琥珀色の戯言

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【読書感想】カリコリせんとや生まれけむ ☆☆☆☆


カリコリせんとや生まれけむ (幻冬舎文庫)

カリコリせんとや生まれけむ (幻冬舎文庫)


Kindle版もあります。

カリコリせんとや生まれけむ

カリコリせんとや生まれけむ

内容紹介
村上隆奈良美智と並ぶ天才美術家、会田誠。物議ばかりを醸してきた彼の頭の中身はどうなっている?カリコリっていったい何?アートの最前線から、制作の現場、子育て、2ちゃ んねる、中国、マルクス、料理などをテーマに、作品同様の社会通念に対する強烈なアンチテーゼが万華鏡のように語られ、まさに読み始めたら止まらない面白さ! !


 会田誠さんといえば、2012年から13年にかけて森美術館で行われた「会田誠展:天才でごめんなさい」での騒動が僕の記憶に残っています。
 ちなみに、その「騒動」というのは、フェミニスト団体が、会田さんの作品を「人権擁護と児童ポルノ防止の観点から」即時撤去するよう求めた、というものでした。
 このエッセイ集のなかにも、会田さんの作品の写真がモノクロで収録されており、表紙は代表作のひとつ「滝の絵」です。
 まあ、なんというか、僕は現代アートに興味はあるのですが、こういう作品に「説得」されてしまっても良いのだろうか……などと考えてしまうところもあるんですよね。
 面白い、というのと、面白がっていいのか、というのと。


 このエッセイ集、書店に平積みになっていたのを見かけて、オビに「第8回安吾賞受賞」+「『信じられないくらい文章がうまい』とよしもとばななさんも絶賛!」と書かれていたこともあり、パラパラとめくってみたら面白そうだったので購入しました。
 いやほんと、面白いですよ、このエッセイ集。
 会田誠さんって、こんな文章を書くのか、と驚いてしまいました。


 なかでも、いちばん最初のエッセイで描かれている、実家に帰省したときの、母さんとお姉さんのやりとりの回は、僕も似たような体験をした経験があり、「そうだよ、そうなんだよ……世の中、橋田壽賀子ドラマのような『家族』ばっかりじゃないんだよな……」と、共感しまくりです。

 ところで、母が教育的に叱責する時の言い回しや発音の調子は、どこかおかしい。これは僕が子供の時からそうだった。語尾が不自然な男言葉になりがちで、声の調子も野太くなるのだが、どこか演技じみて、板についていない。例えば『奇跡の人』のサリバン先生のような「理想的で厳格な教育者」を、演じようとして演じきれない大根役者のような感じがするのだ。昔は母としての、現在は祖母としての、慈愛を奥に含んだ自然な威厳というものが、そこにはまるでない。だから内容の正しさや妥協しない徹底性や声量の大きさにもかかわらず、その言葉は僕の心にさほど響かなかったし、寅次郎(会田誠さん夫妻の長男)の心にも響かなかったのだろう。
 こういうのが「母の崩壊」「母性の喪失」というやつなのだろうか。戦後民主主義がスタートした時代に女学生だった母は、世代的にど真ん中だった気がする。ましてその後大学の理系に進み、育児を理由に退職するまで中学の教師をやり、ウーマンリブに共感していた母が、昔ながらの自然な母性を喪失するのは当然の成り行きだっただろう。

「昔ながらの自然な母性」とは何か?
そんなことも考えてしまうのですが、こういう「物議を醸しそうな発言」を、あえてぶつけてくるのが「アーティストの使命」なのだと、会田さんは考えているようにも思われます。
そして僕も「そういう面も、あるのかもしれないなあ」と、実体験に照らし合わせてしまうのです。


すごい観察力と、身内のことでも、さらりと書いてしまう度胸。
息子さんが学校で落ち着きがなく、「問題児」として扱われている、なんて話も書かれていて、驚かされます。

 普通のクラスにいては授業妨害が甚だしいので、しばしば緊急避難的に、学習障害のある子が集まる少人数制の「特別支援学級」へ連れて行かれているらしい(最近は体罰を禁ずる代わりに、そのような偽善的隔離政策が一般らしい)。毎晩担任から「本日の息子の悪行」を報告する電話がかかってくる。そしてその「特別支援学級」に正式に編入することもやんわりと勧められた(そのためには精神科医による「障害児」という診断書が必要らしい)。そんなことが続いて、僕はどうやらノイローゼの一歩手前まで来てしまった。ストレス性皮膚炎も酷い。彼女がやったネット検索の履歴を覗き見してみると、「ADHD」「発達障害」「アスペルガー症候群」「フリースクール」「ギフテッド教育」「シュタイナー教育」「モンテッソーリ教育」「全人教育」みたいなキーワードで鬼のように検索していて、その量にゾッとする。最近では夫婦の会話もそんなのばっかりになっている。
 はっきり言って、ウザい。
 学校も教師もどうでもいーじゃねえか。俺たち「星の子(俺が考えたADHD児の自称)」はそんなのお構いなしに勝手に育つんだよ! それより俺は展覧会の絵が間に合わないんだよ! さらには「星星峡」の締切も迫ってんだよ!

「星の子」か……
僕も自分の息子の落ち着きのなさが不安なので(僕自身も、あまり集団行動が上手ではないですし)、自分のことに重ね合わせながら読みました。
どこまでが「病気」なのか、「他人に迷惑をかける」ことは、生きていれば多少なりともあるでしょうけど、どのくらいになると「許容範囲」を超えてしまうのか……


 このエッセイ集のなかには、会田さんが妻・岡田裕子さんに「代わりに書いてもらった回」があるのです。
 そのなかで、岡田さんは、子育てについての悩みを、こう書いておられます。

 ある美術家はわたしにこう言った。
「児童期の自分の問題行動を、過度に親も先生もほったらかしにしておいてくれて感謝している。もし当時それを問題だとされすぎていたら、とても辛い思いをしたと思う」
特別支援教育”の話に戻るのだが、もし集団不適応とされる子どもの全てが、”特別支援学級”という特別に分けられた環境に身を置くのが当然となってくるとしたら、その制度に問題は生まれてこないのだろうか。彼らは、良く言えばストレス少なく生活できるのかもしれないが、この「イバラの道」を排除しすぎて「自分発見」のチャンスを見逃してしまう場合もあるのではないかと心配になるのだ。
 いまだ正直、結論は出ない。そもそも子どもの成長において何がいいか悪いか、など一概に言えるものでもないし、まったく親としての自信もなく、まさに子育て失敗中である。

これも「結果的に適応できるようになった人」からすれば、「ほったらかしで正解」になるのでしょうし、そこで適応することができずなかった子どもは、さらに深刻なダメージを受けてしまうかもしれません。
本当に、わからないんだよなあ……


 このエッセイ集には、現代美術に対する会田さんの考えが言葉として散りばめられています。

 20世紀が始まって以来、形式をことごとく破壊していって、ついには一作家一手法のような超個人主義に行き着いた現代美術では、教育は原理的に不可能なものとなっている。「オレはオレのことしか分からない。キミらの作りたいものなんか分からない。自分の考えをキミらに押し付ける気もない。だから教えることなんか何もない!」というのが偽らざる気持ちだった。
 そういう僕自身が、教わるのが大嫌いな学生だった。教わるのが好きな素直な学生は、現代美術家に向いてないと内心思っている。我に師なし、はたぶん事実だが、それはとりたてて偉そうに語るべきことではなく、現代美術の平凡な一光景に過ぎない。世代間のバトンリレーによる文化的成熟を拒絶したこの業界の未来には、確かに暗雲が垂れこめている。しかしそれを承知で行くところまで行くことにしか、逆説的な可能性はないと僕は考えている。

 現代美術の可能性と袋小路みたいなものを、これだけクリアに述べている文章というのは、なかなか無いと思います。

 中国でつくづく思った。東洋の少女が持つ顔の可憐さを引き立てる額縁は、やはり漆黒の闇のような黒髪に限るし、黒髪は当然ストレートを旨とすべきだ。そして、これが案外重要なのだが、額はあまり見せず、前髪は絶対に作るべきだ! 僕が展覧会に参加したギャラリーのある「798芸術区」は北京のお洒落エリアで、そこに来る流行に敏感な少女たちの間では、すでに前髪の退化が始まっていた、これをアジアの危機といわずして何といおう。アジアの少女たちよ、お願いだから、ヘアスタイルと化粧とファッションに関してだけは、日本から何一つ学ばないで!

 こういうのを読むと、「ああ、会田誠さんらしいなあ!」なんて、ちょっと安心してしまうところもあるんですけどね。
 会田誠さんや現代美術なんて、大嫌い!という人でなければ(たぶん、「エッセイ好き」の大部分の人たちには)面白く読めるエッセイ集だと思います。
 むしろ、会田誠さんを知らない人に、先入観抜きで読んでみてもらいたい、そんな気がするのです。