琥珀色の戯言

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【読書感想】サバイバル宗教論 ☆☆☆☆


サバイバル宗教論 (文春新書)

サバイバル宗教論 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)
目に見える政治や経済の動きを追うだけでは、世界は分からない。民族や国家の原動力となり、実際に世界を動かしているのは、しばしば目に見えない宗教だ。宗教を知ることは単なる教養のためではない。今後の世界を生き抜くために必須の智慧だ。禅宗寺院の最高峰、京都・相国寺で行った特別講義の全4回テキスト!


 佐藤優さんが、京都の相国寺という禅宗のお寺で行った特別講義を新書にまとめたものです。
 書店でみかけたときには、講義の口調で書かれているし、けっこう読みやすいのではないかな、と気軽に手にとったのですが、読み始めてみると、かなり密度が濃い本で、話題も多彩で、スラスラ読む、というわけにはいきませんでした。
 これ、本にまとめられているので、わからないところは読み返したり、時間をかけて理解しようとしてみたりできるのですが、「一時停止」がきかない講義としては、かなりレベルが高いのではないかなあ。


 僕にはあまり宗教の基礎知識がないものですから、佐藤さんの「宗教論」よりも、「イランと北朝鮮の結びつきと、イランの核開発を阻止しようと暗躍する西欧のインテリジェンスの暗躍(暗殺や破壊工作も含む)」とかの話のほうを、興味深く読んでしまうんですよね。
こんなスパイ小説みたいなことが、冷戦終了後の世界でも、行われているのか……と。


 佐藤さんは、イランという国と、イランで権力を握っている「十二イマーム派」というイスラムシーア派の派閥について、こんな話をされています。

 この十二イマーム派のドクトリンでは、国家と宗教の指導者は、どこかでアリ(ムハンマドの娘婿)と血がつながっていないといけないということになっていて、11人目のイマームが9世紀の末に亡くなったときに、12人目のイマームがあらわれたけれども、すぐにお隠れになって、目に見えない状態になったという教義をもっています。これを「ガイバ」といいます。このガイバの状態が今も続いているんですが、さらに十二イマーム派の中でもアフマディネジャド前大統領のグループはハルマゲドンを認めています。つまり、危機が来て、この世の終わりになったときに、お隠れになったイマームがあらわれて、正しいイスラム教徒、すなわち十二イマーム派の人たちを守るという教義なのです。
 合理的に考えれば、イランが核兵器を持ったとしても、イスラエルはそれよりも圧倒的に多くの核兵器を持っているので、抑止力理論に従えば、イランは核を使えないはずです。ところが、イスラエルが核攻撃を行っても、お隠れになったイマームがあらわれて、イランを守る、ということを本当にイランの政治エリートが信じているとすると、やっかいなことになる可能性があるわけです。ここの見きわめが世界のインテリジェンス機関の中でもまだついていない。そうすると、インテリジェンスの人たちというのは常に危険なほうのシナリオを取ります。
 もう一つは、イスラエルの首都エルサレムの問題です、エルサレムは、メッカ、メディナに続くイスラーム教の第三の聖地でもあります。「ミラージュ(昇天)」といって、ムハンマドが一日で天に上がってアッラーと会って戻ってきたという伝承のあるアクサ・モスクがあります。そこを核ミサイルで攻撃する可能性は、常識で考えるとありえない。しかし、お隠れイマームがあらわれて、アクサ・モスクを助けるという考え方だと、核攻撃はあり得るんです。ここのところの見きわめができないことが情勢を非常に困難にさせています。


 「12人目のイマームが、核攻撃から守ってくれる」なんて言われても、僕からすれば「えっ?まさか本気でそれを信じているわけ、ないよね?」って感じなのですが、信じている人にとっては「きっとそうなるはず」なんですよね。
 「そういうのをアテにして、核兵器を使われたらたまらない」のだけれども、その教義に基づけば「核抑止理論」なんて、歯止めにはなりません。
 「自分たちは、どんなに攻撃されても無敵状態」になるのだから。
 もちろん、イランの指導者たちも、外部に対しては「そうなるのが当然」だという態度をとっていても、その危険性を考えると、内心では「もし、守ってくれなかったら……」という迷いもあるはずです。
 そのあたりの「見きわめ」というのは、本当に難しいのだろうな、と思うのです。
 平時は理性的にふるまっていても、追い詰められたら、その「教義」に頼ってしまうことだってありえますし。
 

 佐藤さんは、それと同時に、あるいはそれ以上に「そんなイランが核兵器を持ってしまったら、『全世界を敵にまわしても、生き残ろうとする国』イスラエルがイランを先制攻撃してしまうのではないか」とも述べておられます。
 「核戦争は、割に合わない」というのは、日本人の希望的観測なのかもしれません。そうであってほしくはないけれど。


 ただし、「一神教は不寛容で多神教は寛容」という考え方について、佐藤さんはさまざまな宗教を学び、外交の場でそれを信仰する人たちと接してきたことから、こう仰っています。

 たとえば、梅原猛さんの話です。玄侑宗久さんと梅原猛さんの対談集(『多生の縁』文春文庫、2007年)の中で、梅原さんがこんな話をしています。
「私はね、9・11のテロをきっかけに、仏教徒としての決意が強まったんです。あれはキリスト教イスラム教の一神教同士の戦いで、あれを乗り越えるには、もう一回仏教の多神論的な価値を見直さなければならないと思います。一神教は砂漠の産物で、多神論は森の産物でしょう。砂漠のように何もないところだと、一なる神、天なる神の存在が論理的になりたつだろうけど、森の中にはいろいろな動植物が共存しているから、神はたくさんいると感じられる」
 

 これは居酒屋での一杯やりながらの議論だったらいいのかもしれませんが、現実の国際政治や我々が直面している危機を考える上では、極めて危険な発想です。
 これは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』というようなインチキな言説が流通していることとも関係していると思います。一神教でも過激なものもあるし、そうでなく他の宗教との関係において寛容なものもある。本来、一神教というのは寛容なんです。それは、無関心に基づく寛容です。神様と自分との関係において自分だけが救われればいいと考えているわけですから。他人が何を信じているかということには関心が向かないんです。
 たとえば、皆さんの中にムスリムイスラーム教徒)の友達がいるとします。約束をしていた時間に遅刻してくる。相手は何と言うでしょうか。「ごめんなさい」とは言いませんね。「アッラーを恨むな」と言います。「私がここに遅れてきたのは、アッラーが遅れるようにしたからだ」と。
 アッラーと自分の関係なんです。


(中略)


 一方、仏教多神教で寛容な宗教だというのなら、スリランカの内戦はどう見たらいいのか。双方とも多神教ヒンドゥー教徒仏教徒ではないですか。あるいはタイの暴動は、これも仏教徒が行っていることです。特定の宗教が寛容であるとか、特定の宗教が強権的であるというレッテルを貼ることは、実証的に見ればすぐに否定される意味のないことです。しかし、そういうことが流通してしまうんですね。重要なのは、相互理解の前提として、相手の側の内在的な論理をつかむことだと思います。


 結局のところ、「多神教は寛容だ」というのは、「そう思いたい人たちが、自分たちに都合の良い例ばかりを挙げて、優越感にひたっているだけ」なのかもしれませんね。
「自分は、そんな『不寛容な一神教』の信者じゃなくて良かった!」と。
 一神教にも多神教にも「他者に対して不寛容な勢力」というのがあるのです。
 あるいは、人間というのは信仰にかかわらず、争うときには争うものだ、とも考えられます。
 

 この本に収録されている佐藤さんの話には、歴史好きにはたまらない「エピソード」が、たくさんつまっているのです。
 スターリンの息子がドイツ軍に捕まったときのスターリンの言葉とか、19世紀の終わりのロシアにあらわれた、ニコライ・フョードロフという「謎の思想家」の話とか(この人は、「科学技術が発達すれば、人類は人間を生物学的に完全に復活させられるようになる」と考えていたそうです)、「救済の事業として殺す」ことの意味とか、お菓子の「モロゾフ」の由来とか。
 こういう蘊蓄を読むだけでも、けっこう得したような気分になります。
 それにしても、これだけの分量の「講義」を、みんなの前で原稿なしでやっていたのか……すごすぎる。


 この講演のなかで、佐藤さんは、福島と原発について、こんな話をされています。

 その中で一番重要な役割を果たしているのは、玄侑宗久さんのアプローチだと思います。彼は、福島に生きるという一つの選択の中で、もともと自分の出身地が三春だというところから考えている。
 彼の話の中で非常に興味深かったのは、「自分の中に瞬間瞬間に相の違う考えが出てきてしまうんだ」と言っていたことです。「猪苗代湖の南にいい土地があるから、そこに原発の周辺の人たちをみんな逃がしたほうがいい」という気持ちが出てくるんだけれども、同時に、「自分たちのふるさとだからここから離れないで、危険を負担しながらも生きていくべきだ、そうでないと生きていけない人たちもいるのだから」という気持ちも出てきて、まとめることができないんだと。そして自分の考えさえまとまらないのだから、みんなで議論したってまとまるはずはないと。
 彼の寺に日本各地から電話がかかってくるそうです。「なぜ子供たちを避難させないんだ」と。それで、あるとき、かなりきつい調子で言ったんだそうです。「ほうっておいてくれ。我々のところの話だから」と。絶対に正しいという調子で外から言われることが、現地にとってどれだけ負担になっているかということをおっしゃっていました。 
 結論のない問題というのがある。そこで何らかの一つの決断をする。これは、民主的な手続によって選ばれた政治家がやる決断だと思うんです。そうすると、その決断をどう受けとめていくのかを考えるべきだということになってきます。


 世の中には「正解のない問題」というのがある。
 でも、そこでなんらかの選択をしなければならない。
 そういうときに、その決断を、どう受けとめていくべきか?
 たしかに、「答えの出ない議論を、延々と続けていく」よりも、「受け止めかた」を考えるべき状況というのは、あるのでしょうね。
 それにしても、この「絶対に正しいという調子で外から言われることの負担」というのは、いまは「外」にいる人間として、胸を突かれる思いがしたのです。


 佐藤さんの特別講義が、1000円もかからずに受けられると思えば、けっこうお買い得な感じがする新書です。
 けっして「簡単にサラッと読める本」ではありませんが、「読みやすさだけの新書」より、価値があるんじゃないかな。

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