったのだな、という印象がつよい。


もし、花森安治という人が、『暮しの手帖』から打って出て、社会に対してもっと積極的にはたらきかけていれば、もっと大きな影響を世の中に与えていたのではないでしょうか。
その一方で、もしそうしていたら、花森さんがやりたかったこと、やろうとしていたことは、おそらく、歪んでしまったのではないかと思います。
より多くの人に広めるためには、「厳しさ」はほどほどにしなければならないし、お金だってもっと必要になったはずだから。


「そのようにしかふるまえなかった人」だったのだろうと、僕も思います。
でも、だからこそ、「花森さんって、本当は、戦後の世の中をどんなふうに見ていたのだろう」とか、考えずにはいられないところもありますね。