琥珀色の戯言

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【読書感想】集団的自衛権の深層 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
改憲論議が広がるなか、安倍政権は解釈改憲によって集団的自衛権の行使を目指している。推進論の根拠とは何か!? 過去の行使例を精査しながら、その虚構の論理をあばく。


2013年7月の参院選勝利後、安倍政権は、集団的自衛権の行使容認に動くことを明言した。しかし歴史をひもとけば、集団的自衛権は、数々の侵略、勢力圏争いの口実として利用されてきたことがわかる。憲法九条を有名無実化してしまうこの大問題に、私たちはどう向き合っていけばいいのか? 過去の事例を精査しながら、改正派の虚構の論理をあばいていく!


「集団的自衛権」とは何か?
僕自身、知っているようで知らなかったというか、「友達が誰かにいじめられたり、喧嘩しているときには、助けるのが当然だろうし、しょうがないよね。そういう姿勢を見せておかないと、自分がやられているときに、誰も助けてくれないだろうしさ」というような、ものすごく漠然とした「理解」をしていたのです。
アメリカの戦争に巻き込まれるのは嫌だけれども、もし中国や北朝鮮と何かあったときに、アメリカが助けてくれなかったら困るしねえ。
少なくとも、そういう「友達」アピールをすることによって、手を出そうとしている人たちへの「抑止効果」もあるんじゃないかな、とか。


まあでも、これだけ話題になっていることだし、少しは「勉強」しておいたほうが良いかな、と、この新書を手にとってみました。

 よく知られているように、集団的自衛権の行使は、戦後長い間、現行憲法のもとでは禁止されているといわれてきた。それ故に、自民党などの改憲政党は、衆参両院での多数を背景にして、九六条改正を皮切りに、九条の改正にも踏み込み、「国防軍」を設置するとともに、集団的自衛権の行使を憲法の明文上も明確にするとしている。


 冒頭にこう書かれているのを読んで、僕は「あれ?」って思ったんですよ。
「現行憲法のもとでは禁止されているといわれてきた」
「禁止されていた」のではなく「禁止されているといわれてきた」のです。
 憲法に対して、解釈のしかたで「融通を利かせてきた」歴史があるにせよ、「集団的自衛権」に関しては、「憲法上、絶対にダメ」だと言い切れるような状況でもなかった、ということになります。

 本書は、安倍首相がそれほどに執念を燃やす集団的自衛権とは何か、その行使を可能とうすることの是非をどう考えるかということを、さまざまな角度から検証しようというものである。そのため、集団的自衛権が行使された過去の実例はもちろん、さまざまな法解釈などにも言及していく。
 じつは私は、集団的自衛権を全否定する立場ではない。おいおい書いていくことだが、集団的自衛権というのは、国連憲章のうえでは、あくまで侵略された国を助ける軍事行動のことである。どこかの国が侵略されたとき、その国を助けたいという気持ちになるのは、自然なことだと考える。憲法九条を大切だと思う人のなかに、どんなものであれ武力行使はダメだという考えの人がいることは理解するが、侵略された国を助けたいという人びとの気持ちまで否定してしまうような議論をしていては、世論の理解は得られないと感じる。自民党がこの問題を推進する背景にあるのも、侵略された国を助けるという純粋な気持ちを私用する思惑からきている。
 同時に、集団的自衛権を論じるうえで大切なことは、この問題には、侵略された国を助けるなどというきれい事を許さない実態が存在することである。建前は侵略された国を助けるものであるとされながら、実態は侵略の口実になってきたという歴史があるのだ。
 こうして大事なことは、「集団的自衛権」というものが、侵略と自衛という、本来は絶対に両立しないもの、いや正反対であるものを包含する概念になってしまったことである。建前は自衛だが実態は侵略、建前は正義だが実態は不正義、ということだ。


 著者は、第二次世界大戦後に「集団的自衛権」を主張して行使された軍事行動を列挙していきます。

 集団的自衛権をかかげた軍事行動のなかで、戦後はじめての事例は何か。それは、1956年のソ連によるハンガリーへの軍事介入であった。

 これは、ソ連によってナチス・ドイツから解放されたハンガリーが、戦後、ソ連からの独立路線をとろうとした際にソ連軍が介入したものでした。
 

 集団的自衛権が発動されるためには、国連憲章第五一条で明記されているように、ハンガリーに対する武力攻撃が発生することが要件となる。しかし。ハンガリーを攻撃したり、侵略したりした国があったということは、いくらソ連でも論証することができない。そこでソ連がすがったのは、ハンガリー側から要請があったということであった。たしかに、ハンガリーの党内の一部は、ソ連軍出動の要請をしたとされる。けれども、ハンガリー政府は、一度たりともソ連に要請をおこなわなかった。政府が要請した相手は国連であり、その内容は、ソ連軍の攻撃から守ってほしいというものであったのである。
 ソ連の言い分は、国連加盟国の多くを納得させることはできなかった。国連総会は、ソ連が憲章第二条四項の武力不行使原則に違反しているとして、ソ連軍の撤退を要求する決議を採択したのである。
 こうして、集団的自衛権をかかげておこなわれた世界で最初の軍事行動は、「自衛」とは何の関係もない干渉行為でしかなかった。集団的自衛権は、その最初の実例から、不法行為と密接に結びついていたのである。同時に、こうした行動を国連総会が最初から憲章に違反するものとして批判したことは、その後の国際政治のなかで大きな意味をもったといえよう。


 その後も「集団的自衛権」が主張されたのは、1958年のアメリカ・イギリスによるレバノン・ヨルダンへの介入、1964年のイギリスのイエメン介入、1966年のアメリカへのベトナム介入(ベトナム戦争)、1968年のソ連チェコスロバキア侵略、1980年のソ連アフガニスタン侵攻、1983年のアメリカのグレナダ介入、1986年のフランスのチャド介入などでした。
 「集団的自衛権」という言葉は、本来の定義とは異なり、ある国が外部から攻撃され、「自衛」のために戦争をしているというよりは、「大国が他国に軍事介入する際の言い訳」として使われてきたのです。
 そして、これらの主張は、国際社会では、大きな反発を招いていたのです。

 
 著者は、これらの「集団的自衛権の行使が主張されてきた紛争の歴史」を紹介したあと、こう述べています。

 さて、ここまで、集団的自衛権が冷戦期にどう発動されてきたのか、その事例を検証してきた。それをみて、何が分かるだろうか。


 何よりもまず、集団的自衛権を行使した実績のある国の少なさに気づかされるであろう。日本以外みなこの権利を有しているとされるが、実際に集団的自衛権を行使したと表明したのは世界の百九十数ヵ国のなかで、ただの四ヵ国にとどまっているのである。しかも、その四ヵ国とは、米英仏ソという、世界のなかの超軍事大国だけだったのだ。
 日本で集団的自衛権を認めよという人がいつも口にするのは、この権利は世界のどの国もが保有しているものであって、それを行使する国こそが普通の国だということである。そして、日本だけが憲法九条の制約によってこの権利が行使できないことを、国際的に異常であるとして批判するわけだ。
 ところが、集団的自衛権の実態をみるやいなや、その根本のところで、事実関係に違いがあることが分かるのである。集団的自衛権とは、きわめて少数の、しかも超軍事大国だけが行使してきた権利だということである。
 もうひとつ驚かされるのは、現実と建前との乖離であろう。集団的自衛権というのは、国連憲章であれ日本政府の解釈であれ、ある国が「武力攻撃」を受けたとき、その国を援助するために発動される権利だというのが建前だったはずである。アメリカに向かうミサイルを迎撃できないでいいのかとか、近くにいるアメリカの艦船が攻撃されたときに海上自衛隊の艦船が反撃できないでいいのかとか、安倍首相の「懇談会」が提出した「報告書」が強調する事例も、アメリカが武力攻撃を受けるという事態が想定されているわけである。
 ところが、実際に発動された事例をみると、そういうものとはまったく無縁なものとなっている。別にどの国も「武力攻撃」を受けたわけでもないのに、アメリカやソ連などの方が、攻撃をしかけているのだ。
 しかも、発動のされ方が異様である。気づいておられるだろうか。日本政府の解釈によれば、集団的自衛権というのは、「同盟国」を助けるものだったはずである。ところが、実際に発動された事例をみると、その「同盟国」が武力攻撃の対象になっているのである。


……うーむ、日本に、少なくともいまの日本に、この「集団的自衛権」って、必要なんだろうか?
これまで、実際に行使したことがある国は米英仏ソの四ヵ国のみ、しかも、「それって、『自衛』なの?」と疑問になる事例ばかり……
そもそも、他国どうしの戦争に、同盟国として「参戦」できるほどの軍事力を持つ国というのは世界でも限られています。
日本の自衛隊は、たしかに「かなりの戦力」を持っているのでしょうけど……
「他国からの攻撃に対して、自衛のために協力して戦う」のであれば、それが必要な状況も理解できるんですよ。
でも、この「集団的自衛権」という概念は、これまで、「侵略側の言い訳」にしか使われてこなかった。
世界の現状を考えると、アメリカが誰か(というか、いちおう想定としては、北朝鮮や中国、ということになるのでしょうが)に攻撃された際に、日本が「集団的自衛権」を行使して参戦する、というような事態よりも、アメリカの「集団的自衛という名目の軍事介入に、日本が否応無く巻き込まれてしまう」可能性のほうが高いのではないでしょうか。


もちろん、「権利を持っていること」と「それを行使すること」は異なっていて、「権利があることを主張してみせること」が、北朝鮮や中国への牽制になるのだ、という考え方もあるのでしょうけどね。


しかしながら、そういう「メリット」と、かえって他国を刺激したり、紛争に巻き込まれてしまうリスクを比較すると、やっぱり、「いま、本当に『集団的自衛権』を声高に主張するべきなのか?」甚だ疑問です。
「いま、これが必要」というよりは、ずっとその「集団的自衛権」にこだわってきた人が「自分が政権の座にあるうちに」という「事情」で、いま、これが議論されているような気がしてなりません。


著者は、冷戦後の時代の変化について、以下のように述べています。

 本来の集団的自衛権というのは、国連憲章の文面通りの事態がなければ行使できない。加盟国に対する「武力攻撃」の発生ということである。
 しかし、冷戦期の集団的自衛権というのは、くり返し強調してきたように、どこかの国が武力攻撃を受けたから助けるというものではなかった。それどころか、どこかの国に対して武力攻撃をしかけるようなものまで存在していた。そういうことが可能だったのは、米ソのふたつの勢力圏が対立しているもとで、自分の勢力圏内については敵対する相手方に口を挟ませないという政治状況が存在していたからである。
 しかし、冷戦終了によって、勢力圏はまずソ連側については崩壊した。それによってアメリカ側の勢力圏についても、「誰から守るのか」という根本が問われることになった。このような状況下では、かつてのようにあやふやな事態を理由に自衛権をかかげて武力行使にのりだすのは、そう簡単なことではない。集団的自衛権を発動するには、国連憲章が規定する「武力攻撃」の発生という、誰がみても判断の分かれにくい条件が必要とされるようになったのである。そして、誰がみても判断に苦しまないわけだから、安保理でも容易に一致できるということになるのである。
 それは別の結果をもたらした。何かといえば、安保理が容易に集団的自衛権オーソライズできるなら、そもそも各国まかせの集団的自衛権は必要がないということである。国連自身が解決にのりだせばいいのだ。

 湾岸戦争国連の戦争という性格をもって戦われたことの評価については、論者によっていろいろなものがあるだろう。しかし、その後の経過をふまえて振り返ってみると、アメリカなどが勝手にふるまえる集団的自衛権の戦争ではなく、国連安保理が一致した戦争となったことには、国際政治の展望を考えるうえで重要な意味があったと思われる。
 それを考えるうえで指摘したい事実のひとつは、この戦争が、イラク軍をクウェートとの国境から追いだした時点で終了したことである。多国籍軍は、イラクの領内に侵入し、占領するようなことまではしなかったことである。

 湾岸戦争から12年をへた2003年、イラク戦争フセイン政権を打倒する戦争として戦われたことは、アメリカが湾岸戦争で果たせなかった野望の実現という意味をもっていた。その結果が国際社会にもたらした後遺症の重大さを思うとき、湾岸戦争国連が関与したことの意味は、あらためて想起されなければならないだろう。


もちろん、国連が関与したからといって、すべてがうまくいくというわけではありません。
ルワンダユーゴスラビアのように、なかなか事態を収拾しきれない場合もあります。
国連だって、万能ではないのです。


とはいえ、「冷戦の時代」と現在では、世界の枠組みは変わってきています。
日本と中国は、政治的には、仲良しとは言いがたいのですが、経済的には、お互いに不可欠な状態になっています。
製品の工場として、あるいは、市場として。技術や文化の交流先として。
いまの世界で、日本と中国が戦争をして、どちらかが相手を「植民地」にする、なんていうことは、まず不可能なわけで、「やりにくい相手だけど、商売での付き合いはあるし、殴り合いの喧嘩はすべきじゃないな」というのがお互いの「現実的な考え方」ではないでしょうか。
北朝鮮の場合は、なんというか、そういう「打算」が想像しにくい国だけに、怖いところもあるのですけど。


本当に、いまの日本に「各国まかせの集団的自衛権」を声高に主張することが必要なのかどうか?
日本に限らず、それは時代遅れの概念であり、そもそも、これまで行使されてきた事例も、「黒歴史」みたいなものばかりだったのではないか?


僕自身、もっと他の専門家の意見も勉強しなくてはなあ、と思ってはいるのですが、とりあえず、「それが歴史上、どのように行使されてきたのか?」というのを知ることは、その「未来」を予見するために、大きな手がかりになるはずです。

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