琥珀色の戯言

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【読書感想】記者たちは海に向かった ☆☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
津波の最前線で取材していた24歳の地元紙記者は、なぜ死んだのか。そして、その死は、なぜ仲間たちに負い目とトラウマを残したのか。記者を喪っただけでなく、新聞発行そのものの危機に陥った「福島民友新聞」を舞台に繰り広げられた壮絶な執念と葛藤のドラマ。


「報道」とは、何だろうか?
そこまでして、「伝える」必要なんて、あるのだろうか?


僕はこの本を読む前、そんなことを考えていたのです。
自分の命を危険にさらしてでも、現場に行って写真を撮り、記事を書くべきなのだろうか?

 2011年3月11日、一人の若者が死んだ。
 死者・行方不明者1万8520人(2014年2月10日警察庁発表)を出した東日本大震災の犠牲者の中の「一人」である。
 だが、この若者には、ほかの犠牲者とは異なる点がひとつだけあった。それは、彼の死が「取材中」にもたらされたということである。
 そう、彼は新聞記者として、大地震と大津波の取材の最前線にいた若者だった。
 福島民友新聞記者、熊田由貴生(くまだ・ゆきお)、享年二十四。
 入社まだ二年のフレッシュな記者だった彼は、ジャーナリストとしての素質とセンスを着々と現し、将来を最も嘱望される人物だった。
 熊田記者の取材を受けたことがある人たちは、
「あの人が死んだのか。彼の記事は、切り抜いて今も手帳に挟んで持っている。温かい記事を書いてくれる記者だった」
「やり甲斐のある仕事にまっすぐ進んでいく、いい若者でした」
 と、彼のあまりに早すぎる死を惜しんだ。
 熊田記者が命を落とした場所は、福島県南相馬市の烏崎地区である。日本を襲った「千年に一度」の大地震は、これまで経験したことがない大津波を福島にもたらした。
 人々を呑み込んだ大津波の中で、熊田記者は本文で記述するように自分の命と引き換えに地元の人々の命を救った。

 
 この本、「殉職」した記者のことを、惜しみ、賞賛するための本なのだな、と思いながら読み始めたのですが、読み進めるにつれ、これは「残された人たちの物語でもある」ということがわかってきました。
 あの大震災で、多くの人が犠牲になりました。
 生き残った人たちは「幸運」だったのだと、僕は思っていたのです。
 もちろん、あんな災害に直面したことそのものが「幸運」なわけがないのですが、それでも、生きていてよかった、と。
 

 しかしながら、これを読んでいると、あの災害で、ギリギリのところで、「生き延びた」人々は、多くの人が流されていくところを目の当たりにしたのです。
 あんな非常時なのだから、まず自分が助かることが最優先で、他人を助ける余裕なんてないのは、仕方が無い。
「その場」にいなかった僕には、そういうふうに思われます。
 でも、「その場」にいた人たちは、「もしかしたら、あの人は、自分が手を伸ばしたら、助けることができたのではないか?」「自分は他人を見捨てて生き伸びてしまったのではないか」と自問しつづけているのです。


 熊田記者の先輩である、福島民友新聞の木口記者は、震災当日に津波の様子を撮影しに出かけます。
 もちろん、あんなものすごい津波がやってくるとは思わずに。

 突如として、砂塵のようなものが前方に巻き上がった。音はそっちから聞こえてくる。
 なんだ、どうしたんだ。
 猛煙が舞い上がる林全体が揺れていた。木口がその林の下に視線を落とした時、信じられないものが木口の網膜に像を結んだ。
 ぐぉーという身の毛もよだつ音とともに、巨大な鍋が樹々を縦に巻き込むように上がっていたのである。
 その時、必死の形相でこっちに向かって走ってくる老人がいることに気づいた。腕には、孫らしい小さい子供を抱いている。そのうしろには、おばあさんらしい女性が走ってくる。
 彼らの後方にある樹々が、大きく揺れていた。
 津波だ!
 撮ろうとしていた目的のものが「そこ」にあった。木口は、反射的にカメラに手を伸ばした。それは、記者としての本能だっただろう。だが、津波は木口に迫っていた。津波がぐるぐると、とぐろを巻きながら向かってきている。
 実際にカメラを手に取ることはできなかったが、この反射的な行動が、のちに木口を苦しめることになる。


 取材より、人の命のほうが大事に決まってるだろ!
 そう言うのは簡単なことだけれども、未曾有の大災害のなか現場に居合わせた記者が、「その瞬間」の写真を撮ろうとしてしまったことは、けっして責められることではありません。
 そもそも、記者が助けようとしても、助かっていた可能性は、そんなに高くはなかったように思われます。
 でも、どんなに周りがそう言っても、本人は、自責の念を消すことができない。


 この本を読んでいると、新聞社のスタッフや記者たち、そして、新聞を配達する人まで、みんなが「報道という仕事」に責任と誇りを抱いていることに圧倒されます。

 福島第一原発から半径20キロ以内の避難区域の中にあった福島民友新聞の「二つの支局」と「十二の販売店」は避難を余儀なくされ、完全なる「空白区域」となった。
 それだけではない。福島民友新聞は、地震当日、あわや新聞発行が危ぶまれる非常事態に陥っている。
 紙齢(しれい)をつなぐ――。一般には全く馴染みのないこの言葉の意味をご存知の方がいるだろうか。
「紙齢」とは、新聞が創刊号以来、出しつづけている通算の号数を表すものである。「紙齢」は、毎日の新聞の題字の周辺に必ず出ている。
 読者はほとんど目に留めていないが、これを「つなぐ」ことは、新聞人の使命とも言うべきものである。


(中略)


 福島民友新聞は、紙齢の「三万八千三百四十一号」目に、これが「欠ける」危機に陥った。
 紙齢が欠ける――創刊以来、毎日、出しつづけてきた新聞が「欠号」になることは、新聞人にとっての「死」を意味するに等しい。
 大震災に伴う非常事態は、福島民友新聞の編集・制作ネットワークに打撃を与え、発行の危機をもたらしたのだ。
 その危機から脱し、社内で犠牲者まで出しながら、福島民友新聞は、震災以来の「三年」をなんとか凌ぎ切った。

 浪江にあった新聞販売店(「鈴木販売店」)では、震災の際に、こんなことがあったそうです。
 店主の父親への取材より。

「うちに、午前中の事務員で請戸から通っている人がいたんだ。あの時、お昼頃、帰っていった。それで家にいるとき、津波が来たんだそうだ。家は流されたけど、家族6人は裏の竹薮に上がって全員助かった。自分も津波に浸かったんだが、何人かは手を引っ張って助けたと言ってたな。しかし、自分も危なくなって、あとは助けられなくて、何人か流されていくのを見た、ということだった」
 しかし、そんな大災害だからこそ、新聞を配らなければならない、と宏二は考えていた。
「民友新聞と読売新聞が夜の0時10分頃、トラックで配送されてきたのよ。普段は一時頃なのに、いつもより早かったの。そのあと、みんな地震でやられているはずなのに、配達員がどんどん店にやって来たんだよ」
 配達員が来るのは、普段は、だいたい午前三時頃である。しかし、彼らも、いつもより早く姿を見せたのだ。
「新聞、来てるの?」
「今日、どうしますか?」
 彼らも被災しているはずなのに、それぞれが新聞配達のためにやってきたのである。その数は、十数人にのぼった。
「危ないから、気をつけて。家があるところだけ配達して」
 鈴木夫妻は、そういう注意を与えて、自分たちも配達に出かけている。

 
 「紙齢をつなぐ」ための、福島民友新聞に関わる人たちの苦闘には、読んでいて驚かされるのと同時に「なんでこんな非常事態に、自分たちの身を危険にさらしてまで、あるいは体力的に無理をしてまで、新聞を出そうとするのだろう? こういうときくらい『休刊』でも良いんじゃないか?」とも僕は思っていたのです。
 でも、読んでいくうちに、そういう自分の「生命第一主義」が揺らいでしまうのを感じずにはいられませんでした。
「こういうときだからこそ、新聞による情報を待っている人が大勢いる」のも事実なのです。
 ネットでは「マスゴミ」なんて叩かれることも多いけれど、非常事態に、命がけで働く人たちもいます。
 「記者」だけではなく、市井の、それこそ「こんなときに仕事をしなければならないほどの待遇で働いているとは思えない人」にも、「使命感」があったのです。
 もしかしたら、「他にどうしていいかわからず、自分の仕事をやることで精神のバランスを保とうとした」のかもしれないけれど。

 木口は、自分の思いを心の底から削り出すかのように言葉を重ねた。そして、「新聞記者」というものについて、こんなことを語り始めた。
「あの三月十一日、十二日の二日間、僕は純粋に、新聞記者として働いたと思うんですよ。あの時、会社と連絡がとれなくなっていました。ということは、会社の仕事としてではなく、記録として、誰かが、この震災の被害を書き残さなければいけなかった。それは、会社に記事として送ることができるとか、できないとか、そんなことではなく、ただ純粋な気持ちでだけでやったことを、思い出します。紙面に反映されるかどうかではなく、純粋に”記録者”として動いた二日間だったんじゃないか、と思うんです。会社というものも超えて、あの二日間、記録者として特化して、あそこにいたのではないか、と。そして、自分には、それしかできなかったのではないかと思います」
 記者とは”記録者”なんだと思います、と木口は何度も言った。
「それを考えれば、あの時、二人を助けようとして自分が死んでしまえば、記録者にはなれなかったなあ、と思います。トラウマは、はっきりいって残っています。新聞記者は、半分は人間であり、半分は記者である、と思います。新聞記者が人を助ける仕事なのかどうかは、わかりません。でも、僕は熊田のことが羨ましいんです。それは、熊田が人間として純粋に、人を助けたと思うからです」
 本当に純粋に熊田のことが羨ましいですよ、と木口は繰り返した。


 思えば、熊田記者のことが語り継がれるのも、こうして「記録した人」がいたからなのです。
 それは、この震災全体のこと、そして、ひとりひとりの犠牲者についても、言えることでしょう。
「記録者になる運命だった人」も、世の中には、たぶん、いるのです。
 でも、「記録者」もまた人間であり、「自分が見ていることしか、できなかったこと」への後悔を、消すことはできない。
 

 福島に根を下ろしていた人たちがみた、「故郷で起こった大震災」の記録。
 ひとりでも多くの人に、彼らが命を削って後世に遺したものを知っていただきたいと思います。

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