琥珀色の戯言

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ノア 約束の舟 ☆☆☆



あらすじ: 夢の中で世界滅亡を意味するかのような光景を目にしたノア(ラッセル・クロウ)。それが神からのお告げであり、全世界を飲み込むほどの大洪水がやって来ると悟った彼は、その日から家族と共に一心不乱になって巨大な箱舟を造る。さらに、生命を絶やさぬようにと、この世の全ての種類の動物を次々と箱舟に乗せていく。だが、ノア一家の前に不安に駆られて箱舟を奪おうとする者たちが立ちはだかる。


参考リンク:映画『ノア 約束の舟』公式サイト


2014年21本目の劇場での鑑賞作品。
平日の昼間って、誰も映画館にいないんじゃないかと思ったのですが、けっこう賑わっていて驚きました。だいたい観客数30人くらい。
普段と違う、ショッピングモール内のシネコンで観たからなのかもしれませんが。


僕はラッセル・クロウさん好き+歴史モノ好きなので、この作品にはけっこう期待していたのです。
人類を滅亡させるような津波と「ノアの箱船」が、どんなふうに映像化されているか、興味もありましたし。


そんな僕を待っていたものは……
うーむ、これ、悪い映画じゃないと思うのです。
映像的な迫力もかなりのものだし(途中、なんだか『ロード・オブ・ザ・リング』みたいになってしまうのですが)、ラッセル・クロウさんの気迫も伝わってきます。
でも、でもなあ、困ったことに、この映画には致命的な難点があって。
僕は、ノアという人間に、全く感情移入できなかったんですよね……
ノアは「忠実な神のしもべ」として、箱船をつくり、動物たちを、ひとつがいずつその中に連れていきます。
しかしながら、それって、裏を返せば、「ノアは、自分の家族以外の人間を見捨ててしまう」ってことなんですよ。
この映画には、そういう苦悩も描かれてはいるのですけど、苦悩しながらも、他の人間が洪水で流されていくのを「穢れた人間を浄化し、世界を清浄にするのが私の使命」という立場を貫くノア。


「穢れた人間側」である僕としては、「神はわれわれの問いかけに答えてくれなかった。神の定めた滅亡の運命に従うのではなく、自分たちの力で生き延びてやる!」という「穢れた人間たちの叫び」のほうに、共感せざるをえないんですよね。
というか、この映画のノアって、人類を救うんじゃなくて、「人類を滅亡させる」(ノアたちも使命を果たしたら子孫を残さず、人間は死に絶える)のが目的ですから、特撮の悪の秘密結社みたいなものじゃないか、と。


こういう作品を観るたびに思うのは、「物語」として文字を読むのと、映像として観るのは違うな、ということなのです。
文字で「ノアは箱船をつくって、生き残った」と書いてあれば「ああ、他の人間はみんな死んでしまったのか、かわいそうに」くらいの想像力しか働かないのですが、映像として、悲鳴をあげる人びとや流される子供などを目の当たりにすると「これは観てるのキツイな……」と。
文字だけなら「神の試練」みたいな感じで読み流すこともできるのですが、映像だと「神って、酷い事しやがるなあ……」って。
うーん、もし「穢れた人間」たちが、実力行使じゃなくて、ノアの家族に頭を下げて「お願いだから、子供たちだけでも助けて……箱船に乗せてやってください……」って言ってきたら、ノアはどうしたのだろう、どうすればいいのだろう?


こういうのこそまさに「信仰が問われている」のですよね。
僕は最近、キリスト教関係の本を何冊か読んで、「神とは、理不尽なことで信仰心を試すがゆえに神なのだ」ということが、観念としてはわかってきました。


『ふしぎなキリスト教』という新書のなかで、『ヨブ記』のあらすじが紹介されています。
ヨブ記』は、旧約聖書のなかでも有名な「諸書」のひとつです。
これは、「神を信じて正しく生きていた『義人』ヨブの話」なのですが……

 それ(ヨブが正しく生きていること)をヤハウェユダヤ教の「神」)が満足していると、サタンがやって来て、こう言います。「ヨブがああなのは財産があるから。それに、子どもも立派だからです。それを奪ってごらんなさい。すぐに神を呪うに決まっています」。ヤハウェはそこで、財産を奪い、子どもも全員死なせてしまった。でもヨブはまだ神を信じていた。「神は、与え、神は、奪う。神が与えるものを感謝して受け取るべきなら、苦難も同様に受け入れよう」。そこで今度は、サタンの提案で、ヨブの健康を奪ってみた。ひどい皮膚病になり、身体を掻きむしって血だらけで、犬に傷口をなめられる。ゴミ溜めに寝ころがる、ホームレスになっちゃった。それでもヨブは、まだ神を信じていた。神とヨブの根比べです。


 そこへヨブの友達が三人やってきて、いろいろ質問をする。「ヨブ、お前がこんなにひどい目にあうのは、何か原因があるにちがいない。おれたちに隠して罪を犯しただろう。早く言え」。ヨブは反論して、「私は誓って、決して神に罪を犯していない。何も隠してもいない」。すると友達は「この期に及んでまだ罪を認めないのが、いちばんの罪だ」。話は平行線で、友達もなくしてしまった。


 ヨブにとっていちばん辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語りかけても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前はわたしに論争を吹っかける気か。なにさまのつもりだ? わしはヤハウェだぞ。天地をつくったとき、お前はどこにいた? 天地をつくるのは、けっこう大変だったんだ。わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。


 さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。そして、ヨブの健康を回復してやり、死んだ子どもの代わりに、また息子や娘をさずけた。娘たちは美人で評判で、ヨブはうんと長生きをした。財産も前より増えた。めでたしめでたしです。ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した。


 神、ひどい……死んだ子どもはどうするんだよ……
 また新しい子どもが生まれたからいいや、っていうことはなかろうに。
 僕にはこれが「めでたしめでたし」だとは思えないのです。
 そりゃ、子どもの死亡率が高い時代であれば、「そういうもの」だったのかもしれないけれども。


 この『ノア』って、このヨブみたいな人を肯定まではいかなくても、ある程度「理解」できないと、主人公に共感するのは難しい映画だと思うんですよ。
 一般的な日本人の宗教観からすると、ここまで信者を試すような「神」は、ちょっと認めがたいのではないでしょうか。
 実は、この映画のダーレン・アロノフスキー監督(『ブラック・スワン』の監督)も、けっこう、「自分たちを滅ぼそうとする神に屈せず、生き延びようとする人間たち」の「往生際の悪さ」のほうを描きたがっているんじゃないかという気がします。
 

 大洪水まで起こして、世界を「浄化」しようとしたのに、いまの世界はこんなもんですからね……
 そう思うと、なんだかちょっと申し訳ない気分になる映画ではあります。
「信仰の世界」に触れてみたい人は、半分勉強のつもりで観てもいいんじゃないかな。
 僕にはこれを「エンターテインメント」として消化するのは無理だった……


ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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